コマーシャル・ストリート署を出た俺は、まっすぐ家へ帰らずに、一旦、ドーセット・ストリートへ立ち寄った。
ここへは数日前に、バーネットの家を訪ねたとき以来の訪問だったが、あのときと同じで、深夜にも拘わらず通りは人で溢れ、娼家や安宿が窓辺に出しているランプの火で、どこも昼間のように明るかった。
アザミからは特に詳しい住所も、家族代わりだったという女性の名前も聞いてこなかったが、ドーセット・ストリート自体は130メートル少々の短い通りである。
もっとも、ミラーズ・コートのような小さな路地は、ホワイトチャペルじゅうに存在している。
そして、入り組んでいるそういった場所には、届け出があるものから無許可のものまで、星の数ほど存在している安宿が、一晩につき4ペンス程度の料金で、貧困に喘ぐ人々を住まわせているのだ。
それこそ『イエロー・ローズ』にいた少女達のように、狭苦しい部屋へ他人同士が押し込められている例も枚挙に暇がないし、アザミがかつて住んでいたという家が、もしもそんな場所だったら、今夜中に探し出すのは難しいことだろう。
考えだしたら切りがない。
とりあえずドーセット・ストリートへ入り、手当たり次第に聞いてみることにした。
「それならターナーの貸間長屋に住んでる、ノーマのことじゃねえか?」
ベル・レーンからドーセット・ストリートへ入って、すぐに捕まえた労働者風の男が、そう俺に教えてくれた。
曲がり角に建っている賑やかなパブ、『ホーン・オブ・プレンティ』へ、彼は入ろうとしていたようだった。
バーネットの行きつけで、ロンドン・ドライ・ジンを出してくれる、あのパブである。
「女はノーマという名前なのか?」
立ち話へ付き合ってもらうために、男に煙草を出してやると、彼はそれを1本口に咥えて、俺のライターから火を貰った。
「悪いな。・・・ああ、ノーマ・ホイットマン・・・最近じゃあ、そっちの名前で通ってるな。男がジェフ・ホイットマンっていうのさ。以前は確かに、東洋人の女の子と一緒だったが、一週間ぐらい前から見かけなくなったなあ・・・。器量の良い子で、みんなで寂しいなって言ってたんだよ。変な男に捕まってなきゃいいが・・・刑事さん、あの子がどうしてるか、知らないかい?」
「ああいや・・・残念ながら。邪魔して悪かったな。ありがとう」
男に礼を告げて、俺は『ホーン・オブ・プレンティ』の前から早速、長屋へ向かって移動する。
アザミは果たして、変な男に捕まったということになってしまうのだろうか、と自問しながら、今度は『ターナーの貸間長屋』を探して歩いた。
ドーセット・ストリートの真ん中辺りまで入ってくると、『クロッシンガム簡易宿泊所』と、営業時間を終了している『トンプソン青果店』の間に、1メートルほどの幅しかない抜け道があった。
明かりが皆無で通りの名前も確認できなかったが、足元に注意をしつつそこを抜けてみる。そして俺は、どうにか目的の場所へ辿り着いたらしいと確信できた。
公共水道でバケツに水を汲んでいる女に尋ね、ノーマ・ホイットマンの家を発見する。
「ああ、出てきたよ。あの子がノーマだ」
水差しを持って、小さな扉から出てきた金髪の女は、見たところせいぜい20代後半。
草臥れたワンピースと、汚れたエプロン、袖を捲った細い腕にはひび割れた陶器の水差しを持っており、ノーマは真っ直ぐにこちらへやって来た。
「こんばんは、ノーマ・ホイットマンさんですか?」
尋ねると、化粧っ気のない痩せた顔へ、ノーマは警戒心を顕わにする。
「じゃあ、ノーマおやすみ」
俺に彼女を紹介してくれた女は、通りの一番奥にある部屋へ入っていった。
俺はノーマに身分を明かし、単刀直入にここへやって来た目的を告げた。
「アザミを知っているの・・・!?」
ノーマの表情ががらりと変わる。
「ええ、色々あって、現在は私のところで預かっています」
そう告げると、ノーマの表情が和らいだ。
「そう・・・じゃあ、あの子は無事なんですね」
その後ノーマは、一週間前にアザミが突然いなくなったと言い、その後彼がどこで何をしていたのかを知りたがった。
「仕事を探して、色々と渡り歩いていたようですが、とりあえず危険な目には遭っていないと思いますよ。彼はあなたに幸せになってほしいと、願っているようです。とても感謝していました」
ノーマは不意に、泣きだすかと思うほど顔を歪ませ、声をつまらせた。
「・・・馬鹿ね、本当に。あたしのことなんか気にしなくていいって、あれほど言ったのに。・・・自分こそあんな酷い目に遭っていたのに、人のことばかり気にして・・・」
そう言うと水差しを持ったまま、その手の縁に顔を押し当てて、涙を拭った。
俺はハンカチを渡してやり、ノーマが落ち着くのを暫く待つ。
彼女の言葉が、とてもひかかっていた。
「すいません・・・アザミは救貧院で、一体どんな目に・・・?」
他の宿泊者達と打ち解けられなったアザミを、庇い続けて救貧院から連れ出したのが、このノーマだ。
どんな環境に彼はいたのだろうか。
「陰口を叩かれ、寝具を奪われたり、水道を使わせてもらえなかったり、色々と・・・よくあることです。うちの子も、色々とされていたみたいですから」
「そういえば、小さなお子さんがいらっしゃるんですよね」
「ええ。6歳なんですが私も救貧院を出てから、自分の子供が嫌がらせを受けていたことを知りました。想像はしていましたが、やっぱり、本当に虐められていたことを知らされると、ショックが大きかったです。でも、あの子のことも誰かが守ってくれる筈だと信じて・・・だから、私もアザミを守ろうと決めたんです」
「そうだったんですか」
救貧院では、入居時に家族同士が引き離される。
ノーマにとってアザミを守ることは、彼女の娘を守る代替行為だったのだろう。
そうすれば、きっと誰かが彼女の娘を守ってくれるだろうと・・・根拠がなくても、そう信じてノーマはアザミを庇い続けたのだ。
「その、あなたの娘さんは・・・誰かが、ちゃんと守ってくれていたんですか」
「はい。小さな騎士が現れたみたいですよ。今も毎日ここにやって来て、あの子にヤモリやネズミをプレゼントしては、泣かせています」
「・・・趣味は合いませんでしたか」
彼の愛が伝わるのは、まだ当分先のことなのだろう。
ふとノーマの顔が曇る。
「救貧院は確かに酷いところでしたが、アザミにとっては、そんな場所ですらも、まだ安住の地だった筈です」
「家を出て、色々と渡り歩いていたらしいですね・・・外国人に見える若い彼にとっては、けして楽な経験ではなかったでしょう」
救貧院へ辿り着く前の彼は、ウェストエンドから仕事を探し回ってホワイトチャペルへ行き着いたと言っていた。
トラファルガー広場で夜を過ごしたこともあると。
しかしノーマは素早く首を振って否定した。
「そういうことではなくて、彼の家族の話です」
「家族というと?」
母親が娼婦をしていたり、父親に捨てられたりという、あの話だろうか。
確かにそこからは、苦労しか窺い知れないが・・・。
「あの子からは、何も聞いていらっしゃらないようですね。・・・だったら、あたしも言うべきではないのかもしれません。でも、あなたが刑事さんで、あの子を保護して下さっているのなら、・・・・絶対に、あの子を父親の元へは返さないでください」
ノーマは強い口調でそう言った。
「父親って・・・俳優をしているという、あの・・・」
そういえば、俺は名前を聞いていなかった。
「俳優・・・そんなものは、口だけですよ。あの男は役者だなんて嘯いて、ろくに仕事もしないで、あの子に物乞いのような事をさせていたんです」
「そうなんですか?」
話が違うと思った。
アザミの母親は外交官の娘であり、俳優の父親とパーティー会場で知り合った筈だ。
もっとも、愛人であった母親は、父親と別れた後で娼婦に成り下がったらしいが、その後は父親の従兄弟であるビル・クリスティと知り合って・・・そういえば、このビルも役者だと言っていた。
そして、家賃が払えず下宿を追い出され・・・ビルはその後、どうしたのだろうか。
「それだけなら、あたしもここまでは言いません。あたしだって・・・偉そうなことは言えませんから。でも、断じて娘に暴行はしません・・・するはずがない。まして、レイプなんて・・・仮にあたしが、レズビアンだったとしても、あの子が血の繋がらない子だったとしても、断じて考えられない・・・だって、愛してますから」
「一体・・・それは・・・」
急激な話の展開に、俺はまったく付いていけずにいた。
誰が誰を暴行していたというのだ。
愛する我が子を・・・アザミが、・・・誰に?
しかも・・・・レイプ・・・!?
「あの男は・・・ビル・クリスティは・・・、あの子の母親が亡くなったあと、幼いアザミに働かせて、自分は家で飲んだくれて、あの子を慰み者にしていたんです。毎日のように聞こえてくる子供の泣き声に、長屋の住人が警察へ通報して、アザミはやっと保護されました」
「何だって・・・・」
本人から聞いていた話とかけ離れていた。
いや・・・・よくよく考えてみれば、アザミはビルと暮らした日々について、俺には何も明かしていない。
ただ、再婚後に母親が間もなく亡くなり、その後はビルと二人で暮らしていたが、食べていくことが出来ず、家を出たと・・・、そのときは既に15歳だったと。
15歳・・・・一体何年間、アザミはビルから暴行を受けていたというのだ。
その後ノーマは、保護されたアザミが、一旦、実の父親であるポール・ジョーンズに引き取られたと言った。
ポール・ジョーンズ・・・・驚いたことに、アザミの父親とは、現在ライシアム・シアターで『ジキルとハイド』の舞台に立っている、有名な俳優の男だった。
道理でアザミが、父親の名前を伏せたわけだ。
だが、アザミが言っていた通り、父親には別に家族がいるため、ジョーンズの妻である、メラニー夫人と上手く行かず、アザミはジョーンズ家をすぐに出て、自活の道を選んだ。
そしてホワイトチャペルへ流れ着いたということだ。
公共水道でノーマと話をしていたのは、10分ほどだっただろうか。
不意に子供の泣き声が聞こえ、続いて妻の長話を非難する男の声が聞こえて、ノーマが焦る。
「ごめんなさい、あたしもう帰らないと・・・」
「そうですね。こちらも、引き止めて申し訳ありませんでした」
もう一度男の声が聞こえる。
今度は彼女の名前を、はっきりと呼んだ。
そして、餓鬼を黙らせろと・・・・・。
「刑事さん・・・アザミにはいつでも戻ってきていいと・・・あなたが気にすることはないと、そう伝えてもらえませんか」
不意に街灯が、それまで影になっていた彼女の顔を、顕わにする。
俺は息を呑んだ。
彼女の白い顔には、明らかに誰かに殴られたような痣が、目の周りと口唇の端に、はっきりと残っていたのだ。
「はい、伝えておきます」
そう告げると、ノーマは水を溜めた容器を持って、さっさと男の元へ帰って行った。
そして、自分が見たこと、聞いたこと・・・俺はそれらを、アザミに一切話すつもりはなかった。



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