不意に目が覚める。
窓からは薄明かりが差しており、時計を見ると6時過ぎだった。
そろそろ起きないといけない時間だと思い、躰を動かした途端、酷い頭痛に苛まれる。
「くっ・・・つう・・・・・」
不意に視界の端で、空になったウィスキーのボトルが目に入り、続いて床に転がったトルーマンズ・ビールの瓶にも気が付いた。
どちらも昨日、アザミがこの部屋を去ったときにはなかったものだ。
頭を抱え、痛みが治まるのをじっと待ちつつ、動きが鈍い脳で記憶を遡る。
夕べ公園でアザミが襲われて、ベスナル・グリーン署へ急行した俺は、アザミの義父、ビル・クリスティと初めて会った。
そしてドーセット・ストリートに住む、アザミの母親代わりだったノーマ・ホイットマンの話を思い出し、アザミを慰み者にしていたクリスティを、アザミの目の前で殴ったのだ。
その直後にアバラインにぶっ飛ばされて、頭を冷やせと叱られ、アザミを襲った犯人、ジェフリー・クーパーが、一連の殺人をやったと自供したにも拘わらず、家に帰れと命じられた。
俺には捜査を遂行する能力がないと言われたのだ。
「おまけに自棄酒で二日酔いときた・・・刑事失格だな」
いや、刑事どころか社会人失格だろう。
この分では今日一日、さぞかし酷い状態で仕事をしないといけない。
酒臭い躰で出勤すれば、ますますアバラインにも嫌われることだろうか。
何もかも、どうでもよくなった気がした。
誰かが扉を叩く音が聞こえる。
「畜生・・・・ノックの音まで、頭に響きやがる」
枕を抱えて、寝直そうと決めたその瞬間。
「ジョージ・・・ねえ、ここを開けて・・・」
不意に耳へ飛び込んできた涼やかな声に、俺は眠気が一気に吹き飛んだ。

 

「アザミ・・・」
玄関口に立っていたアザミは、白いシャツに、紺色のリボンタイ、紺色のスラックスという出で立ちで、長い髪を後ろでひとつに纏めている。
化粧をしていない彼を見るのは、初めてバックス・ロウで会ったとき以来であり、正面から見れば、あのときと同じで、普通の男の子に見えた。
いや、女には見えないが、普通よりはかなり可愛い男の子・・・というのが正解だろうか。
「あの・・・早くからごめんなさい。その・・・挨拶がしたくて・・・」
「挨拶・・・・か。お早う」
けしてそういう意味ではないだろうと思いつつ、どうにも頭がちゃんと働いてくれなかった為に、とりあえず俺は彼に朝の挨拶をした。
「お早うございます」
律儀にアザミも返してくれる。
「ああ・・・そういう意味じゃ、ないんだろ? どうかしたのか?」
ドアを抑えながらアザミに聞いた。
何気なく顎に手を当てて、無精髭が伸びていることに気が付く。
当然だが、顔も洗っておらず、髪もぐちゃぐちゃだ。
何よりも酒臭い。
さぞかし酷い姿で、俺は立っていることだろう。
「ええっと・・・これをお返ししたくて、持ってきました」
アザミは手に持っていた紙袋を手渡してくれる。
紙袋にはランガム・ホテルのロゴマークが入っており、中からきちんとプレスされた俺のスラックスと、白いシャツが2着・・・うち一枚は、見覚えがない新品だった。
さらに底から、黒いベルトが出てくる。
意味がわからない。
いや、昨日アザミが着て出て行った、俺の服を返しに来たのだろうということはわかるのだが、シャツが1枚多いうえに、なぜランガム・ホテルの紙袋に入っているのかが、わからない。
追求したかったが、頭が思うように働いてくれない。
「わざわざ、悪いな・・・このシャツは?」
それだけ一応聞いておく。
「クリーニングをお願いするときに、一応同じようなボタンに付け替えて頂いたんですが、まったく同じではなかったので、お詫びの印です」
「お詫びって・・・まさか、わざわざ新品を買ったのか? そんなことしなくていいのに・・・」
どうせ安物のシャツだ。
それにシャツの買い置きは山ほどある。
犯人と格闘中に服が破れることなど、しょっちゅうだからだ。
「実はわざわざってことでもなくて、父のクローゼットに、たまたま同じようなシャツがあったので、それを譲って貰いました。サイズも同じぐらいみたいですから、たぶん大丈夫じゃないかと・・・」
そう言ってアザミは、恥ずかしそうに笑った。
それで一気に目が覚めた。
「おい、アザミ・・・お前、なんで親父のところへ行ったりした?」
「あ・・・あの、ビルのことですよね。たまたま、この近くに住んでいたことを、思い出したので・・・それで・・・えっ・・・」
「お前に酷いことをした男だろ! どうして、そんな奴のところに、また戻ったりするんだ・・・・ここにいて良いって、俺は言っただろう!」
「痛い・・・放して・・・」
勢い余って強く掴んだ肩が、小刻みに震えていた。
本当に痛かったのだろうが、それ以上に恐らく、・・・怖がられていた。
俺は手を放す。
「あ・・・悪かった・・・。俺にそんなことを言う権利なんてないよな・・・俺だって、お前を襲おうとした」
「それは、べつに・・・」
「なあ、アザミ・・・本当に、考え直してくれないか? 二度とお前に、あんな真似はしないって約束する。最初にも言ったが、何だったら俺がここを出たっていいんだ。お前が落ち着いて暮らせる環境と、ちゃんとした仕事が見つかるまでの間、俺は署のソファ・ベッドで寝たっていい。だから、あんな野郎のところへ戻らなくても・・・」
「やだな、もう・・・・さっきから、あんな野郎だの、そんな奴だの・・・・一応、僕を育ててくれた人ですよ」
アザミがそう言って、悪戯っぽく頬を膨らませる。
顔も声も戯けていたが、この言葉で俺は、頭から冷や水を浴びせられたように感じた。
夕べ、アザミが署の医務室で・・・あのビル・クリスティという男を、気遣うように寄り添っていたことを俺は忘れていた。
いや、・・・忘れたかったのだ。
「アザミ・・・お前・・・あの男を・・・」
本当に愛しているというのか。
彼に物乞いのような真似をさせ、陵辱していた男だというのに。
「ビルとは・・・確かに色々ありました。ジョージはたぶん、ノーマと会ったんですよね? だって、夕方に出て行くまで、そんな話していなかったもの」
「ああ・・・一旦署に戻って、それから帰りにドーセット・ストリートへ行った。すぐにノーマ・ホイットマンに会うことが出来た」
「やっぱり・・・ジョージは絶対に怒ると思ったから、言うつもりはなかったのに。ノーマもビルのことが大嫌いなんですよ。僕が何度言ってもわかってもらえなかった・・・・僕が許しているって言ってるのに、それでもビルは酷い、そんなこと親がしてはいけないって、いつも一人で怒るんですよ」
「当たり前だろ、誰が聞いたって許せるわけがない! 子供に物乞いのような真似をさせたり、ましてやレ・・・」
突然抱きつかれて、口唇を塞がれた。
アザミが俺にキスをしていたのだ。
「アザミ・・・」
彼が口唇を放し、強い視線で俺を見つめる。
「お願いだから、今はそれ以上のことを言わないでください」
「アザミ?」
素早い口調でそれだけを伝えると、彼は身を離した。
どういう意味だ。
「話が途中だったので、続けますね。実は今日のお昼の便で、フランスへ行くことになりました」
「フランス・・・なんでまた、そんな急に」
「父と暫くそちらで過ごします。だから、今日はお別れの挨拶に。・・・本当に、色々とありがとうございました」
「・・・・そんな、あまりに急すぎるだろ。どうして、お前はあの男を・・・俺には全然理解出来ないぞ・・・」
「ビルのことでしたら、たぶんジョージには理解できないと思います。ただ、どんなに酷い人に見えても、僕にとってはかけがえのない家族なんです。だから・・・・家族ではないあなたに、理解できる筈がない」
「アザミ・・・・・・俺は・・・」
「わかっています。きつい言い方になっちゃいましたけど、本当にそういうことなんです。ビルはそんなに悪い人じゃないんですよ。・・・・それとジョージ、昨日の夕方のことですが・・・・・襲われただなんて、僕は思ってないですよ」
「えっ・・・」
「だって・・・僕も・・・そのつもりでしたから」
「ア・・・ザミ・・・?」
まさかの一言だった。
「だから・・・ええと・・・僕が帰ってきたときには・・・。ああ、そうだジョージ・・・昨日の図画コレクションだけど、あれ・・・」
それで思い出した。
アザミが帰ってくるまで、だと?
こんな事を言われて、それまで待っていられるわけがない。
だって、アザミの言葉の意味は、彼もあのとき、ちゃんとその気になっていたってことじゃないか!
「そうだったな、アザミ。よくも俺のエロ絵画コレクションを処分してくれやがって、こうなりゃその躰で責任を取って貰わないと、収まら・・・」
「私の息子を慰み者にする気か君は」
「そうそう、俺の息子が収まらないって・・・え!?」
どこかで聞き覚えのある声が、この2階のフロア全体に響き渡り、声が聞こえる階段の辺りを振り返って、ギョッとする。
「キスまでは我慢して見ていたが、アザミを君のエロ絵画コレクション代わりにするとは、さすがに聞き捨てならないぞ、刑事君・・・」
「と、父さんっ!」
目の前に立っていたのは、ライシアム・シアターで『ジキルとハイド』を公演中の、有名な俳優、あのポール・ジョーンズ氏だった。



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