『ゴドリー巡査部長の事件簿〜バックス・ロウ殺人事件〜』
(登場人物紹介ページ)
・・・ ・・・ 第1部 ・・・ ・・・
9月8日土曜日、午前6時過ぎ。
到着したハンバリー・ストリートは、朝も明けきらぬ靄の掛かった薄暗い通りに、押し寄せた人々の喧騒が満ち溢れていた。
喧騒の主な内訳は、怒り、悲しみ、警察不審、野次馬根性・・・・どれひとつをとっても、通報を受けて現場へ後から到着した刑事達に道を開け、捜査に協力的な態度を期待できるような、好ましい感情とは無縁のものだ。
「遺体発見場所の裏庭へ誘導しますので、付いて来て下さい」
ホワイトチャペル署のゲイリー・ディレク巡査が、俺、ベスナル・グリーン署のジョージ・ゴドリー巡査部長と、一連のホワイトチャペル殺人事件の捜査責任者である、本庁所属フレデリック・ジョージ・アバライン警部補に告げる。
コマーシャル・ストリート署から連絡を受け、訳あってホワイトチャペル署の留置所にいた俺達を呼びに来たのが彼だ。
20代前半のディレクは、色白の繊細な面差しに、まだあどけなさが残るような可愛らしい顔の青年だが、馬車の扉から顔を覗かせたディレクを目がけて、何かが勢いよくぶつかる。
「おい大丈夫か?」
「ええ、平気ですから・・・こちらです」
桃色の柔らかそうな皮膚に、泥と赤く腫れあがった靴底の痕が、痛々しく残っていた。
サイズから見て男物の左側の靴だと判断できたが、問題の凶器はディレクの顔から跳ね返ると、馬車周辺で起きている混乱の渦へと消え去り、すぐに行方がわからなくなってしまった。
ディレクは所々に土が残った自分の頬を拭う素振りも見せずに、先に路上へ足を下ろすと、その場で立ち止まって俺とアバラインが出て来るのを待ち、健気にも29番地の扉まで俺達を庇うようにして後から付いてきた。
その間にも、警察へ不満を表す人々の声が、腐りかけた野菜屑や石礫などとともに、俺やアバライン、ディレクへ容赦なく浴びせられていた。
女の遺体が見つかったのは、ハンバリー・ストリート29番地にある建物の裏庭。
表通りに面した小さな木製の黒い扉を入り、階段横の薄暗い通路をまっすぐに進んで、突き当たりの扉から外に出る。
日照条件の良くない泥濘んだ地面には、麻袋を被せられた塊がひとつ、不自然に横たわっていた。
小柄な成人女性ほどの、その膨らみの傍らには、検死を終えたのであろう、リース・ラルフ・ルウェリン医師が仏頂面をして俺達を待っている。
「おはようございます、ルウェリン先生。朝早くからご苦労様です」
「おはよう巡査部長。正確にはシュウェリンだがね」
「はい?」
日中は自身の病院で診療がある開業医の医師へ、気持ちの良い朝の挨拶と労いの言葉をかけた俺に対して、ルウェリンは声から不機嫌を隠そうともしなかったが、いちおう挨拶だけは返してくれた。
そして、続く謎の訂正の意味を俺が問う前に、ルウェリンは無造作に麻袋の端を捲り上げると早朝の冷気へ遺体を晒した。
ディレクが反射的に口元を押さえ、仏から目を逸らしている。
警官にあるまじき、情けない態度ではあるが、今回ばかりは無理もない。
血まみれで、やけに窪んだ腹腔を見下ろすような位置に、ルウェリンが腰を下ろす。
窪んでいる理由は両肩を見れば一目瞭然だ。
内臓と思われる血肉の塊が、女の躰の上にヌチャリと盛り上げてある。
塊の一つからは、腸らしき長い器官が体内へと皮膚を這うように伸びていた。
ルウェリンは淡々とした声で、今しがた終えたばかりの検死結果を教えてくれる。
「ごらんのとおり、臓器は体内に殆ど残っとらんよ。手足は冷たく、死後硬直が始まったばかり。左頬の下と右顎に、指で押さえ付けたような痣がある。首の傷は深く、右から左へぐるりと裂かれており、平行して2本の傷があるが、1本は途中で止まっておる。・・・おそらく、被害者に抵抗されて1度失敗したんだろうな」
「抵抗・・・つまり、生きたま、首を切られたってことですか」
バックス・ロウで殺された、ポリー・ニコルズの死に顔が、まざまざと頭に浮かんだ。
「フェンスを見てみたまえ、巡査部長」
ルウェリンの視線を追って、すぐ背後の、古ぼけた木塀を振り返る。
地面から30センチほどの高さに、吹きつけたような血の痕が残っていた。
「舌が飛び出している」
俺のすぐ傍らに腰を下ろしたアバラインが、遺体の顔を覗き込みながら言った。
「お察しのとおり、遺体は首を絞められたんだよ、アバライン警部補。けど、死には至らなかった・・・そこで、この残酷な殺人者は遺体を横たえた状態で、生きたまま頭部を切断しようとした。傷は犯人から見て左から右に走っている。犯人は右利きだ」
「右利き!? ・・・そんな馬鹿な、だってバックス・ロウのときには左利きだったじゃないですか!」
ルウェリンの意見に、俺は反論した。
犯人は右手で被害者の口元を押さえ、左手のナイフで一気に首を引き裂いた。
ポリー・ニコルズの検死審問で述べられた、他ならぬルウェリン自身の証言だ。
バクスター検死官も納得し、当然我々警察も、それを信じて捜査を進めてきたのだ。
今更、犯人は右手で凶行に及んだと言われて、簡単には受け入れられない。
「そうかも知れんが、この犯人は間違いなく右利きだよ。遺体がこの位置に横たえられて、右手で首の動脈を切ったことは、傷口やフェンスの飛沫から見て明らかだ」
ルウェリンは淡々と見解を述べたが、俺は納得がいかない。
「だったら、ポリー・ニコルズも右手で殺されたんじゃないですか?」
「バックス・ロウの被害者の首は、遺体の左から右に切られていた・・・犯人から見て、右から左だ。右手で切ったとは考えられんよ」
「背後から切りつければ可能では?」
アバラインが口を挟んだ。
「それなら地面だけでなく、壁などに広くに血痕が残っておる筈だ。バックス・ロウの現場にそれはなかった」
ルウェリンが反論する。
俺は今一度、8月31日に起きた殺人事件の現場を思い出してみたが、確かにルウェリンが言う通りだった。
アバラインもただの可能性論を言っただけのようで、それ以上続けようとはしなかった。
だが、俺はまだ納得できない。
「けどさ・・・だったら、犯人が二人いるってことじゃないですか」
ポリー・ニコルズの遺体は酷く切りつけられた腹から内臓が飛び出し、首の傷は脊柱に達する程深く、頭が殆ど切り落とされそうになっていた。
目の前の惨殺死体は、狂気の沙汰とすら言ってよく、ニコルズと同様に、やはり犯人は頭部切断を試みていたように見える。
そして、バックス・ロウでは未遂に終わった解剖が、現実に行われた・・・・何もないように見える、ぽっかりと空いた腹腔と肩の上に盛り上げられた塊が、それを物語っている。
これほど非情で残酷な犯行が・・・・それも徒歩10分圏内の近距離で10日以内に起きている酷似した2件の殺人事件が、別々の人物の手によって行われたなどと言われて、どうして納得できるのだ。
「だったら両利きだったのかもしれんな」
気のない調子でルウェリンが言った。
些か呆れ気味に。
あくまでバックス・ロウの犯行は左手で、ハンバリー・ストリートでは右手で行われた。
医師の目から見て、その事実は変え難いということなのだろう。
たしかに世の中には左右の手を自在に使える器用な人間もいる。
2件の殺人を行った犯人が、そういう両利きでないとは断言できない。
俺は遺体の足元で腰を落とし、泥濘んだ地面に目を向けると、誰へともなく問い掛ける。
「これは?」
そこには女性用の衣料品に使われるような、粗悪なモスリン生地が落ちており、その小さな布切れの上には、櫛と、真鍮の指輪が二つ、そして1ペニー銅貨が数枚と新しいファージング銅貨が2枚、綺麗に並べられている。
「遺留品です」
俺と同じベスナル・グリーン署所属のジョン・ニール巡査が教えてくれた。
「誰がやったんだ?」
改めてニールに確認する。
「ああ、並べてあるやつですか? 僕もチャンドラー警部補に聞いてみたんですけど、わからないって言ってました」
「チャンドラー警部補?」
聞き慣れない名前だった。
「はい、コマーシャル・ストリート署のジョウゼフ・チャンドラー警部補です。住人の通報を受けて、最初に現場へ駆けつけたのが彼です・・・。すいません、今はちょっと見当たりませんが」
俺がチャンドラー警部補らしき男を探して、キョロキョロしている様子に気が付き、ニールが最後のセリフを付け加えるようにして言った。
「第一発見者は?」
俺が聞くと、ニールは手に持ったままだった手帳を広げて報告してくれる。
「ジョン・デイヴィスという男で、ここの最上階の住人です」
ニールの報告を聞きながら、俺は建物を見上げる。
古びた煉瓦塀に張り付いた殆どの窓からは、興味深そうに老若男女の見物人が裏庭を覗きこんでいた。
ハンバリー・ストリート29番地とは、いわゆるロッジング・ハウスのたぐいのようだった。
「そのジョン・デイヴィスって男に会えるか?」
「僕も探したんですが、彼も今はここにいないようですね・・・どこかで事情聴取を受けているとは思うのですが」
あるいは俺達と入れ違いに、誰かに引っ張って行かれたのかもしれない。
「他に現場へ入った者は?」
「チャンドラー警部補が直接報告を受けたのは、ヘンリー・ホランドという若者かららしいですから、その者が入っている可能性があります」
「だったら、そのどちらかがやったのか・・・いや、それにしても意味不明だな」
自分で言っておいて、すぐに可能性を否定した。
現実的に考えて、殺人事件・・・それもここまでの惨殺死体を発見して、遺留品に触るだけでも不自然なのに、その遺留品をわざわざ一箇所へ綺麗に並べ直すような真似はしないだろう。
「あるいは、最初からあったのかもしれませんね」
俺よりも妥当な可能性をニールが述べて、なるほどと納得してしまった。
これではどちらが刑事だかわからない。
だが、そのニールの推理も、まもなくアバラインによって打ち消された。
「ジョージ」
いつのまにか遺体の傍らに腰を下ろしていたアバラインが俺を呼んだ。
「なんすか?」
彼の傍へ寄る。
「これを見ろ」
アバラインが遺体の胸のあたりを指で示した。
遺体は左肘を曲げて自分の鎖骨の下あたりに掌を広げており、人差し指と中指の付け根には、黒々とした痣が出来ていた。
「これって・・・ひょっとして」
「指輪の痕だろうな。長年身に付けていた指輪をとると、金属の種類や体質によってはこういう黒ずみが出来ることがある。女物としては、かなり大きな指輪をしていたのだろうが、それがどこかに消えている」
「つまり、あれは被害者の指輪・・・? でもなんで・・・」
「おそらくそうだろう。犯人は遺体から指輪をもぎ取って、それを持ち去ることなく、他の遺留品とともに、モスリンの布切れへ几帳面に並べて立ち去った・・・酷く冷静で、残酷な性格の持ち主でないと、そんなことは出来ないんじゃないか」
アバラインの推理は、その他の櫛や硬貨も被害者の持ち物と決めてかかっていたが、おそらく間違いないだろう。
犯人は被害者を殺し、解剖しつつもなお、探し当てた所持品を陳列する冷静さを保っている・・・ルウェリンではないが、これが悪魔の仕業でなくて何なのだ。
遺体の頭近くには、サセックス連隊の紋章が入った封筒が落ちていた。
消印は1888年8月28日でロンドン。
封は破られており、宛先住所の頭文字らしき『M』と『SP』の文字が残っていた。
封筒の中には、錠剤が3粒。
これらが被害者のものだとすれば、何かの治療を受けていたと考えられたが、あるいはただ拾っただけかもしれなかった。
今しがた通って来た、扉を開け放したままの家屋への入り口には、70センチ四方ほどの、石造りのステップが1枚。
ステップの向こう側には、金属板で粗末な雨避けが取り付けられた、腰丈ほどの小屋がある。
家屋に接しているところを見ると、恐らく地下室だろう。
扉には鍵が掛かっている。
庭の奥には、フェンス際に木造の建物もあった。
一見したところは物置小屋のように見えたが、壁に接して水場があるところを見ると、おそらくトイレだろう。
日当たりが悪いせいだろうか、足元には大きな水溜りが出来ている。
水場から少し離れた地面に俺は目を止めた。
「あれは・・・レザー・エプロンか」
四方をビルに囲まれているこの庭は水はけも悪いらしく、水道近くと同じような水溜りが、他に何箇所もあった。
そのうちのひとつには、茶色い革製のエプロンが落ちており、それは何時間もそこで水に浸っていたと一目で分かるほどに草臥れていた。
災難だったジョン・パイザーの誤認逮捕劇を思い出し、俺は密かに溜息を吐く。
それでなくても最近のイースト・エンドは、凶悪事件の発生や雇用問題を通して、ユダヤ人を始めとする外国人への風当たりは日々厳しくなっており、ジョン・パイザーの事件は起こるべくして起きたようなものだ。
ユダヤ人が多い皮革業者なら、誰でもレザー・エプロンは持っている。
この事態が新聞記事になれば、ふたたびあのような騒動が再燃するのは目に見えている。
来るべき混乱に重くなりがちな気持ちを振り切って、俺は頭の中で事実を再確認した。
ルウェリンの検死によると、被害者の死亡推定時刻は、少なくとも午前4時半より前。
最初に犯人は被害者の首を絞め、この中庭に横たえた状態で、生きたまま首を切り落とそうとした。
次に犯人は被害者の腹を解剖。
凶器は比較的大きな刃物で、凶行は右手によって行われた。
「子宮摘出など、ほとんどプロの手際だよ。そんなものを持って行って、何をするつもりなのかは知らんがね」
感心しつつも呆れたような口調で、ルウェリンは言った。
つまり幾つかの臓器が、遺体から持ち去られているということだ。
「ルウェリン先生の目から見て、犯人には解剖学の知識があると考えられますか?」
地下室の前にやや腰を屈めた姿勢で、入り口に掛かった南京錠を、人差し指で掬いあげながら、アバラインが質問した。
古ぼけた建物の作りたいして、錠前だけがやけにピカピカと光っており、とって付けたようにそれは見えた。
質問に対し、ルウェリンは即座に首を縦に振って肯定した。
「だったら、やっぱり・・・」
再び被害者の側へ腰を下ろしていた俺は、無残に切り刻まれた腹腔から視線を上げて立ち上がり、自分の思いを二人へぶつけようとした。
何らかの解剖学知識を持っているという見解は、まさしく、ポリー・ニコルズのインクエストの際に、ウェイン・バクスター検死官と、他ならぬこのルウェリン自身が述べていた言葉その通りである。
要するに、目の前の凶行を行った殺人者は、やはりあのバックス・ロウで、哀れな中年の街娼を殺害した犯人と同一人物の可能性が高いということを意味しているのだ。
しかし、俺が勢いよく立ち上がったその瞬間。
「おはようございます、フィリップス先生。朝早くからご足労頂きまして、誠に申し訳ございません」
少々慇懃無礼な調子でアバラインが出迎えた相手は、明け放たれた通路の前にいつの間にか現れていた。
「フィリップス・・・先生?」
「おはようアバライン警部補。こちらは?」
シルクハットにモノクル、タキシード姿で右手に黒鞄を下げたこの紳士は、警察医のジョージ・バグスター・フィリップスだ。
どう考えても検死の為にやって来た・・・それもアバラインの言葉から察するに、彼に呼ばれて登場したとしか思えない状況だが、すでに検死は俺の傍らに立っているルウェリンが済ませている。
そしてルウェリンも事態がわからず、アバラインとフィリップスの顔を交互に眺めている・・・・いつにも増して不愉快そうな表情で。
涼しい顔でアバラインが二人を交互に紹介し終えると、フィリップスの興味はさっそく職務遂行へ移ったようだった。
無言で被害者の傍らへ蹲り、遺体を覆っていた麻袋の端を摘まみ上げる。
「これは?」
誰へともなく発せられた質問に、ニール巡査が手帳を広げながら医師に近づいた。
「えっと・・・恐らく、この近くに勤務するジェイムズ・ケントという男が提供したもののようですね。発見者の一人で、『ベイリーズ・パッキング』という梱包材を扱う会社に勤務している男です。会社がすぐ近くにあるそうです」
「そうかね」
フィリップス医師は軽く相槌を打つと、丁寧に麻袋を傍らに纏め、検死に着手した。
ニールはさらなる質問回答の為に、暫くその場で待機していたが、やることがないらしいと理解すると、彼自身の仕事へ戻って行った。
麻袋の件は単なる興味本意の呟きだったのだろう。
その光景を俺と共にぼんやりと眺めていたルウェリンが、思い切った調子でアバラインに疑問を投げかける。
「理由を聞かせてもらえないかね、警部補」
「何のことでしょうか」
努めて静かに発せられたその声の端々に、隠しきれていない語尾の震えは、傷付いたルウェリンの怒りを表している筈だった。
逆に、アバラインはというと、極めて冷静であり冷淡ですらあるように俺には見えた。
目の前で遂行される検死のやり直し。
ルウェリンにしてみれば侮辱だろう。
「私の検死が・・・・・信用できないということかね」
開業医である彼には、昼間は病院の仕事がある。
患者は貧困層や流れ者が殆どであり、事故や喧嘩によって怪我人が運ばれてくることは日常茶飯事。
町ではギャングの抗争さえ珍しくはなく、時にはこうした残酷な殺傷沙汰さえ発生するわけだ。
夜中に警官や怪我人を搬送した住人たちから叩き起こされることも、珍しくはないだろう。
ホワイトチャペルにおける医者という仕事が、警官と変わらぬほど過酷な労働であることは想像に難くない。
おまけに患者の大半が低所得者層とあっては、診療報酬が必ず支払われるのかどうかも甚だ疑問だ。
犯行現場近くに病院と住居を構えていたというだけで、早朝から警官に連れて来られて、市民の義務という一念で良かれと捜査へ協力しているのに、それがこの仕打ちでは、ルウェリンとて怒って当り前だろう。
「ああ、フィリップス先生のことですか。単なるセカンド・オピニオンですよ」
再び地下室の鍵を、中腰の姿勢で弄びながら、アバラインが言った。
何か気になることがあるのかも知れない。
「セカンド・オピニオン・・・」
ルウェリンが鸚鵡の様に繰り返す。
「ええっと・・・、まあ、ルウェリン先生も病院の仕事があるでしょうし、毎回こんな事件ばかりに付き合わせてちゃ、申し訳ないですから・・・」
「私はもう帰って良いと?」
俺の言葉を遮って、ルウェリンがアバラインへ確認した。
気不味いことこの上無い雰囲気を取り繕うつもりだったが、俺の言い方では、まるでルウェリンを追いかえすように聞こえたのかもしれない。
「いや・・・べつに、そういうつもりは・・・」
「結構ですよ」
無用な口を挟んで後悔しながら言い訳しようとしていた俺は、今度はアバラインに言葉を遮られた。
俺はこちらへ向けられた華奢な背中を、まじまじと眺める。
「何と・・・仰いましたかな、警部補」
「もうお引き取り頂いて、結構ですと申し上げたのです、ルウェリン先生」
漸く鍵から手を放したアバラインが、端正な顔をこちらへ向けながら、些かも変わらぬ声の調子で、はっきりとルウェリンに退去を通告していた。
「・・・・・」
俺は茫然と彼を見る。
アバラインが何を考えているのか、まったくわからなかった。
しかし、貴重な睡眠時間を犠牲にして、捜査協力を買って出てくれた町医者のルウェリンに対して、この仕打ちはどう考えても酷いだろう。
「失礼する」
それだけ告げると、ルウェリンは足元から鞄を引っぱりあげ、現場に一瞥もくれることなく、早い足取りで中庭から出て行った。
終始ルウェリンが声を荒げることはなかったが、眼鏡越しにアバラインへ向けられた青い瞳と、シルクハットの下で紅色に染まった色白の耳と首筋が、言葉にされなかった彼の憤慨を物語っているだろう。
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