ニールに案内をされて、ベスナル・グリーン署へ向かう。
アザミはかすり傷程度の怪我だと彼が真っ先に教えてくれなければ、俺はその場で叫び声を上げていたことだろう。
ニールの話によれば、俺の部屋を出たアザミはウェイヴァーズ・フィールズを歩いていたところ、見知らぬ男から、いきなりナイフを突きつけられたらしかった。
アザミの悲鳴を聞いて、巡回中のタイト巡査が駆けつけたところ、男が逃げようとしたので、取り押さえて現行犯逮捕に至ったということである。
男はジェフリー・ウェイン・クーパーという名前で、ステップニー・ウェイに住む25歳。
ナイフを所持しており、アザミを殺すつもりで近づいたと自供しているらしい。
「殺すつもりだと・・・? 何者なんだそいつは。被害者と知り合いなのか」
フラットがあるヴォス・ストリートから、ベスナル・グリーン・ロードへ正に出ようとしていたその足を、思わず止めてニールに確認した。
殺意を素直に認めるということは、怨恨ぐらいしか考えられないが、17歳のアザミがそれほどの恨みを、誰かに買うというのは想像しにくい。
通り魔的な犯行をイメージしていた俺には、尚さらだった。
「いえ、被害者は知らないと言っていますし、被疑者もそのような自供はしておりません。・・・その、近づいた動機は恐らく、強姦だったのではないかと」
言いにくそうにニールが言った。
それを聞いた俺は、再び駆け足になっていた。
玄関ホールで、敬礼をしてくれた巡査に、声だけで挨拶を返し、取調室へ向かおうとする。
「被害者は医務室です」
ニールが教えてくれて、俺は行き先を変更すると、まずは医務室がある2階へあがった。
「アザミ、大丈夫か!」
扉を開いて部屋へ入りながら声をかける。
「あ、ジョージ・・・」
しっかりとした少年の、あどけない声が俺の名前を呼びかえす。
俺の服を着て、寝台にちょこんと腰を掛けている、元気そうな顔をそこに見つけられて、ほっと一息吐いた。
そして、漸く怒りが沸いてくる。
「ったく・・・馬鹿野郎が! あの手紙は一体何のつもりだったんだ。しかも、夜遅くに公園なんかに入りやがって、襲ってくれと言っているようなものだろう!」
「ごめんなさい、心配かけて・・・あの、服も汚しちゃって、ちょっと破けちゃいました・・・」
改めてアザミを、上から下まで眺めてみる。
せっかくの綺麗な顔は、頬を少し擦り剥いており、長すぎる袖を捲った白いシャツは、両肘とも泥が付いていた。
俺が着れば普通のデザインだが、小さなアザミの身には、かなり襟が深くなってしまっているシャツは、上のボタンが、ひとつ飛んでおり、そのせいで視点を僅かに動かすだけで、乳首が見えてしまった・・・・犯人が何の目的でアザミに近づいたのか、今や俺にもはっきりとわかった気がした。
左手の甲も擦り剥いており、裾を何重にも折り曲げているスラックスも、両膝から下が土で汚れているので、恐らく脚にも打撲か掠り傷を作っているのだろう。
だが、見たところ怪我はその程度だった。
アザミの悲鳴で現場に急行してくれたタイト巡査に、俺は心から感謝した。
それでも一応、本人に確認しておく。
「何もされてないだろうな」
「ええっと、はい・・・平気です」
アザミが頬を赤らめながら返事する。
やっと俺も安心できた。
「よし。・・・だったら、いい」
小さな躰を引き寄せて、その存在をしっかりと確かめる。
胸の内が、彼に対する思いで溢れていた。
「あの、ジョージ・・・」
腕の中でアザミが小さく抵抗を示し、怪我をしている彼の躰を、強く抱きすぎていたことに気づいて、急いで力を緩めた。
「ああ、悪かった・・・。それから、アザミ・・・夕方のことだけどな・・・、あれは、勢いで・・・」
とにかく、一言だけでも彼に対して乱暴な真似をしたことを詫びて、戻って来て欲しいと伝えるつもりだった。
「待ってジョージ・・・」
今度はアザミが焦っているような表情になり、次に視線を俺から逸らすと、後ろの一点を見つめた。
「アザミ」
背後から、彼の名前を呼ぶ、知らない声が聞こえてきた。
俺はアザミを抱きしめたままの姿勢で、彼の視線を追って、開け放たれたままの入り口を振り返る。
そこに立っていたのは、労働者風の、大柄な見知らぬ中年の男。
そして。
「フレッド・・・」
アバラインは冷静な表情で、俺に視線を合わせて立っていた。
そこから何の感情も、窺い知ることはできない。
「父さん」
確かにアザミがそう言った。
「アザミ・・・怪我はしていないのか?」
男がアザミに近づいてくる。
父親。
彼はポール・ジョーンズではない。
アザミが父親と呼ぶ、ジョーンズ以外の存在といえば、一人しかいない。
近所に住んでいる、父親のところへ行くと書き残して、アザミは出て行った。
ベスナル・グリーンに住んでいる、アザミが父親と呼ぶ男・・・彼の義父。
「失礼ですが、ビル・クリスティさんですか?」
男がアザミに触れようとする矢先に、俺は彼の注意を引いて、念のために確認をした。
ビル・クリスティ。
アザミの義父。
母親を亡くしたアザミを、物乞い同然に貶めたばかりか、幼いアザミを・・・・レイプしていた男!
「はい、そうですが・・・」
次の瞬間、俺は男に飛びかかり、そのひげ面を拳で思い切り殴っていた。
「貴様っ、よくもアザミを・・・!」
だが、次の瞬間誰かに肩を強く引っ張られ、その人物に俺は、同じように拳で殴られていた。
「少しは頭を冷やせ」
「あ・・・・フレッド・・・」
床に尻餅をついた俺は、自分の前で仁王立ちになっている、シルエットを呆然と見上げた。
そして視線を上げるその途中で、信じがたい光景を、俺は・・・その動きに気が付いて、愕然とする。
「大丈夫、ビル・・・?」
「ああ・・・いたた・・・」
義父を彼の名前で呼び、傍に寄り添いながら、気遣うアザミ。
認めたくはなかった。
二人の間には、確かに愛情が存在していたのだ。
それも、・・・おそらくは、ただの親子とは違う、あるいは男女の関係にも似た・・・。
「アバライン警部補・・・よろしいですか」
入り口でニールが呼びかけて、アバラインがそちらへ歩いて行く。
「どうした」
改めて彼に殴られた頬へ掌を当てて、俺は思わず顔を顰めた。
「・・・ったく、躰は細いくせに、どんだけ重いパンチ持ってんだよ」
いかに美貌の持ち主とはいえど、そこは百戦錬磨の刑事だ。
当然だが、恐らく俺なんかより余程喧嘩に強い。
部屋へ入ってきた瞬間の無表情と、俺を殴り倒した冷たいヘイゼルの瞳を、立て続けに思い出す。
さぞかし呆れさせたことだろう・・・嫌われたかな。
「被疑者が、一連の殺人事件について、自分がやったと自供をしました」
「何・・・!?」
思わず俺も振り返った。
「タブラムとニコルズ、・・・それにスミスを殺したと、そう認めているのか?」
「はい」
アバラインは確認すると、ニールに続いて取調室へ向かった。
俺も立ち上がり、二人へ付いて行こうと廊下へ出る。
その直前にもう一度、アザミを振り返った。
診察台へ腰掛けるクリスティに寄り添い、隣へ腰を下ろすアザミ。
二人の手は繋がれていた。
やりきれない気持ちを抱えて廊下へ出ると、とっくに取調室へ向かったと思っていたアバラインが立っている。
どうやら俺を待っていたようだ。
「あ・・・ええと、さっきは・・・その・・・」
「もう、そっちは済んだのか?」
壁に軽く背中を凭れさせたアバラインは、スラックスのポケットへ親指を引っかけ、ヘイゼルの瞳は、半分伏せられていた。
俺から、視線を逸らしているようだった。
「はい・・・あの、被疑者が自供をしたんですよね」
「そうらしいな。すでにヤードへは連絡が入っているようだから、間もなく本部がホワイトチャペル署から移されるだろう。俺とニールはこれから、クーパーの取り調べに立ち会う」
ベスナル・グリーン署の刑事達は、すでに現場へ戻ったり、クーパ−の自宅へ向かったりして、裏付け捜査に入っているようだった。
「そうですか、・・・それにしても、今まで中年の娼婦ばかり狙っていた野郎が、何でまた男の子を襲ったりしたんでしょうね」
ウェントワース・ストリートのキャッスル・リバー・ビルで感じた違和感どころではなかった。
「俺も自白を信じてはいない」
アバラインはあっさりと、とんでもないことを言った。
「そうなんですか? ・・・えっと、じゃあ・・・誰かを庇っているとか・・・。取り調べに立ち会うっていうのは、そのへんを確認するって意味なんですか?」
だとすれば、それはそれで重要な手がかりになる可能性が高い。
「さあな・・・それは本人から聞き出さない限り、どうにもならん」
「そうですね。じゃあ、俺も立ち会っていいですか」
言いながら俺はアバラインの先に立って、取調室へ向かおうとした。
「いや、お前はこのまま家に帰れ」
「え・・・」
アバラインに言われた意味を図りかねた。
たとえば、現場へ戻れとか、あるいは聞き込みに回れと言われたなら、まだ理解が出来たが、彼は俺に自宅へ帰れと言ったのだ。
アバラインは壁から背中を離すと、俺を追い越し、取調室がある3階へ向けて、階段を上がり始めた。
「頭を冷やせと、俺は言った筈だ」
05
欧州モノ:「切り裂きジャック」モノへ戻る