『ゴドリー巡査部長の事件簿〜バックス・ロウ殺人事件〜』
・・・ ・・・ 第2部 ・・・ ・・・ 「遅れてすいません・・・」
会議室の扉を開けると、捜査資料を片手に立っていたアバラインが、鋭い視線で俺を睨んだ。
「いいから早く座れ」
「はい・・・。すんません・・・そこ、いいですか? すんません、どうも・・・」
夕べと同じ服装のままであったアバラインは、被害者の名前が新たに増えている黒板へ向き直ると、途中まで書きかけていた被害状況を、白いチョークで完成させてゆく。
どうやら彼は、あのまま署へ泊まったようだ。
俺はとりあえず、空いている席へ腰を下ろす。
「お疲れ様です、巡査部長。・・・あの、終わった後でいいですから、できれば着替えられた方がいいですよ」
配付資料を手渡してくれたニールが、こっそりと耳打ちしてくる。
「ん・・・、どっか汚れてるか?」
思わず自分のスーツを見下ろしたが、そんな様子はない。
よく考えれば、明け方に一旦家へ戻り、服を着替えてから出て来ているので、それほど汚れている筈はないのだ。
「いえ。ただ、・・・その、ちょっと臭いが」
ニ−ルが苦笑した。
「ああ、そうか。・・・すまん」
見渡すと何人かの連中と目が合ったが、直後に全員から逸らされた。
そしてみんな、資料へ目を落とす振りをして顔を顰めたり、咳払いがてらに鼻を摘み続けたりという、ゼスチャーを見せている。
・・・とてもいたたまれない気分だった。
「ところで巡査部長、イーストエンドの流儀7か条っていったい・・・。あ、すいません」
引き続き、俺に何かを言いかけていたニールが、小声で誰かに謝って、口を噤んだ。
どうやら今後の捜査方針について説明をしていたアバラインに、視線で注意されたらしい。
とりあえず俺は、ロッカーに着替えのスーツやシャツがあったかどうかについて記憶を辿ってみる。
明け方に家へ戻った俺は、仮眠もそこそこに済ませてベスナル・グリーンの自宅を出ると、シティのビリングスゲート・マーケットへ向かった。
ビリングスゲート・マーケットは、年間12万5千トン以上もの魚介類を売買している、ロンドン最古の鮮魚市場で、180の店子を持ち、許可証を持所持した運搬人が2千人もいる。
そのうち、正規雇用で仕事を請け負っている者は600名。
とにかく、巨大なマーケットだ。
市場におけるジョウゼフ・バーネットの評判は、まずまず悪くはない。
「とても働きモンの青年だよ。・・・なんで、あんなことしちまったかねぇ」
活きの良い鰈を店頭へ並べながら、ロニーという名の痩せた男は教えてくれた。
「あんなこと?」
「盗みだよ。鯛とか鮃とか、イカとか、・・・こっそり持って帰ろうとしているのを、警備に見つかっちまったらしい。・・・10年間も真面目に働いてきたってのに、勿体ない話さ。女が悪いんだろうね。娼婦と付き合うようになるまでは、こつこつと金を貯めて、兄弟で支え合ってやってきたってのに、ダニーも気の毒だよ。・・・ちょっとそこ退いてくれるかい、・・・ああ、置いといて構わないよ、下手に手ぇ出されると、却って邪魔だ」
ロニーが持っていた箱を受け取って、後ろにある空の木箱へ重ねようと、俺は手を出したが、彼は俺を押し退けると、自分で上に積んだ。
そして別の箱を持って行き、今度は海老を並べてゆく。
「ダニーっていうのは誰のこと?」
「ジョーの兄貴さ。二人ともずっとここで仕事していたんだ。あそこは早くに親父が亡くなってね、母親がすぐに男と逃げちまったから、当時14歳だったダニーが、幼い弟や妹を食わせてやりながら、ちゃんと学校にも通わせたんだ。本当に偉いよ。で、10年前の法改正のときには、シティからここの労働許可証を揃って取得してね、二人とも正規雇用で仕事していたんだが、・・・ジョーが盗みなんか働いちまったもんだから、ダニーだっていられなくなるだろ。可哀相に一緒に辞めちまったんだよ・・・ああ、お客さんだ。悪いね、刑事さん。こんぐらいでいいかい」
その後俺は、何人かの運搬人夫からも同様の証言を確認し、捜査会議が始まる1時間前には、マーケットを出発するつもりだったのだが。
「おぉっとっ・・・、兄ちゃん危ないじゃないか!」
「うわっ・・・、す、すいませんっ・・・」
重ねた木箱を、自分の身長よりも高く積み上げている運搬人夫と、通用口付近でぶつかった。
魚がそこらじゅうに散らばって、箱へ詰め直すのを手伝い、さらにはお前が商品を台無しにしたのだと非難され、やむなく半分だけ弁償をしてから、マーケットを後にした。
男は全額弁償しろと要求してきたのだが、ぶつかった責任の半分は、自分の視界を完全に塞いでいた男にもある・・・というより、全面的にそちらの責任だと、本当は言いたかった。
しかし、なんで刑事がこんなところを彷徨いているんだ、・・・などという話になってしまうと、またしても警察批判に繋がりそうな気がしたので、適当に諦めて要求された金額を支払ってきた。
一日一食ぐらい誰かに奢って貰わないと、今月は絶対に苦しいだろう・・・。
本当は地下鉄に乗るつもりだったのだが、電車を待っている時間もなさそうなため、馬車を拾ってホワイトチャペル・ロードを目指したのだが、これもまた裏目に出た。
オールドゲイト・イーストで、のんびりとしたデモ行進に巻き込まれてしまったのだ。
途中で気づいて馬車を止め、裏道に入って迂回してくれと御者へ伝えたが、時既に遅く、その段階ではすでに四方をデモ隊に取り囲まれていた。
届け出があるデモなら、交通整理をされている筈・・・つまり無許可のデモだ。
そう思うと腹立たしかったが、文句を言っても始まらない。
諦めて馬車を降りた俺は、そこから署まで走った。
ホワイトチャペル署の玄関を入ったときには、既に会議が始まって15分が過ぎていた。
扉を開けて最初に目が合ったのはアバライン。
次に見たのは、なんとロバート・アンダーソン・・・・こういう時に限って、なぜかCIDの警視監まで会議に出席している。
手元の資料に目を落とす。
タイピングされた文字列の横に、幾つか走り書きがあり、それがアバラインの筆跡だと気づいた。
思わず、今後の捜査方針について説明を続けている彼を見る。
最初に手にしていた資料はもう持っておらず、それがニールを通じて俺に回してくれたアバラインの物だと、漸く気が付いた。
「ジョン・パイザー・・・?」
ふと表紙の上に書かれた、文字に目が止まる。
聞き覚えのない名前が誰を指すのかは、とりあえず半分しか会議を聞いていない俺には、とうとうわからずじまいだった。
午前10時過ぎに散会し、さっさと部屋を出て行こうとしているアバラインを、俺は後ろから呼び止める。
「なんだ」
部屋の出口で足を止めた彼は、ちらりとだけ俺を見たが、すぐに視線が逸らされた。
態度が少し余所余所しいものに感じられたが、朝からそんなことを気にしている余裕はない。
とりあえず俺は今朝早くに行ってきた、ビリングスゲート・マーケットでの情報と、夕べ現場で合流する前に、ミラーズ・コートで聞いたことを纏めて彼に報告した。
「その・・・夕べの件については、報告が遅れてすいません。それから、会議に遅れてごめんなさい」
「いや、それはいいのだが・・・・お前、会議はちゃんと聞いていたのか?」
「えっ・・・、まあ半分だけですけど。あ、資料も回してくれて、有り難うございました」
アバラインが渡してくれた資料にも、一応全部目を通した。
捜査方針としては、依然これまでと大差があるようには思えない。
エマ・スミス殺害から一連の事件は、同一犯である可能性が高く、俺たち現場の刑事は付近の住民への聞き込みの徹底。
特に、移民の屠殺業者や靴職人へ注意を怠らないこと。
その他の具体的な指示や目新しい情報、変更事項などはなし。
お偉いさん方は、民衆の噂話と新聞報道に踊らされて、刑事の尻を叩くだけ・・・今までと同じだと、俺は理解した。
正直に言えば、夕べ現場でアバラインやルウェリンと交わした会話は、何だったのだと俺は文句を言いたかった。
しかし現場で見た物、聞いた事が、会議では話題にもされないことなど、日常茶飯事だ。
ここで彼に文句を言っても仕方がない。
アバラインが直接捜査の指揮を執っているといっても、彼とて上層部との板挟みだ。
彼らが白だと言えば、烏でもトマトでも、白いものとして押し通すしかないのだ。
いちいち気にしていたら、きりがない。
「資料に男の名前が書いてあっただろう」
「ああ・・・ええっと、パイザーでしたっけ」
「今夜、その男の家に踏み込む」
「はいっ!?」
思わず俺が大声で聞き返すと、アバラインは目を剥いて俺の腕を引っ張り、部屋を出た。
会議室に残っていた何人かの刑事がこちらを見ていたが、アバラインは扉を閉めて、俺を引きずり、地下への階段を下りていく。