キャピタル・リバー・ビルの正面玄関を入り、突き当たりの角を曲がって左側に、裏庭への出口があった。
「うわ・・・これは酷いな」
まさに血だまりと化したような、殺人現場が、そこに待っていた。
ルウェリン医師は鞄を持ったまま、まだ遺体の傍に立っていたが、どうやら仮の検死は終えていたようだった。
彼は俺の到着に気が付くと、バックス・ロウでそうしたときのように、やはり容赦なく遺体に掛けられていた布を、大きく捲り上げて見せてれる。
惨殺とは、こういうことを言うのだろう
「刺し傷は全部で21箇所、そのうちの8箇所は内臓に達している。2箇所が性器を狙って傷つけられていた。凶器は銃剣か、こういう解剖用のメス。犯人は両利き。あるいは、右利きと左利きによる2名の犯行」
そう言いながらルウェリンは、一度仕舞った自分のメスを、わざわざ取り出して俺に見せてから、すぐに所定の位置へ戻した。
「ってことは、つまり・・・・」
いつかどこかで聞いたような、検死報告内容。
「マーサ・タブラムの遺体と酷似している」
アバラインがやや限定した言い方で、俺が言おうとしたことを引き継いでくれる。
「それで、あの・・・今回もやっぱり、解剖はあったんでしょうか」
ニコルズの遺体は、解剖されようとしていた・・・ルウェリンの見解では、そうだった筈。
「いや」
俺の質問に対し、ルウェリンは短く否定の回答を示した。
釈然としない。
「警部補・・・ちょっと変な感じがするんですが・・・」
「言ってみろ」
アバラインが促してくれるが、俺は口籠もった。
それは本当に、感覚的なものでしかなく、今のところ、一連の事件が同一犯であると見て追っている捜査方針に、真っ向から反発するものだったからだ。
アバラインは、タブラム殺害の犯人とこの犯行は、少なくとも同一犯の手による可能性が高いだろうと、今も認めたし、非常に酷似した手口であることから、俺の目にもそう見える。
だが、一連の殺人が全て同一犯だと仮定してしまうと、どうしても違和感が生じるのだ。
タブラムが殺されたのは8月7日で、今日は9月2日。
酷似した手口である2件の間に挟まっている、8月31日に殺されたニコルズの遺体は、同じく鋭利な刃物による殺害だが、使われ方がかなり違う。
ルウェリン医師の言葉を借りれば、ニコルズの遺体は解剖されかけていた。
仮に、タブラム殺害とこの事件が先に起きて、ニコルズの殺害が最新のものであったなら、まだ納得はいく。
娼婦を悪戯に傷つけるだけだった犯人が、やがて凶行に興奮を覚えて、遺体の解剖を始めた・・・不謹慎な言い方になるが、それは犯罪の進化だ。
しかし、ニコルズへの犯行で一旦解剖に走った犯人が、再びただの破壊行為へ戻るというのは、心情的に理解が難しい。
現状では、4月に起きたエマ・スミス殺害も含め、警察はすべて同一犯と仮定しているのだが、それにしても、ここに来て犯行内容が後退したことには変わりない。
そもそもスミスの事件に至っては、現場レベルでは、もともとストリート・ギャングの犯行という見方が強かったぐらいだ。
死因も、複数犯による暴行の末、腹膜炎によって死亡している。
同じウェントワース・ストリート界隈で起きた、娼婦の殺害と言っても、刃物が使われた後の2件とは、状況が全く違う。
現場の巡査達は、この界隈を根城にしている、オールド・ニコル・ギャングの不良少年達が犯人グループだと、最初から言い切っていたのに、8月にタブラムが殺されて、同一犯だと上層部が決めつけたから混乱が起きたのだ。
スミスの事件は明らかに別の事件だとして、さらに・・・。
「俺にはこれが、ニコルズ殺害と同じ犯人だとは・・・思えないんです」
そうとしか、俺には判断ができなかった。
遺体に厳しい視線を向けていたアバラインが顔を上げて、俺を見つめた。
ヘイゼルの瞳が、鋭い眼光で俺を射貫いてくる。
「なぜ、そう思う」
「傷が・・・あまりに不規則すぎる。なんだか、矢鱈滅多に刃物を振るっていて、殆どの傷が刺し傷ではありますが、ニコルズの遺体は、もっと傷口が長くて”切られて”いました。それにこの遺体の首は無傷です」
ニコルズは首の傷からの出血多量が、死因となっていた筈だ。
「私はタブラムの遺体を見てはいないが、検死報告を見る限り、この犯人と同一犯である可能性は否定できんと思う。だが、私が検死をしたニコルズとこの仏さんの犯人が、同一犯でないことは、私が断言する。・・・すまないが、そろそろいいかね」
「ええ、ありがとうございました。ルウェリン先生、検死審問ですが・・・」
「わかっておるよ。明日だろうが、明後日だろうが、呼んでくれたら、ちゃんと行く」
「すいません。お疲れ様です」
相変わらず不機嫌を隠すこともなく、ルウェリン医師は自分の仕事を終えると、さっさと現場から去ってしまった。
もっとも、日中は医院の仕事があり、怪我人が絶えないホワイトチャペルで、患者はひっきりなしに来るのだから、こんな深夜や早朝に呼び出されたら、不機嫌にもなるだろう。
ひとまず遺体は安置所に運ばれ、ちゃんとした検死解剖は翌日午前中に行なわれることになった。
数時間後に、ふたたびルウェリン医師が呼び出されるというわけである。
「少なくとも今回の容疑者は、早くに特定できるだろう」
遺体を指差しながらアバラインが言った。
「足跡・・・」
スカートの端に、はっきりと残された靴の跡。
それは確かに大きな証拠であった。
「もうひとつ、この遺体に関わった人物が残してくれた置き土産がある」
「まだ、証拠物件があるんですか?」
今回の犯人は、随分と迂闊すぎるんじゃないだろうか。
「精液だ」
「せい・・・」
涼しい顔でその単語を口にするアバラインを、俺は直視することができなかった。
「どうかしたか、ジョージ?」
「いえ・・・べつに。つまり、その・・・遺体と関係を持った男が怪しいってことですよね」
「その通りだ。・・・残念ながら、必ずしもそれが犯人だと断言できるものではないが」
確かにそれは別問題だが、大きな手がかりになることは間違いない。
少なくとも、その男の所持品から、スカートの跡と同じ靴が見つけられたなら、犯人である可能性がずっと高くなる。
ひとまず遺体の男関係を洗い出すべきだろう。
そこで気になることがひとつあった。
「あの・・・今回もやっぱり街娼ですか?」
「名前もはっきりしない時点で、断言できんが、この時間帯に微酔い気分で外を彷徨いている、堅気の女はそういないだろうな」
「やっぱり・・・」
事件解決に結びつくような男関係の情報なんて、あってないようなものだ。
彼女が生きていたとして、関わった男の顔や名前など、いちいち覚えてもいないだろう。
ビルの玄関側へ引き返しつつ、まだ群衆が居残っていることに気づいた俺は、反射的にアバラインの前へ進み出た。
「ジョージ・・・?」
「俺の方がガタイでかいですから、・・・その、またあの記者がいたら、鬱陶しいでしょう」
「そんなこと・・・べつにしなくても・・・」
あの蝶ネクタイと帽子、間違いない。
彼も眼鏡の向こうから、俺たちの姿をずっと目で追っていた。
ベイツと目が合う。
「いいから、フレッドはずっと後ろを歩いていてください。外に出たら一気に走って、馬車へ乗り込みましょう・・・もうすぐ出口です、行きますよ」
「ジョージ、誤解だから・・・」
「えっ?」
思わず足を止めた。
「いつかちゃんと理由は説明する・・・だが、今は・・・」
クリーヴランド・ストリート19番地・・・ベイツが言っていた話のことだろう。
アバラインと元CID部長の警視監。
嘘だと信じたかった・・・だが、彼がこういう言い方をするということは、けして全てが嘘というわけではないのだ。
「わかってますよ・・・だって、相手はお偉いさんですもんね・・・」
情けないことに、声が震えてしまった。
けして認めたくはないのだ・・・こんな話。
「だからそうじゃなくて・・・!」
「やめましょう。記者が見ています。ここで揉めたら、また何を書かれることか、わかったもんじゃないですよ」
俺は嫉妬している・・・。
けれど、相手が上層部である以上、俺のような下っ端刑事が下手な口出しをすれば、却ってアバラインに迷惑をかけてしまうことになる・・・。
「けど、お前は誤解しているから・・・」
彼とて、好きでそんなことをしているわけではないのだろう。
だったら、俺が彼を助けて、自分のものにしてしまえば・・・。
至近距離にまで近づけられた綺麗な面・・・その唇を今すぐここで奪い、警視監に穢された美しい肢体を、古ぼけたビルの壁面へ押し付けて、白いその肌の外にも内にも、余すところなく自分の印を残して・・・。
「放してください。そんな風にされると、俺だって我慢できなくなりますよ」
馬鹿か、俺は。
上着の襟に掛けられていたアバラインの拳を、上からそっと握りしめる。
固く結ばれた、骨張っているその手が、面白いほどに震えていた。
高ぶった彼の感情が嫌でも伝わってくる。
イカれた妄想は、自慰をするときだけにしろ、ジョージ。
そんなことをすれば、モンローと同じじゃないか。
相手を思うなら、少なくとも今は、彼を宥めて静かにここを立ち去るべきだ。
掌の内にある拳から、不意に力が抜けてゆく。
そのまま軽く押し返すと、あっけなく白い手は俺から離れて、だらりと彼の両脇へ垂れた。
俺は再び前を向き、アバラインを出口へ誘導する。
「馬鹿野郎・・・」
罵りの言葉とは裏腹に、悲しそうな声の響きが、後ろから投げつけられた。
玄関を出ると、容赦ない糾弾が、俺たちに飛んでくる。
飛んできたのは言葉ばかりではない。
固い大きな物体がどすんと肩に当たって、地面に落ちた。
「ったく、どこから持ち込んだんだよ・・・」
足下に転がったそれや、他にも次々と同じように投げつけられた物が、すべてキャベツだとわかって俺は呆れたが、アバラインはまるで何も気づいていないように、終始無言だった。
物が彼に当たらないように、できるだけ壁際を歩かせて、俺は群衆から彼を庇うことに専念した。
背後にはすぐに駆けつけてくれたディレクが立って、同じようにアバラインをガードしてくれた。
どうにか馬車へ辿り着き、彼を乗せると、すぐに出発するように御者へ命じる。


(第1部・了)


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