ベスナル・グリーンの自宅へ戻ったのは、1時過ぎ。
一応扉をノックして暫く待ってみるが、扉が開くことはなく、自分で鍵を差し込む。
「あれ・・・?」
不用心なことに、玄関には鍵がかかっておらず、奇妙に感じたが、慌てて出かけたため、施錠を忘れたのだろうと判断した。
同居初日の夜に、新妻のごとき愛らしいアザミが、眠い目を擦りながら出迎えてくれるという、俺の妄想は当てが外れたようだった。
時間を考えれば、確かに難しかっただろう。
それでも、先に俺のベッドで眠っているアザミに、こっそりと近づいて、化粧を落としたあどけない顔に、ただいまのキスをしたり、悪戯をしかけて起こしてやるのも一興だ。
もちろん、そのまま彼をその気にさせて、朝まで寝かせるつもりはない。
「アザミ、遅くなって・・・」
寝室は人の気配が感じられず、カーテンが引かれていない窓からは、煌々と月明かりが差し込み、明るい色のカバーをかけたベッドが無人であることを、一瞬のうちに把握した。
トイレだろうかと考えたが、確かめる前に、キッチンの机に準備された夕食と、皿を重しにして置かれているメモ用紙に気が付いた。

『ジョージへ

お夕食、あなたのお口に合うことを祈ります。
台所に置いてあったお野菜とお肉を使っちゃいました。
それと、シャツとスラックスとベルトも借りますね。
勝手なことをして、ごめんなさい。
色々と助けてくれて、本当にありがとうございました。
近くに、父が住んでいるようなので、そちらへ行きます。

追伸:ベッドの下を、よく探してみてください。

あなたを愛しています。

アザミ』


手が震えた。
アザミは出て行ったのだ。
「何だよ、これは・・・」
俺が勝手な妄想を頭の中で膨らませて、彼を求めたせいだろうか・・・それでも、こうして健気に夕食を作ってくれたり・・・。
ああ、そして、俺を愛しているとも言ってくれている。
アザミは義理の父親の性的虐待に苦しめられていたのに、俺は彼に・・・しかも、その話を聞かされても尚、俺は彼を自分のものにしようと考えて、部屋へ入ったではないか。
愛想を尽かされて、当然だ・・・アザミはそんな俺の下心に、気づいていたのだ。
「親父の元へ、帰っちまったんだな・・・」
彼の父親は、あの有名なポール・ジョーンズだ。
現在ライシアム・シアターで公演中の舞台、『ジキルとハイド』では、ジキル氏の友人である、弁護士のアタスン役を演じていただろうか・・・。
アタスンと言えば、物語の前半部分における、主人公も同然の重要な役だ。
もっとも、俺は舞台を見ていないから、脚本がどこまで原作に忠実かはわからないし、今回はジキル博士とハイド氏を一人二役で演じている、アメリカ人俳優、リチャード・マンスフィールドの、真に迫る演技ばかりが評判になっている。
それでも、あれだけ話題を呼んで、エドワード王子まで劇場で鑑賞されたというのだから、演劇そのものが素晴らしいということだろう・・・機会があれば、俺も足を運んでみようか。
椅子へ腰を下ろし、煙草に火を点ける。
近所にいるらしい父親と一緒に暮らすなら、またいずれアザミにも会えるだろう。
「・・・・・・近くに父が住んでいる・・・?」
改めて手紙の文面に目を下ろした。
よく考えろ。
ここはホワイトチャペルと大して治安に差がない、下町のベスナル・グリーンだぞ。
どうしてそんなところに、ライシアム・シアターで舞台に立っているような、大物俳優のポール・ジョーンズが住んでいるというのだ。
「どっちの父親のことを言っているんだよ、アザミ・・・!?」
俺はメモを放り投げ、部屋を飛び出した。
今さら、彼を義父の元へ返すわけにはいかなかった。
フラットの玄関を出て、通りへ飛び出したはいいが、そこからどちらへ向かって行けば良いのか、まるでわからない。
「畜生っ・・・アザミ、どこにいるんだ! おい、アザミ!」
無駄な足掻きとわかってはいるが、それしか手段が思い浮かばず、とにかく彼の名前を叫びながらあちこち走り回る。
道行く人が、次々と俺を振り返った。
このことがフラットの大家に知れたら、いくら公務員とはいえ、不審人物と見なされて、部屋を追い出されてしまうだろうか。
いや、大家のゴードウィン嬢は許してくれるかもしれないが、自治会長のオースチン・サマーウップスが黙っていないだろう。
俺がたびたび、ゴードウィン嬢から飯を貰っていると知って以来、彼はすっかり俺に挨拶をしてくれなくなっている。
こんなことを耳にすれば、間違いなく入居者一同から署名を集めて、俺を追い出しにかかることだろうし、それをいいことに、心配をしている振りをしたゴードウィン嬢が、また俺の部屋へ上がり込もうとすることだろう・・・ああ、面倒だ!
「ゴドリー巡査部長・・・・!」
不意に路地から呼ぶ声が聞こえて、振り返るとニールがこちらへ手を振っていた。
「ジョン・・・なあ、この辺で東洋人の少年・・・いや、少女を見かけなかったか?」
ランタンを手に、駆け足でこちらへやって来てくれたニールへ、俺は質問をした。
彼は先程アザミを見ていた筈だが、動転していた俺はそのことをすっかり忘れていた。
「少女は知りませんが、女の子のように可愛い少年のことだったら、心当たりがありますよ。そのことであなたを呼びに参りましたから。巡査部長、切り裂き魔が現れました。そして被害者の名前は、さきほどあなたのお宅にいた、アザミ・ジョーンズという少年です」



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