ホワイトチャペル・ロードで馬車を拾い、込み合った夜のイーストエンドを疾走する。
ドーセット・ストリートの中ほどで通りに降り立ち、狭いミラーズ・コートの入り口へ俺は駆け込んだ。
そしてそこでは、他ならぬバーネット本人が、俺を出迎えてくれたのだ。
手には紙袋の包みを持っている。
「刑事さん・・・こんな時間までお疲れ様です」
「・・・ああ、こんばんは」
『テン・ベルズ』で俺と別れたバーネットは、家へ戻るとすぐにベッドへ入り、今から20分ほど前に目を覚ましたらしい。
そして不意に、翌朝に食べるものがないことを思いだして、パンを分けて貰うために、大家のマッカーシーを訪ねていたのだそうだ。
「ほら、オレンジも分けて貰ったんですよ。いい人でしょう。それじゃあ朝が早いので、寝直します」
そう言うと、一番手前にある、独立した建物の扉へ彼は入ろうとした。
「あの、バーネットさん」
「はい、なんですか?」
「彼女は、今日はちゃんといるの?」
「ええ、ご心配頂いてすいません・・・それじゃあ、おやすみなさい」
ミラーズ・コートを出てドーセット・ストリートへ戻り、念のためにマッカーシー氏の家も訪ねてみることにした。
郵便受けの名前を確認し、扉をノックすると、ランプに小さな灯りが点る様子が、窓からすぐに見えた。
「遅くにすいません、警察の者ですが、少しお話を伺えませんか・・・」
角灯を手にした寝間着姿の男は、大家のジョン・マッカーシー氏だと名乗り、眠そうなその顔は、40歳ぐらいに見えた。
単刀直入に知りたいことを訪ねる。
「ええ、それで間違いありませんよ・・・」
マッカーシーは面倒くさそうに肯定した。
たしかにほんの少し前までここにバーネットが訪ねてきており、10分ほど話をしたのちに、パンとオレンジを分けてやったと、彼は言った。
「そうですか・・・」
懐中時計を確認すると、時刻は11時50分を示していた。
非常識な時間帯に、続けて二人の訪問客から夜襲を受けた男に、同情を覚える。
「本当にね・・・いい加減にしてほしいですよ」
短い文章の途中で、大きな欠伸を交えながらに、マッカーシーは言った。
「すいません、お休みのところ起こしちゃって・・・」
「いや、刑事さんのことじゃないですよ。・・・まあ、あなたも確かに迷惑なんですけどね、私が言っているのは、あの男と女のことです。仕事を辞めてからも、派手な暮らしぶりを変えないから心配していたら、先月とうとう家賃を納めなかったんですよ。・・・まあ、私も鬼じゃありませんから、食べ物がないって言われたらパンぐらい分けてやらないことはないですけどね、先月からこれで5回目ですよ? まったくどうなっているんだか本当に・・・」
ひとしきり不満を訴え終わると、マッカーシー氏はもう一度大きな欠伸をしながら、家へ入ってしまった。
「あの・・・どうも、お呼び立てしてすいませんでした」
すぐに消えた灯りを見届けて、俺はドーセット・ストリートからトインビー・ストリートへ出ると、そのまま事件現場のウェントワース・ストリートへ急行した。
そして走りながら、改めて頭の中を整理した。
はっきりしているのは、午後11時40分から50分までの時間帯に、バーネットはジョン・マッカーシーの家にいたということ。
ディレク巡査が殺人事件の発生を報告してきたのは、ちょうど11時40分頃のことであり、実際の犯行時刻は、当然もっと前だ。
その時間帯、家で寝ていたバーネットに、今のところアリバイはないし、ドーセット・ストリートとウェントワース・ストリート20番地は、徒歩圏内である。
もっとも一緒に部屋にいたというメアリー・ジェーンが証言すれば、まったく彼のアリバイを証明する人間がいないこともないが、同棲相手の発言となると信憑性が低い。
いずれにしろ、メアリー・ジェーンがいたというバーネットの証言が本当であればの話だが・・・糞っ、なぜ確認してこなかったのだろう。
バーネットがまた嘘を吐いているという可能性も、充分にあったじゃないか。
それに、マッカーシーによると、バーネットは仕事を辞めており、先月分の家賃を滞納しているという。
つい先ほど俺は、本人の口からマーケットで正規雇用の仕事をしていると聞かされたばかりだというのに、である!
そもそも正規雇用で週に3ポンドも稼いでいるというのなら、翌朝のパンを誰かに分けて貰うというのは妙な話で、それもマッカーシーの話ではこのところ頻繁に繰り返しているのだ。
バーネットは、まったく信用できない男だろう。
つくづく自分の騙されっぷりが嫌になった・・・刑事失格だ!
トインビー・ストリートの出口が見えてくると、俺は目を疑った。
「あの群衆は一体・・・」
通りを抜けると、ウェントワース・ストリートであり、20番地というのは、曲がり角付近にある複合ビルのことである。
そのビルの前に男女含めて20人ほどが押しかけて来ており、怒号のような叫びを、拳の突き上げとともに発していた。
「警察は出て行け〜!」
「警察は仕事しろ〜!」
一見したところ、労働者風の男と、貧しそうな女たちは口々に叫びを上げて、押し合いへし合いを繰り返していた。
「下がってください、危険ですから・・・押さないで・・・あ、ゴドリー巡査部長・・・」
「よお、・・・なんか偉いことになってるな」
人垣を押し分けて、漸く中へ入った俺は、他の制服警官達と一緒に、女の躰に触らないように気を遣いながら、押し寄せる群衆を宥めているディレク巡査へ声をかけた。
「そうなんですよ、あれからアバライン警部補と現場へ着いてみると、すでにこの状態で・・・ああ、駄目です駄目です、中へ入らないで・・・」
「ちょっと、あんたどこ触ってんのよ!」
「すいません、すいません、マダム・・・ですが、入っちゃ駄目です、出て行ってください・・・」
「警察はセクハラをやめろ〜!」
背後から聞こえてくる、シュプレヒコールが一斉に切り替わり、心の中でディレクへ同情を寄せつつ、俺は死体が上がったというビルの裏口へ向かった。
「失礼、ミスター。ヤードの方ですか?」
不意に入り口付近で、眼鏡をかけた若い男に呼び止められる。
殺人事件現場の立ち入り禁止区域内にいる俺が刑事であることは、見ればわかるだろうから、この場合のヤードは、本庁という意味をさして言っているのだろう。
「俺はベスナル・グリーン署のゴドリー巡査部長だが、・・・あんたは?」
「申し遅れました、私は『スター』紙のベンジャミン・ベイツです。少しお話を聞かせて頂きたいのですが・・・」
新聞記者だった。
それも『スター』といえば、警察を目の敵にしている、最悪の新聞だ。
「だめだめ、今は時間がないからあとにして・・・」
適当にあしらってビルの中へ入ろうとする。
「アバライン警部補と元CID部長のモンロー警視監に、同性愛の噂がある件について、どうお考えですか」
思わず足を止めた。
「何だと?」
ベイツはしたり顔でニヤリと笑った。
「片や警察の大物で、もう一人は今やロンドン中が・・・、いえ、英国中が注目している事件の、担当責任者です。しかもあのとおりの麗しい容姿・・・その二人が、同性愛だと世間に知れ渡れば大騒ぎですよ。ですが、この国で同性愛は・・・ああ、ヤードの方にこの説明は必要ないですね。とにかく犯罪です。これが報道されると、当然警察の一大スキャンダルとなるわけですが・・・ちょ、ちょっと何すっ・・・」
思わず手が出ていた。
「いい加減なことを言うな。『スター』紙と言ったな。毎日毎日、警察をこき下ろしてくれるのは結構だが、ありもしない話をでっちあげて、しかも個人名を挙げて捏造記事を書いたら、ただじゃおかないぞ。それにさっきも言ったが、俺はヤードじゃない」
「嘘じゃありませんよ・・・ちゃ、ちゃんと証拠は・・・は、放してくださいよ・・・苦しいっ」
蝶ネクタイの首元を締め上げている、俺の拳を、ベイツは必死に引きはがそうとした。
中折れ帽が頭から転がり落ちて、後ろにいた誰かに踏み付けられる。
「大体、お前のところは、いつもふざけた記事ばかり書きやがって、警察と市民を対立させて、こういう騒ぎを扇動している責任は、マスコミにだってあるんだぞ。新聞さえ売れれば、それでいいのか? いい加減な記事を書いて、警察批判を繰り返し、市民を煽って現場で騒動を起こさせて、捜査の足手纏いになっている反省は、少しもないのか!?」
「そんなの・・・ただの言い訳・・・じゃないですか・・・だから、息ができないですって・・・放して・・・」
ベイツが顔を真っ赤に染めて、俺の胸を拳でポンポンと叩き始めた。
だが、俺は完全に頭に血が上っていた。
行き詰まっている捜査。
聞き込みに向かう先々で耳に入ってくる、警察への不満や非難。
捜査に非協力的な人々。
それもこれも、『スター』紙のような新聞が書き立てている、無責任な記事が悪いんじゃないか。
「おまけにアバライン警部補のことを、何も知らないくせに、ありもしない話まで捏造しやがって・・・」
「だから捏造じゃないって、さっきから・・・」
「じゃあ証拠出せよ。何が同性愛だ、ふざけたことをぬかしてると・・・」
「ふざけているのはお前だ、ジョージ!」
不意に背後から聞き慣れた声が、厳しい口調で俺の名前を呼んだ。
俺はベイツを締め上げていた手の力を緩めて、ビルの入り口を振り返る。
開け放たれた扉を背にして、ヘイゼルの瞳に怒りとも呆れともとれる表情を湛えたアバラインが、胸の前で両腕を交差させながら、こちらをじっと見つめていた。
「フレ・・・ッド・・・」
俺の手から逃れた途端に咳き込み始めたベイツが、その合間に苦しげな声で言葉を絞り出す。
「クリーヴランド・ストリート・・・・19番地・・・気になるなら、調べてみて・・・くださいよ・・・」
その言葉は、恐らく、間近にいた俺にしか届いていなかったと思う。
「いい加減な事を言うな」
それでも俺は、ベイツの言葉を否定して、今度こそビルの入り口へまっすぐに向かった。
「警察が罪もない市民を暴行していいのか!」
聞き覚えのある声に、走りながら群衆を振り返る。
「ラスクか、やはりな・・・。ジョージ、さっさと来い」
俺が玄関へ到着するより、一瞬早く、アバラインは群衆に背を向けて、ビルの中へ入っていった。

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