「今朝方、グラントさんに雇って頂いたので、今日から『イエロー・ローズ』の従業員として、勤務を開始しました」
しかしながらも、凛とした少年の明瞭な声が、俺の質問へ理路整然と答える。
今日・・・ということは、従業員用のあの部屋にいた彼は、まだ客をとっていなかったということだろうか。
「いつ『マダム・マギーの家』を辞めたんだ」
「昨日です」
「なぜだ。・・・君もあの店は、良い人ばかりだと言っていたじゃないか」
アザミはふいに表情を曖昧にすると、視線を下げた。
「お客様から・・・・・・苦情があったそうです」
「苦情?」
「なぜ外国人を置いているのかと・・・・犯罪者予備軍をこの店は雇っているのかと・・・・僕は、そんなこと・・・」
褐色の瞳が見る見る潤み始め、大きな目から透明の滴が、一筋流れた。
「アザミ・・・」
一度決壊した涙腺は、少年の意思で止めることは叶わず、とうとうアザミは掌で顔を覆って泣き出してしまった。
俺は再びベンチへ腰を下ろすと、彼の肩を抱き寄せる。
「刑事さん・・・僕は、何も悪いことなんかしていない・・・、なのに・・・なんで外国人っていうだけで・・・」
「わかっている・・・君は何も悪くはない。俺たちがいけないんだ・・・」
警察がユダヤ人であるジョン・パイザーを逮捕したことで、もはやイーストエンドにおける外国人排斥のムードは露骨になっていた。
あの段階でパイザーを逮捕したことは、確かに間違いとは言えなかっただろうし、本人を保護する意味でも必要なことだった。
しかし同時に、逮捕という大きな出来事が、それ以前から住民たちの間に鬱積していた反ユダヤ感情を、表立って口にするひとつのきっかけになってしまったのだ。
その風潮は、他の外国人コミュニティーへも、少なからず影響を与えた。
アザミも、そんな社会的風潮の被害者になった。
言うまでもなく、俺たち警察が、娼婦殺しの犯人を、さっさと逮捕していれば、すべてのトラブルは起きていないのだ。
その後アザミは、詳しい経緯を聞かせてくれた。
アザミについて店に苦情を言った客は、アザミもよく知っている『マダム・マギーの家』の常連客であり、彼曰く、本当はとても優しい良い人・・・ということだった。
そのような客が、なぜ突然に、アザミのことを人種差別とも言える表現で、店に苦情を申し立ててきたのかはわからない。
それでも店主の、通称マダム・マギーこと、マーガレット・シーモアは、最後まで客の言いなりにならなかったらしい。
「マダムはずっと僕を庇ってくださいました。お客様は僕を外国人だと言ったけど、僕はれっきとした英国人ですから・・・そうは見えないだけで」
「君の国籍は、イギリスだったのか・・・」
「はい。生まれは日本でしたが、イギリスへやってきたのは1歳のときです。暫く父と母と、3人で暮らしていましたが、そのときに英国籍を取得しました」
初めて触れる、アザミの生い立ち。
たしか、家はドーセット・ストリートにあって、日本人の母親は亡くなったと言っていた。
「父親はドーセット・ストリートの家に?」
尋ねると、アザミは少し悲しそうな顔をした。
「いえ・・・父とは一緒に暮らしていません。その・・・彼には、別に・・・家族がいますから」
「別の家族・・・」
父親は、アザミと彼の母親と・・・それ以外に家族がいる・・・そういう意味なのだろう。
尋ねて良いものかどうか、迷っていると。
「母は元々、外交官である祖父とともに、ロンドンに滞在していました。そのときに、あるパーティーの会場で父と知り合い、付き合うようになったらしいです。そして、妊娠に気づかず母は日本へ戻り、帰国後暫くして僕が生まれました」
淡々と語り始めたアザミの声は落ち着いて、少年らしいしっかりとしたものだった。
祖父が外交官だというアザミの母方の親族は、裕福で上流階級に属する筈であり、パーティーで知り合ったというからには、彼の父親も、それなりの身分である筈だった。
そんな二人を両親に持つアザミが、どういう理由によって、ホワイトチャペルで救貧院や娼家で働き、流浪の生活をしているのか・・・。
なぜ打ち明ける気になったのかも、俺にはよくわからないが、アザミは話を続けた。
そして彼の身の上に起きた出来事は、俺の想像を遙かに超えていた。
「僕を生んだことで夏目家を勘当された母は、愛する父を頼り、僕を連れてふたたびロンドンへやって来ました。そして暫くは親子三人で暮らしていたのですが、あるとき僕らの家へ女の人が訪れました。その人は・・・当時、僕はまだ英語が話せませんでしたから、今思うと、普通の英語だったのかもしれませんが・・・彼女は僕が知らない言葉で泣き叫び、恐らく母を酷く罵っていました。そしてそれ以来、父が家にいることが、めっきり少なくなったんです。・・・やがて母は僕を連れて、一軒家だったその家から、小さなロッジング・ハウスへ引っ越しました。それを機に、完全に僕らの前から父は姿を消したのですが、僕はそれを父の仕事のせいだと思っていました。もともと父は忙しい人でしたから・・・」
つまり、アザミの母親が帰国中に、父親は別の女と結婚をしたか、あるいは元々結婚していたにも拘わらず、アザミの母親を妊娠させたということなのだろう。
それでも彼は、父親の役目を果たそうとした・・・アザミの母親を愛していたということだ。
しかし、夫の浮気に気づいた正妻が、愛人を囲っている家・・・それも一軒家だというのだから、彼はかなりの資産家らしい。
あるいは男と正妻の別荘だったのかも知れないが、そこへ乗り込み、アザミ親子を追い出した。
アザミは続けた。
「暫くして、僕らの家に、ある男の人がやって来るようになりました。その人は父の従兄弟で、僕らの生活を支えてくれました。そしてまもなく母はその人と結婚しました」
よくある話だろう。
元はちゃんとした家柄の娘だといっても、外国人であり、女であるアザミの母親が、幼い子供を抱えて男の元を離れたとなると、生きていくことすら難しい筈だ。
そんなときに二人の生活を支えてくれる、それも子供の父親とは無縁ではない男が近づいてきたとなると、事情をよく知った上で協力を申し出てくれているわけで、それだけでも安心できる。
「けれど・・・そのときには、もう母の躰は病に蝕まれていて、間もなく他界しました」
「そうだったのか。・・・それからは、君のお父さんの従兄弟の・・・ええと」
「ビル・・・ビル・クリスティです。父と同じで役者らしいです・・・舞台を見たことはないんだけれど」
「君の父親は、役者だったのか・・・?」
「はい。・・・ええと、今も辞めたわけではないんですが」
「なるほど・・・道理で」
バランスの良い顔に、すっきりとした目鼻立ち。
どちらかというと東洋的な顔の造りは、むしろ日本人の血を濃く引いていると思われるが、そうなると母親もさぞかし美貌の持ち主なのだろう。
そして人を惹きつけるアザミの色香は、舞台で衆目を集める父親から受け継いだものかも知れない。
「母が亡くなってからは、ビルと二人で暮らしました。けれど間もなく・・・・」
そこでアザミは一旦言葉を切った。
「間もなく・・・どうしたんだ?」
震えている・・・いや、見間違いか。
褐色の瞳は長い睫をやや伏せて、ある一点を眺めていたが、彼の視線を追ったところで、敷石しか見つからなかった。
具合が悪いのなら、本当に病院へ連れて行こうかと、言いかけたところで、漸くアザミは話を再会した。
「暫くしてロッジング・ハウスから追い出されたんです。・・・・ビルは役者と言っても、殆ど仕事がなくて、食べていくのも精一杯でしたから」
「そうなのか・・・」
しかしそのビルという男は、アザミと彼の母親を養っていたのではなかっただろうか・・・だからこそ、彼の母親はビルと結婚をしたわけで。
いや、それは俺の単なる思い込みで、単純に恋へ落ちたというだけだったのかもしれない。
アザミの長い沈黙・・・・その過程の出来事は、本当に辛くて簡単には言葉に出来なかったのだろう。
可哀相に。
「刑事さん・・・?」
着物の膝に置かれていた、アザミの手を握りしめた。
俺の名を呼び、直後にアザミは掌を上に向け、細い指を重ねてくる。
その指に、俺も自分のものを絡めたが、抵抗はされなかった。
指先に当たる絹の手触りが心地よく、その下から伝わるしなやかな脚の感触と、微かに白檀の香りを放っている少年の高い体温に、目の眩むような感覚を覚えて、意識するなと自分へ言い聞かせる。
このままアザミをベンチへ押し倒したいと思っていた。
阿保か俺は。
「・・・それからドーセット・ストリートの家に、ビルと引っ越したのか?」
「それは・・・違います」
アザミの表情が困惑しているように見えた。
握りしめた掌へ、少し力が入っている。
なんだろう・・・この感じは。
アザミは続ける。
「・・・僕はビルと別れて、仕事を探したんです。自活をしようと決めたもので」
「自活・・・ええと、それって最近の話だったのか」
ぼんやりと聞いていたせいか、時間の流れについて、どうやら誤解が生じていたらしい。
そういえば、アザミの話はそういう説明が一切されていなかった。
「それほど最近ということでもないですが、自活を決めたのは2年前です」
「15歳か・・・なるほど」
そのぐらいの年であれば、ロンドン中に自分で生活をしたり、あるいは働き手の一人として家族と支え合っている少年が、いくらでもいた。
そのビルとやらも、役者の仕事で生活を立てられないのであれば、アザミが自分で生きていこうと決めるのは、当然かもしれない。
となると、ドーセット・ストリートの家にいるのは、そのビルということだろうか。
そして彼の父親がそうであったように、すでにアザミ以外の家族を作り、そこに住んでいるのだとしたら・・・・アザミが憐れで仕方がない。
「色々と仕事を探し歩いたんですが、なかなか上手くいかなくて・・・いつしか、ホワイトチャペルへ流れ着いて、救貧院で夜を過ごすようになっていました。そこである女性と知り合って、その人に定期的な仕事が見つかったときに、彼女が一緒に救貧院を出ようと誘ってくれたんです。彼女には5歳の女の子がいたのですが、僕のこともまるで息子か弟のように、ずっと面倒を見てくれて・・・。救貧院を出てからは、暫くの間、3人でドーセット・ストリートの小さな家に住んでいました。本当に優しい人でした。救貧院でも他の住人達と上手く折り合えない僕を、いつも庇ってくれて・・・」
見るからに外国人のアザミは、救貧院でもおそらく浮いていたことだろう。
その女性の存在は、きっと大きかったに違いない。
そしてようやく出てきた、ドーセット・ストリートの家。
「それじゃあ、なぜその家を出ようと思ったんだ? ・・・その女と、何かあったのか」
『マダム・マギーの家』で会ったあの夜、自分は家に戻らない方が良い・・・・アザミはそう言っていた。
「まさか・・・彼女には本当に、いくら感謝をしても、足りないぐらいなんです。僕が生きていられるのは、恐らく彼女のお陰ですから。・・・だから、どうかせっかく掴んだ幸せを、手放してほしくはなくて」
アザミは慈しむような顔でそう言った。
「・・・・その女性は、ひょっとして結婚したのか?」
「はい。・・・と言っても、正式に籍を入れたかどうかは、わからないんですが、仕事を探し歩いて僕が家に戻ると、しょっちゅう恋人が来ていましたから」
「そういうことか」
たとえアザミの外見が少女のようでも、中身は一応男だ。
若い男が一つ屋根の下で暮らしているとなると、それは確かに、相手の男にとって良い気はしない。
ましてやドーセット・ストリートとなると、長屋の狭い一室か、独立した家だとしても、ジョウゼフ・バーネットが住んでいる、ミラーズ・コートで見たような、シングル・ベッドと机と椅子を入れたら、玄関のドアもまともに開くことができないような、こぢんまりとしたものである。
アザミが遠慮をするのも、当然なのだろう。
その男が相手というならまだしも、アザミが女とそういう行為に及ぶとは、とても俺には想像ができないのだが・・・、ひとまず生物学的には、間違いが起きないことも、なくはない。
「家を出たのが、確か8月31日だと言っていたな」
「はい。刑事さんと初めてお会いした日です」
あれから家に戻っていないのは、見ていればわかる。
そして『マダム・マギーの家』へ拾われ、そこを追われて『イエロー・ローズ』へ行ったが、その職も失ったということだ。
どうしても確かめておきたいことを、俺は思いきって質問した。
「『イエロー・ローズ』では、男に躰を売ったのか?」
アザミは困惑した目で俺を見た。
またしても、繋いだ手に力が入っている。
「まだ・・・何もしていませんでした。僕は今日、雇われたばかりでしたから」
まだ。
つまり、アザミはあそこが、どういう店かわかっていて、雇ってもらったということなのだろう。
「君はまだ若い・・・どうして、あんな店で、娼婦のようなことを・・・」
「刑事さんは、ホワイトチャペルがどんなところか、ご存じないんですね」
「何・・・」
「いや・・・ホワイトチャペルだけじゃない。ロンドンが・・・この、今や世界一豊かな国と言われる、大英帝国がどんなところなのかも、よく知らないんだと思います。僕の母は梅毒で死にました。父に捨てられたあと、何人もの男と寝ていたみたいですから、誰かに移されたんです」
「どうして、そんな・・・」
思いがけない話の展開に、戸惑った。
「男と寝ることで、金銭を得ていたからです・・・娼婦だったんです」
「外交官の娘だった筈だろ・・・そんな女性が、なぜ・・・」
「僕を育てるため・・・いや、それ以前に、食べていくため、生きるためですよ・・・そんなことしか、できなかったんです」
「・・・・・・・」
「何もホワイトチャペルに限らない。どこだって同じなんですよ・・・外国人に、ましてや子供がいる女に、まともな仕事なんて見つかりはしない。それが人口過密なホワイトチャペルなら、なおさらです。僕だって、好きでホワイトチャペルへ来たわけではありません。それでもウェストエンドは物価が高いですし、トラファルガー広場にいれば、警官に追い出されますしね」
「君もあそこにいたのか・・・」
血の日曜日事件。
チャールズ・ウォーレン警視総監の命令で、野宿していた浮浪者が追い出され、抗議デモが起こり、多くの負傷者が出たことから、そのように呼ばれている。
今や警察批判の代名詞のような出来事だ。
「でも誤解しないでください。・・・僕はまだ、一度も売春をしたことがありませんから」
そう言って首を傾げながらにっこり微笑むと、褐色の瞳に俺を映し出した。
長い睫が何度か瞬きを繰り返し、薄く開いた口元からは、真珠のような前歯が小さく覗いて、濡れた赤い口唇が、誘うように微かな息を吐き出した。
一度も売春をしていないとアザミは言う。
だが、男に抱かれたことがないとは言っていない。
匂い立つような彼の色香が、処女性とは縁遠いもののように、俺には感じられた。
それとも、役者だという彼の父親譲りの、演技なのだろうか。
そうだとすれば、アザミは俺を誘惑しようとしているのか・・・いや、これはあまりにも自惚れが酷過ぎるだろう。
「君はこれから、どうするつもりなんだ」
俺は一旦アザミから視線を逸らした。
このままでは彼に惑わされてしまいそうだった。
それでも繋がれた手を解く気になれなかった時点で、俺は自分の行く末を決めていたのだろう。
「そうですね・・・また仕事を無くしてしまいましたし、当てもないですから・・・また救貧院にでも戻ります。ペパーミント夫人のお話も、嫌いじゃないですし・・・」
ペパーミント夫人といえば、俺も来週、彼女と約束をしていてことを思い出した。
サイードと別れて、大英帝国へ戻ったジェシカ・スウィーティーが、その後どうなったかを聞きに行きがてら、アザミに会いに行くのも悪くはない気がしたが、既にそれは選択肢のうちに入っていなかった。
「俺のところに来い」
「え・・・」
怖くてアザミの目を見られなかった。
自分の下心を見透かされるのではないかと思った。
「狭苦しいフラットだけどな・・・それでもまあ、君一人泊めてやるぐらいは、どうにでもなる。大家が詮索好きで、自治会長もちょっと五月蠅いが・・・それ以外は、まあまあ良いところと言えるだろう。・・・一緒に住んでいる奴もいないし、彼女も今はいないし・・・」
俺は何を言っているんだと思った。
これでは、恋愛対象としてアザミを見ていると、自分から宣言しているようなものである。
「ありがとうございます、・・・・刑事さん」
「いや、その無理にとは言わないし、心配なら、俺は何晩か署のソファ・ベッドで寝ても・・・・えっ?」
勝手に言い訳を繰り広げて隣を振り返り、目を細めて嬉しそうにしている無邪気な笑顔と視線が合った。
「とても助かります。・・・では早速、図々しいですが、今夜からお世話になってもいいですか?」
恥ずかしそうに頬を赤らめながらアザミが質問した。
異論などあるわけがない。
「もちろん! ・・・本当にいいのか?」
「え・・・?」
思わず不安になって、念のために確認すると、アザミが首を傾げてみせた。
「いや、何でもない。だったら、さっそく君を送るよ」
そうと決まれば善は急げである。
俺はアザミを連れてオールドゲイトまで出ると、馬車を拾い、ベスナル・グリーンのフラットへ向かった。
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