「朝から申し訳ございません」
扉を開けたリチャードソン夫人は、早朝からの騒ぎで疲れた様子だったが、俺の訪問を嫌がっている様には見えなかった。
「構いませんよ、起きたのはずっと前ですから。死体のことですね?」
「はい。お話を伺えませんか?」
既に何度か刑事の事情聴取に付き合っていたらしく、寡婦の彼女は慣れた口調で話を始める。
夫人が起きたのは6時頃で、孫のトマスが彼女を呼びに来た為らしい。
「下の廊下が騒がしく、火事だと思って下りたトマスが裏庭で死体を見つけたのです。そして私を起こしに来ました。・・・大変だよ、お婆ちゃん! 殺人事件だ! そう聞かされて、私も裏庭へ行って、死体を見ました。それはもう、本当に酷いもので・・・」
それからリチャードソン夫人本人についても話を聞かせてもらう。
夫のトマス・リチャードソンは既に他界。
現在は孫のトマスとともに、ここ、ハンバリー・ストリート29番地の2階に住んで下宿屋を営む傍ら、地下室と中庭を荷箱製造業者の息子、ジョンに提供しており、彼女も息子の仕事を手伝っているそうだ。
続いて最上階を訪ねてみるが、第一発見者のジョン・デイヴィスはまだ帰っていなかった。
下へ戻りもう一度中庭を覗くと、遺体に麻袋が掛けられた状態で、荷車に乗せられていた。
検死が終わり、遺体安置所へ移動されるのだろう。
アバラインの姿は見当たらない。
通りへ出ようとすると、俺の後ろから荷車が運ばれてきた。
追い立てられるようにして通路を出てから、玄関先で脇へ寄る。
「売春婦が死んだの?」
突然高い声に話しかけられ、ジャケットの裾をクイクイと引っ張られた。
傍らを見下ろして、ボロ衣の塊から覗いている、青く丸い光をそこに見付ける。
ボロからは汚れた小さな手が伸びていて、その指先が俺の服をしっかりと掴んでいた。
毛布と思われる塊がごそごそと動いて、隙間から小さな頭が飛び出す。
土埃と汗で汚れていたが、髪は明るいブラウンで、色白の肌を持つ、おそらく少年だった。
年は10歳にも満たないだろう。
そんな子供が、普通に売春婦などという言葉を口にする現実に、俺は閉口しかけた。
だが、このホワイトチャペルで売春行為は日常のありふれた光景だ。
先週アーノルド警視の元で踏み込んだ、オールド・キャッスル・ストリートの『イエロー・ローズ』で、躰を売っていたのは、10代前半の少女達がほとんどだった。
「売春婦と決まったわけじゃないよ」
このような社会をいつかなくしていかないといけない・・・だが、自分が生きているうちに、現状が変わる見込みなどどこにもないだろう。
眩暈がするような絶望感に囚われつつ、俺は少年に返事した。
「でもみんなそう言ってる」
子供がいようが、10代の少女が聞いていようが、そんな会話がごく当たり前なのだ。
うんざりしてくる。
「お前、この辺に住んでいるのか? お袋さんは?」
「そこにいるよ」
そう言って、少年は通りの向こう側にある小さな店舗を指さした。
まだ閉まっている何かの商店や資材置き場になっている空き地と並んで、『レインのコーヒー店』と看板が出ている営業中の店がある。
カウンターの中では俺と年の変わらない女が一人、慌ただしく客にカップを差しだしたり、注文を受けたりしていた。
黒いドレスに白いエプロンを掛け、栗色の長い髪を後ろで結えた、なかなか目を引く色白の美人である。
彼女が少年の母親なのだろう。
マダム目当ての男客ばかりなのだろうか、店は結構賑わっているようだった。
「お袋さんと二人暮らしなのか? 名前は?」
女に目を留めたまま少年に聞くと。
「フレッド。親父はたまにしか帰って来ないよ。だから俺がお袋の用心棒をしているのさ」
フレッド・レイン少年はそう言って、可愛らしい胸を張って見せた。
「心強いな」
残念ながらお袋さんの名前を聞き出すことは出来なかったが、色白の母親と少年の可愛らしい顔を見比べて、同じ名前を持つ彼もまた、あるいは子供頃こんな感じだったのかもしれないと、ふと思う・・・。
「今のが死体?」
甘酸っぱい感覚にとらわれていると、小さなフレッドが再び俺に聞いて来る。
開け放した狭い扉からは、ガタガタと手間取りながら巡査たちが荷車を押し出し、そのままオールド・モンタギュー・ストリート方面へと押して行く。
「どうだろうな」
その通りだと言うのも躊躇われ、俺は言葉を濁す。
どう考えても、10歳にも満たない可愛らしい子供の目の前を、血腥い惨殺死体が通り過ぎて行ったというのは、美しい思い出といえない。
「でも、赤い雫が点々と落ちてたよ。あれって血でしょ? ポリーみたいに殺されちゃったの?」
なんと少年はバックス・ロウの通称ポリーこと、メアリー・アン・ニコルズを知っていた。
「さあな。いいから早くママのところへ帰ってやれ、用心棒」
そう言うと俺は腰を屈めて、掌に収まるほどしかない、小さな騎士の背中を、ポンとひとつ叩いてやった。
「うん」
フレッド少年は素直な返事を聞かせてくれると、通りの向こう側へちょこまかとした足取りで走って行く。
ちょうど店先で黒板のメニューを書き直していた母親は、我が子を一旦抱き締めながら出迎えたが、好奇心旺盛な息子から毛布を預けられると、再び彼を送りだしてしまった。
どうするのかと見ていると、フレッド少年はそのままオールド・モンタギュー・ストリートへ向けて走って行った。
ひょっとしたら、遺体安置所まで荷車を追いかけるつもりなのだろうか。
「やれやれ」
「あんた刑事かい?」
不意にしわがれた声で話しかけられて、ギョッとしながら振り返る。
そこには中年の小さな女が、ギロリとした黒い瞳を俺に向けて立っていた。
「ああ、そうだが・・・あなたは?」
「あたしは犯人を見たんだよ」
「何だって!?」
中年女の衝撃発言に、俺は仰け反りそうになったが、急いで手帳を出すと彼女から証言を聴取した。
女曰く、5時15分頃にハンバリー・ストリート29番地の前を歩いていると、少し離れた場所で男と女が会話しているところを目撃。
「男が『やるかい?』って聞くと、女が『いいわよ』って言っていたのさ。わかるだろう? アレの交渉をしていたんだよ。リチャードソンの中庭は、そういうことにしょっちゅう使われていて、男と女が夜通し連れだって出入りしているからね。哀れな売春婦が、レザー・エプロンに捕まって、ここで殺されちまったってわけさ」
「マジかよ。男の風貌は・・・いや、ちょっと待って。時間は間違いないか? 1時間ほど違ってるってことは・・・」
「ゴドリー巡査部長」
重要な目撃者の登場に興奮していた俺は、証言の時刻に引っかかり、女に再度確認しようとした。
そこへ聞き慣れぬ男の声が俺の名前を呼び、会話を一旦切ると俺は彼に断りを入れる。
男は何度か合同捜査会議で見かけた相手で、おそらくホワイトチャペル署の刑事だとは思うが、よく知らない顔だった。
「すいません、少しだけ待ってもらえますか。・・・それで、ええっと・・・あれ? ちょっと待って、あんた・・・」
再び目撃者へ向き直り、時間を再確認しようとするが、女はいつのまにか俺に背を向け、どこかへ行きかけていた。
俺が慌てて女を追いかけようとすると。
「ジョージ、こっちへ来い」
どうやらアバラインも建物から出て来たらしく、ファースト・ネームで俺を呼んだ。
だが、貴重な目撃証言を掴みかけていた俺としては面白くない。
「待って下さいって、今目撃者から話を・・・」
「ロング夫人からは、すでに僕を含めて、ここいる殆どの刑事が話を聞いてるよ」
「えっ・・・」
ホワイトチャペル署の刑事がそう言って、さすがに俺は足を止める。
話の流れから察して、ロング夫人というのが女の名前だろうということはわかるのだが、そういえば、俺は女から名前すら聞き出せていなかった。
もう一度アバラインに呼ばれて、俺は素直に従った。
「紹介する。彼はウィリアム・シック巡査部長でホワイトチャペル署の刑事だ。こちらはベスナル・グリーン署のジョージ・ゴドリー巡査部長。何度か捜査会議で会っているだろうから、互いに顔ぐらいは知っているな?」
アバラインの紹介を受けて、改めてニッコリとした笑顔を見せながら差し出してくれたシックの右手を、俺は握りかえす。
「よろしく、ゴドリー巡査部長」
「ええと・・・よろしくお願いします・・・シック巡査部長」
シックは見たところ、恐らくアバラインとそう年は変わらないように見える。
ベテラン刑事といった感じだったが、非常に礼儀正しく終始ピンと伸びた背筋と、身なりのきちんとした清々しい印象の男だった。
引き続きアバラインが、外見と人柄から、シックには『まっすぐジョニー』という渾名があるからそう呼んだらどうだと俺に言ってきたが、これにはシックが顔を赤らめ、普通にビルでよいと訂正していた。
印象的な渾名を聞いて、漸くシックのことを思い出したが、脳裏に蘇ったのはあくまで渾名だけだ。
そういえば、相手は俺の名前まできちんと覚えてくれていたというのに、俺の方はその記憶すらも無いに等しかった。
刑事としてのキャリアも年齢も、相手が上だというのに、これは実に失礼な話である。
俺が反省していると、シックが話しかけてきた。
「エリザベス・ロングについては、話半分程度に聞いていた方がいいよ」
「え? ああ、さっきの女・・・」
名前はエリザベス・ロングというらしい。
シックが引き続き、現場にいる殆どの刑事が彼女から声を掛けられており、彼自身到着早々ロング夫人に捕まって話を聞いたらしいが、真面目にメモをとった後で、他の刑事達と証言を突き合わせると、目撃時刻が違っていたり、男の身長が170センチほどかと思えば、別の刑事には180センチ以上の大男だと話していたり、ハンティングを被っていたり、シルクハットだったりと、まちまちだったのだという。
「ちなみに俺には、2メートルを超える熊男で、黒いマントから巨大な男根を突き出していた言っていた・・・・メモすらとらなかったがな」
真面目に話すアバラインの報告に、俺は吹き出したが、シックは俯きながら照れくさそうに口元を歪ませるだけだった。
下ネタは苦手なのかも知れない。
まあ、アバラインも別に笑わせるつもりで言ったわけではないのだろうし、綺麗な顔で性器の話などされることにも、俺自身あまり慣れないのだが。
とはいえ、彼自身けして純潔ではないことを、俺はほんの数時間前に身をもって知ったばかりだ。
否。
結婚していたのだから、純潔であるはずなどない。
当然だ。
そのような、下らないことを俺がつらつらと考えているうちに、仕事の早いシックが聞き込みをした結果を、俺とアバラインに教えてくれていた。
彼はスピッタルフィールズ・マーケットへ向かって、アメリア・リチャードソンの息子、ジョンから話を聞いていた。
俺がこのあと、聞きこみをしようと思っていた相手だった。
「4時45分に母親を訪ねたジョンは、裏庭のドアを確認するために、中庭へ入ったそうです。なんでも数箇月前に地下室から鋸とハンマーが盗まれたそうで、また、階段と踊り場が売春行為に使われたことがあるらしく、ときどき中庭を覗いていたと言っていました。ですが、通路から首を伸ばして地下室の入り口を見たところ、このときは異常がないと判断して満足したようです。そして入り口のステップに腰をかけたジョンは、ブーツの革が痛かったために、持っていたナイフでその部分を切りました。彼曰く、中庭に女の死体があったかも知れませんが、気付かなかったと・・・」
几帳面に文字が連なっている手帳を見ながら、シックが報告を終える。
「すると、ジョン・リチャードソンはそこそこの時間を、あの中庭で過ごしていたということになるな」
「中庭へ下りなかったとしても、地下室の入り口を点検しただけではなく、そこでブーツを脱いで、革を切っていたわけですから、通り過ぎたり、立ち寄っただけというのとは、訳が違うでしょう。・・・ところで警部補、もう一点、コマーシャル・ストリートで声を掛けて来た新聞記者から、気になる情報が入っております」
「なんだ言ってみろ」
アバラインに促され、シックは手帳のページを捲ると、別の案件について報告を続けた。
「フィッツロイ・スクエアで女の死体が見つかったそうです。被害者の名前はヴァイオレット・ミラー。35歳で殺害現場の近所に住んでいる娼婦です」
「娼婦だって!? それって、まさか・・・」
よもやホワイトチャペルの一連の事件が、ウェスト・エンドにまで飛び火したのだろうかと勢い込んだが、話す傍からアバラインに否定される。
「いや、あの界隈で商売している娼婦といったら、金持ち相手の高級娼婦ばかりだろう。遺体の様子はどうなんだ?」
「はい。所持品は荒らされていましたが、遺体を必要以上に暴行した形跡はないそうで、記者も物取り目当てか、あるいは怨恨だろうと見ている様子です。間違ってもポリー・ニコルズや、今回の事件と同じ犯人とは考えられないですね」
綺麗なラインを描く眉を片方だけクイッと上げながら、アバラインがヘイゼルの瞳をシックに向けると。
「怨恨・・・遺体に毀損された形跡がないと、今言ったばかりなのに、なぜそう思うんだ? 被害者は誰かと揉めていたのか」
「ヴァイオレット・ミラーは『ハンティング・パーティー』とも交流があるような女だそうで、あるいは彼女に強請られた上流階級の男が、人を使って殺害させた可能性も、なくはないだろうと」
「ハンティング・・・?」
「なるほど・・・どちらにしろ、本件とは関係なさそうだな。それはウェスト・エンドでやってもらえばいいだろう。ビル、ご苦労だったな」
話を聞きながら書きこんでいた手帳をアバラインがパタンと閉じると、報告者を労う。
シックも自分の手帳を閉じて懐中のポケットへ差し込んだ。
どうやら俺一人が話に付いていけてないようだった。
狩猟が上流階級の趣味だろうぐらいのことはわかるのだが、それでどうして高級娼婦を誰かに殺害させるというところまで、話が飛躍してしまうのだろうか。
ディレクが止めた馬車にアバラインが乗り込み、続いてシックが隣へ座ると、俺にも乗るように促してきた。
署へ一旦戻るつもりなのだろう。
もやもやとした気持ちのままホワイトチャペル署へ向かう。
道中、それとなく気付いてくれたシックがそっと教えてくれた。
『ハンティング・パーティー』とは、確かに「狐狩り」を目的とした狩猟の為のグループで間違いないのだそうだが、驚くべきことにその集会場所は主にケンジントン宮殿であり、『ロイヤル・アルファ・ロッジ』における少数グループのひとつなのそうだ。
『ロイヤル・アルファ・ロッジ』とは、ケンジントン宮殿に本拠地を置く、我が国最高の『フリー・メイソン』のロッジ。
そこのグランド・マスターは他ならぬアルバート皇太子殿下ということである。
まったくもって、畏れ多い話であった。
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