刑事課で俺を待っていたニールは、夕べから今朝にかけての経緯をかいつまんで聞かせてくれた。
まず、さらなる取り調べの結果、ジェフリー・クーパーの切り裂き魔発言は、おそらく狂言だろうと判断された。
あれから取調官がアバラインに交替した途端に、証言が綻び始め、連絡を受けた捜査本部の移動部隊は、裏付け捜査の結果を待たずに、そのままホワイトチャペル・ロードを引き返したらしい。
クーパーは、ウェイヴァーズ・フィールズを通行中のアザミを見つけて、背後から接近し、ナイフを突きつけようとした。
ところが、いきなり後ろから羽交い締めにされたアザミが、咄嗟に悲鳴をあげたため、巡回中のタイト巡査が駆けつけて、現行犯で逮捕をしたのだ。
凶器に使われたナイフだが、刃渡り5センチ程度の、安っぽい工作用ナイフである。
人を殺せるかどうかも疑問の物証だった。
ましてやニコルズの身に起こったような解体など、あの凶器で出来る筈もない。
アザミを襲った動機に関しては、案の定、悪戯が目的で、クーパーに殺意はなかった。
しかし連行途中の馬車の中で、タイト巡査の口からアバラインの名前を聞いて、彼が一連の殺人事件の担当捜査官であることを思いだし、咄嗟に閃いて自分が切り裂き魔だと主張を始めたそうである。
「要するに、フレッドに会いたかっただけなのかよ・・・」
呆れた野郎だ。
万一、嘘が立証されなければ、ニューゲート経由でタイヴァーン行きは間違いなかったというのに、絞首台で泣き喚きながら、命乞いでもするつもりだったのだろうか。
「まあ、本人もアバライン警部補に会うことが出来て、満足だったようですし・・・」
ニールが暢気に茶を啜りながら笑う。
「冗談じゃないぞ、おい・・・こっちは毎日死にものぐるいで、ホワイトチャペルを駆け回っているっていうのに」
「本当・・・冗談じゃないんですけどねぇ。・・・・ご覧になってみます?」
そう言ってニールはマグカップを一旦机へ置くと、傍らの引き出しから手紙の束を取り出した。
その一つを取り上げてみる。
「ハンプシャー在住のF・ベイカーさん・・・お前の知り合いか?」
「そんなわけないでしょう。ファニー・アダムスちゃんの事件、ご存じないですか? 1867年8月にハンプシャーのブルーベリー畑で、強姦の末に殺害された少女です。フレデリック・ベイカーはその時の犯人の名前ですよ。日記の記述が決定打となって絞首刑に処されています。なので、それが本人からだとすると、さしずめ地獄からの手紙ってことになりますね」
便箋を取り出してみた。
「娼婦殺し、それは最高に興奮するぜ・・・なんだこりゃ。精神異常者か?」
「ベイカーの日記にあった記述を真似たんですよ。少女の部分が娼婦に入れ替わっています。要するに、警察への悪戯ですよ・・・少女殺しのベイカーが、冥界からやって来て、ホワイトチャペルで娼婦を殺しているんだと・・・そういう意味です。宛名になっている僕の名前は、どこかの新聞で見かけたんでしょうね。今更ホワイトチャペル署やヤードへ送りつけたところで、誰の目にも留まらないだろうと計算して、一生懸命に紙面から探し出したんじゃないですか。わざわざ、ご苦労な話ですよ。・・・こっちはフリート・ストリートのスウィニー・トッドからです。その青い封筒は、エジンバラの消印で、バークとヘアの連名になっています。どうも、ご自分では気づいていないみたいですけど、実は巡査部長宛にも、この倍ぐらいは来ていますよ。その中に確か、エリザベート・バートリや、ブランヴィリエ侯爵夫人からの手紙があったんじゃないかな・・・いいですね、もてる男性はこういうときでも、女性と縁があって」
「いらねーよ、そんな縁は!」
どちらも、気が狂った悪魔みたいな女殺人鬼である。
「想像がつくと思いますが、ベスナル・グリーン署でさえこんなに変な手紙が来ているわけですから、当然ホワイトチャペル署やヤードへは、比べものにならないほどの、大量の手紙が届いています。中には純粋な警察への激励や、もちろん苦情や叱責もありますが、殆どがこういう手合いの悪戯ですよ。話を戻しますが、クーパーはアバライン警部補の名前を聞いて、思いつきで自分が殺人事件の犯人だと言い出したようですが、これから先は、あんな連中が幾らでも出てくるんじゃないですか? 救貧院や路上で夜を過ごすぐらいなら、留置場の方がましだろうって・・・そんな理由で、わざわざ出頭してきても可笑しくないと、僕は思います」
「勘弁してくれよ・・・」
だが、ニールの予想は十分にありえることだと、俺にもわかった。

 


ホワイトチャペル署へ移動する前に、一旦バックス・ロウへ寄ってみる。
「これは、ゴドリー巡査部長!」
ホワイトチャペル駅の前で聞き覚えのある声に呼びかけられて、うんざりとしながら振り向いてみる。
「・・・・・」
中折れ帽と蝶ネクタイ、丸眼鏡・・・・途端に無視したくなった。
「ちょ、ちょっと・・・わざわざ振り返って確認したくせに、そのまま通り過ぎていくことはないでしょう!」
「ごきげんよう、ベイツ君。・・・すまなかったな、最近老眼が進んで、ときどき目の前が見えなくなるんだ」
「どこからツッコんでいいのかわからないですが、もしも事実なら、とりあえずブルーベリーでも食べてみたらどうですかね。・・・老眼に効くかは知りませんけど。ところで、昨日は大変でしたね。アザミ・ジョーンズはもう出航したんですか?」
反射的に手が出ていた。
この癖も直さないと、いつか痛い目に遭うだろうなと自戒したが、・・・まあベイツが相手なら、とりあえず平気だ。
「なぜお前が、その件を知っているんだ?」
「そ・・・そんなの、取材したからに決まっているでしょう・・・手を放してくださいよ、まったくもう・・・記者のことを舐めていませんか? やろうと思えば、暴力刑事とレッテルを貼り付けて、あなたを糾弾することだって、出来るんですよ。少しは僕に対して、危機感を覚えてください」
それもそうだと思った。
「まさかと思うが、アザミのことまで、嗅ぎ回っているのか?」
「そりゃあ仕事ですからね・・・大概のことは調べましたけど、記事には彼の名前すらも出していませんから、安心してください」
「どういう意味だ?」
不意に力が緩んでしまい、その隙にベイツが俺の手を振り解く。
そして眼鏡よりも先に蝶ネクタイを直していた。
余程、拘りがあるらしい。
「ったくもう・・・・。どこからかは知らないですけどね、夕べ遅くに、とある有力者から各新聞社に宛てて、同じ文面の電報が届いたんですよ。無責任な報道は自粛しろとね・・・マスコミへの外圧ってわけです。けれど、そんなことをされたら、余計に調べたくなるのが、天の邪鬼なジャーナリストの習性でしてね・・・驚きましたよ、あのポール・ジョーンズに隠し子がいたなんて。それもとびきりの美少年で、母親は日本人外交官の娘だそうじゃないですか」
「そのぐらいにしておいてやってくれないか・・・アザミは外国人とのハーフっていうだけで、酷い差別を受けているんだ」
そう言うと、ベイツが目を丸くした。
「本気で言っているんですか。新聞が事なかれ主義に走りだしたら、果ては報道機関の自殺、民主主義の終焉と大本営発表、全体主義の独裁社会が待ってますよ。・・・まあ、安心してください。個人的に興味が沸いて調べただけで、今回の圧力は本当に半端じゃない筋からなんです。それでも僕は、権力に屈するなんて、冗談じゃないんですがね・・・残念ながらこれは『スター』紙の決定事項ですから、少なくとも我が社に関しては、絶対にアザミ・ジョーンズとポール・ジョーンズの名前が、事件に関連して出ることはありません。うちがそうなんだから、どこも同じでしょう」
「圧力ってのは、一体どこからかかっているんだ」
言われてみると、昨日は署の前にあれだけ群がっていた報道陣が、今朝は殆ど消えていた。
残っていた記者達も、一連の殺人事件に関する取材が目的だった。
それを見て俺は、夕べの暴行事件で、大した被害が出ていないせいだと判断した。
あるいは、『イエロー・ローズ』事件はH管区で起きており、ベスナル・グリーン署の管轄ではないせいだろうと。
しかし、夕べはどちらの事件に関しても大騒ぎだったマスコミが、一晩でこれほど大人しくなるというのは、不自然だった。
つまり、ポール・ジョーンズ親子の事件への関わり自体が、マスコミ的にタブーだったというわけだ。
なぜだろうか。
「それを明かせば、僕は殺されますよ。・・・これ、もうご存じでしたか?」
不意にベイツが今朝付けの『スター』紙を差し出してきた。
折り曲げた表面に来ている記事には、強調したフォントで、ポール・ジョーンズ降板の見出しが載っていた。
「降板になったのか・・・あ、そうか!」
考えてみれば、現在ライシアム・シアターで舞台に立っている看板俳優の一人が、いきなり息子とフランスへ旅行に行くというのは、可笑しな話だ。
事件によってアザミの存在が表沙汰になってしまい、しかもその性質がスキャンダル性の高いものであっただけに、ジョーンズが置かれた状況は、大衆の興味を避け難い風向きになっていた。
もしもライシアム・シアターがジョーンズを、引き続き使い続けたとしたら、集客に必要な話題性には事欠かないだろうが、それ以上に劇場へ押しかけるマスコミや、好奇心が強い観客との間で、混乱が起きていたことただろう。
ただでさえリチャード・マンスフィールドの鬼気迫る演技のせいで、観客席では悲鳴が止まない状態なのに、これ以上の話題性は無駄なトラブルに繋がりかねないと判断されても、仕方がない。
つまり、新聞社へかけられた圧力とは、劇場からの物だったのだろうか。
いや・・・マスコミを一晩で封じてしまう程の力が、ただの劇場にあるわけがない。
「アザミ・ジョーンズの母親は、夏目杏子(なつめ きょうこ)・・・その父親は外交官の夏目祐二(なつめ ゆうじ)・・・侯爵家の次男で、実家は我が国の王室とも交流があるそうですよ。駐留時はサンドリンガムへもたびたび顔を出されていた、東洋の貴賓です。一番下のご令嬢は少々跳ねっ返りで、公使も手を焼かれたようですが・・・。あるいは、我らが王子が、ポール・ジョーンズの熱狂的なファンであり、彼の舞台は欠かさず見ているという噂もあります」
「まさか王室!?」
「僕はただの噂話をしているだけですから、本気にしないでくださいね。こんなことで命を狙われるなんて、こっちも冗談じゃないんですよ・・・それじゃあ、巡査部長ごきげんよう。・・・ああ、ひょっとして、これからバトラーズ・コートへ行かれるおつもりですか? だとしたら、本日はちょっと面白い出来事が待っていると思いますよ」
そう告げるとベイツは駅の改札を入ってしまった。
なんということだ。
王室がマスコミへ圧力をかけてまで、アザミの存在を隠したい・・・いや、王室とゆかりの深い日本人外交官の孫が、性犯罪に巻き込まれた事実を、表沙汰にしたくはないということだろうか。
もっと言えば、その日本人外交官の娘が有名な俳優との間に、アザミという子供を作り、その子がこの大英帝国において、ホワイトチャペルで最下層の生活を送っていた実態を、世間の目から隠したかったのかも知れない。
あるいは、エドワード王子の気まぐれで、自分が好きな俳優がスキャンダルに巻き込まれないように、圧力をかけたのだろうか。
ひょっとしたらジョーンズ自身がそうしてくれと、王子に頼んだのかも知れない。
だが、こればかりはいくら考えても、真相などわかるわけがない。
いずれにしろ、これでアザミの名誉は辛うじて守られ、おそらくは生まれて初めて、実の父親とゆっくり旅に出られることになったのだ。
水入らずの、僅かなそのひとときを、せめて楽しんで貰いたいと俺は願った。
そして帰ってきたときには、元気な顔を見せてほしいと・・・・アザミは果たして、帰ってくるのだろうか。





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