バックス・ロウへ入り、バトラーズ・コートから『トッドの理髪店』に面した裏庭へ入る。
泥濘を踏みしめながら店舗へ足を踏み入れる前に、異常事態に気が付いた。
2階から張りのある男の声と、それに呼応する歓声や拍手が聞こえている。
そしてその内容は、とても容認出来るものではなかった。
「畜生、ジョージ・エイキン・ラスクだったのか・・・!」
俺は階段を駆け上がり、2階へ急ぐ。
チャールズ・ウォーレンを追い出せ、警察は自分達の敵だ、そしてフレデリック・アバラインを引きずり倒せ・・・。
物々しい雰囲気と、熱に浮かされたような浮浪者達の声、いや・・・これは付近の住民も、一緒に集まっているだろう。
アバラインを引きずり倒せだと?
ふざけるな!
彼がどんな思いで、事件や上層部と毎日戦っているかも知らないくせに・・・!
開放されている入り口から、2階の部屋へ飛び込んだ。
現場に集結していた人々は20名ほどいただろうか。
半分ぐらいが浮浪者たち。
この『トッドの理髪店』だけではなく、界隈の路上で生活している連中もいるだろう。
残りの半分が、それ以外の市民だが、いずれも裕福そうな身なりではなく、一目でホワイトチャペルの住民だとわかる、明らかな貧困層。
円陣を組んだ聴衆の真ん中に立っているのが、熱弁を振るっていたラスクだった。
挑発的な目が俺へ向けられる。
「ヤードの刑事が、こんなところへ何の用だ」
ラスクがそう言った瞬間に、人々の視線が一斉に敵意へ切り替わった。
「警察は出て行け!」
誰かが叫んだ。
この声は、ここに住んでいる、ダニーのものだろうか・・・。
それを合図にしたように、全員がシュプレヒコールを上げ始める。
出て行け、出て行け、出て行け・・・・。
「俺は・・・ただ、捜査を・・・」
「貴様達、警察が、一体俺たち住民の為に、何をしてくれた?」
通りの良い声でラスクが俺に言い放つ。
「俺たちだって、毎日必死で・・・」
ただの言い訳でしかないことは、よくわかっている。
だが、そう伝えるしかなかった。
「見てみろよ」
ラスクが何かを投げつけてきた。
顔に当たりそうになって、防御のため、咄嗟に開いた掌へ、軽い物が当たって床へ落ちる。
丸めた紙だった。
足元で転がるそれを拾って、皺を伸ばし、書かれている文字に目を通す。
「内務省・・・?」
それは事件解決に繋がる情報提供者へ、報奨金を出して欲しいと願い出た内容に対し、経験上、害あって益なしとの、曖昧な理由から、却下の回答を返したものだった。
宛名はラスクではなく、ジョウゼフ・アーロンズという人物になっている。
彼の仲間なのだろう。
「結局お前ら役人は、被害者がホワイトチャペルの女だったから、本気で取り組まないってことなんだろう?」
「そんなわけはないだろ・・・!」
「構わないさ。だったらこっちはこっちで、自分の身を守るだけだ・・・なあ、皆! 俺たちの手で、この町を守るぞ!」
ラスクの呼びかけに、威勢の良い声が、拳と共に高く突き上がる。
どこかで見た光景・・・そうだ、キャッスル・リバー・ビルの玄関前で、集まっていた群衆だ。
あれもラスクの扇動だったのだ。
「警察は敵だ!」
「敵を追い出せ!」
荒々しい叫びとともに、丸めた紙屑や、林檎の芯、パンの切れ端などを、次々と当てられる。
そういえばと思い、壁際に目をやると、また新しい木箱が積み上げられていて、そこにビールや野菜が詰まっていた。
なるほど・・・彼らは本当に、ああいった食料品を、無償で手にしていたのだ。
おそらく、こうした活動への協力と引き替えに。
ダニー・・・疑って悪かった。
「ウォーレンを追い出せ!」
「アバラインを引きずり倒せ!」
「刑事はここから出て行け!」
もはや彼らに、何を言っても無駄だった。
俺は諦めて『トッドの理髪店』を後にする。
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