午後からは再びドーセット・ストリートへ聞き込みに行った。
ミラーズ・コート13番地は無人だった。
「あら、どこのハンサムさんかと思えば、『テン・ベルズ』にいた旦那じゃないかい」
声をかけられて振り返ると、公共水道の傍らに籠を抱えて立っている女がいる。
籠の中には洗濯物らしき、濡れて皺が寄った、何種類かの布の塊が、山盛りになっていた。
今から干しても、今日中には乾かないと思うが、これが彼女の生活パターンなのだろうか。
「ああ・・・悪いけど、実はこのところずっと忙しくてさ・・・君とはいつ、会ったんだっけ・・・ええと、ついでに名前は・・・」
『テン・ベルズ』へは4月からこちら、再三足を運んでおり、聞き込みと称してあの店にいた女には、ナンパ紛いの言葉も、さんざん掛け捲っていた記憶がある。
そのうちの一人だとすると、これは少々慎重を要する瞬間だった。
「やだよ、こんな美人を忘れちまうなんて、これだから男は信用ならないんだ。・・・あたしの躰で、あんなにいっぱい気持ち良い思いしたくせに、もう忘れちまったのかい? いい男だけど、酷い野郎だね」
女は籠を持ったまま擦り寄ってくると、艶めかしい目で俺を見上げてきた。
豊満な胸が、腕に強く押しつけられる。
かなり危険な状況だったが、ここまで言われたら、俺も流石に自信を持って抗弁が出来た。
「適当なことを言うな、俺は君とは寝ていない筈だぞ」
『テン・ベルズ』で声をかけた女を、ベッドへ連れ込んだ覚えはない。
捜査中にそんな真似をするほど、俺はまだ堕落していないからだ。
少なくとも、女相手には。
「つまんない返しだね・・・まあいいよ、あたしも暇じゃないんだし。ひょっとしてジョーに会いに来たのかい?」
「まあ、そんなところだが・・・畜生、さっきのは冗談だったのかよ。質が悪すぎるぞ」
「脛に大きな傷があるから、そう感じるんだよ。この辺の男はみんなそう。・・・ジョーだったら多分、『ホーン・オブ・プレンティ』にいるから、行ってみなよ」
漸く女が誰だか思い出した。
初めてバーネットと『テン・ベルズ』で会ったあの夜、店に飛び込んで彼に追い返されていた女・・・確か、名前は。
「君はジュリアか・・・?」
女は目を見開いた。
青い瞳がくっきりと姿を現す。
こうしてみると、なかなか愛嬌がある顔をしている。
「嬉しいね・・・覚えてくれていたなんて。直接話もしていなかったのにさ、・・・ってことはあたしも、結構自信持っていいってことだよね」
「あのときは確か・・・そうだ、メアリー・ジェーンを探しに来ていたんだったな。そういえば、メアリー・ジェーン・ケリーはどうしているんだ? 君は彼女の友達か?」
「メアリーならうちにいるわよ」
そう言ってジュリアは妖艶な笑みを浮かべる。
彼女も娼婦なのだろう。
「君の家もミラーズ・コートなのか?」
「そう。あっちの長屋の2階があたしの家さ。よかったら来るかい? 刑事さんなら、大歓迎だよ。あたしとメアリーで、何でもしてあげる・・・」
ジュリアはそう言って、また躰を擦りつけてきた。
さすがに娼婦だ。
ほんの半日前、アザミにさんざん突っ込ませてもらったばかりだというのに、早くも聞き分けのない我が息子が、目を覚ましかけていた。
俺は慌ててジュリアから身を引くと、危ういところで掴まれそうになった股間を、彼女の魔の手から退避させる。
危機一髪だ。
「いや、留守ならいいんだ・・・今日はこれで失礼するよ。邪魔したな・・・洗濯物、早く広げないと皺になっちまうぜ、ジュリア」
「あ、ちょっと刑事さん・・・『ホーン・オブ・プレンティ』に行くんだよね? もしもそこにいなかったら、たぶんダニーん家だよ!」
「わかった、親切にありがとう!」
「ジョーと必ず話してね・・・会わずに帰ったりしないでくれよ・・・絶対だよ!」
「ああ、ありがとう! ジュリア、感謝をするよ」
振り返るとジュリアは、洗濯籠を抱えたまま、ぽつんと立って俺を見ていた。
その姿が、なぜだか儚げに見える・・・そんな筈もないのに。
俺は変だ。
違う。
ジュリアの声が、普通ではなかったのだ。
必死に懇願しているように、俺には聞こえていた。
バーネットと必ず会ってくれと・・・ジュリアはそう訴えていた。
なぜだろう。
そういえば、ジュリアは俺を刑事さんと呼んだ。
どこで気づかれたのかは知らないが、バーネットもさっさと俺の正体を見破っていたぐらいだ。
あれだけこの近所で聞き込みを繰り返していれば、それも仕方がないのだろう。
そして、刑事である俺に対して、ジュリアは訴えてきたのだ。
何が言いたいのだろうか・・・。
ミラーズ・コートを出て、ジュリアから言われた通りに『ホーン・オブ・プレンティ』へ向かったが、これは空振りに終わった。
店にいなければダニーの家だと、ジュリアは言ったが、ダニーという男が何者なのかを聞くのを忘れた。
『トッドの理髪店』のダニー・・・そんなわけはない。
最近、他のダニーと話していただろうか・・・記憶を辿ってみるが、思い出すことが出来なかった。
もやもやとした気持ちのまま、とりあえず『テン・ベルズ』へ向かうが、そこにもバーネットはいなかった。
店の時計を見る。
「やばいな・・・」
そろそろ5時近かった。
6時からは捜査会議があるので、ぼちぼち戻らないといけない。
今朝は遅刻をしていたし、前回も捜査会議に遅れていたから、今日ぐらい余裕を持って、会議へ出席しておかないと、さすがに不味いだろう。
引き返す途中でウェントワース・ストリートを通ったが、いつぞやの騒ぎは何だったのかと思うほど、マスコミの姿が綺麗に消えていた。
圧力が何者からかはわからないが、ベイツの話は本当なのだろう。
30分前にはホワイトチャペル署へ戻り、報告書を書き上げて、時間通りに会議へ出席する。
アバラインは戻っておらず、会議はアーノルド警視を中心に行なわれた。
相変わらずの内容。
俺たちは付近住民への聞き込みの徹底指示。
そして、捜査員全体への叱咤激励。
新たに付け加えられた注意事項は、移民と地元住民のトラブルに警戒しろという、的外れのもの。
警察の捜査方針が、トラブルの火種になっている点を、まるで無視した言いぐさだ。
臨場感がない・・・・これでは住民に愛想を尽かされるのも無理はなかった。
会議が終わって、ドーセット・ストリートへ戻ろうとしたが、アーノルド警視の命令で、ハンバリー・ストリートで起きた喧嘩の鎮圧応援へ、急遽回された。
通報によると、ロシア人水夫のグループと地元の労働者達が衝突して、騒ぎが大きくなったようだった。
現場に駆けつけてみると、加熱した男達が、道端にある物を片っ端から破壊しながら、誰彼構わず殴りかかっているように見え、騒動を収めたのちに、合計15名を連行した。
原因は酔っ払った労働者が水夫にぶつかり、謝る、謝らないという押し問答から、誰かが切り裂き魔だと叫びを上げ、差別をされたと思って怒った水夫が相手を殴り、仕舞いに大喧嘩になったようだった。
話を聞いてから全員を留置場へ放り込み、刑事課へ戻って報告書を書き上げると、また12時近くになっていた。
これからドーセット・ストリートへ行くのは、さすがに骨が折れる・・・何かがあるというならともかく、現状では聞き込みぐらいしか出来ることがない。
どうしようかと思案していると、背後から聞こえる話し声に、俺は席を立った。
「それではお先に失礼します、アバライン警部補・・・」
メイスン巡査が擦れ違いざまに、入ってくるアバラインへ挨拶をしていた。
「フレッド」
廊下へ飛び出した俺が声をかけると、アバラインは目を見開いて俺と視線を合わせる。
そうしたくはなかったのに、不意打ちで、動揺を隠せなかった・・・・という顔だった。
俺が近付くと彼は視線を逸らし、立ち去ろうとする。
「遅くまでご苦労、ゴドリー巡査部長」
通りすがりに、そんな余所余所しい言葉がアバラインから聞こえてしまい、その瞬間に、俺の中で何かが切れた。
アバラインの肘を掴むと、力任せに背中から壁際にどしんとぶつける。
息が詰まったらしい彼が、苦しげに美貌を歪めた。
構わず肘を、ぐいぐいと締め付ける。
「いい加減にしろよ、フレッド・・・!」
「貴様こそ、何の真似だ・・・くそっ、放せっ、痛いって・・・」
色白の面に深く皺が刻まれていた。
長い睫は伏せられたままで、ヘイゼルの瞳は、未だに俺を映そうとしない。
完全に頭に来ていた。
「いつまでそうやって、意地を張っている気だ?」
「何の話だ・・・ジョージ、手を放し・・・おい、こらどこに・・・」
俺は再びアバラインの肘をひっぱり階段へ向かう。
そして、先ほどロシア人水夫達を連行して戻ってきたばかりの、階下へもう一度おりた。
「おい」
「ふあぁ・・・・・・え? す、す、すいません、お疲れ様です巡査部・・・、ア、・・・アバライン警部補・・・!?」
ベンチに腰掛けて、居眠りをしていた制服姿の肩を叩くと、涎を拭きながら看守係のベイル巡査が飛び起き、珍しく俺に敬礼を見せた。
そして次に、俺に引きずられるようにして後ろに立っている、アバラインの姿に気が付いて、間抜けな声を上げる。
褐色の瞳が、零れ落ちるかと思うほど、目を見開いていた。
「敬礼はいい。12番の房は空いているか?」
「はい、空いております巡査部長」
「じゃあ借りるぞ・・・それから、出てくるまで誰も近づかないように、注意していてくれ。もちろん、お前も来るんじゃないぞ。・・・できれば、耳も塞いでいるんだ。いいな」
「は・・・はい・・・あの・・・」
ベイルは戸惑ったように、アバラインの様子を窺った。
「頼む・・・言う通りにしてくれ」
力のない掠れた声が、俺の言葉を後押ししてくれた。

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