捜査会議の結果、いくつかの新事実発見と情報の精査が行われた。
被害者の名前はアニー・チャップマンで、年は48歳。
内縁の夫が篩職人のジャック・シーヴェイであるためか、人によってはアニー・シーヴェイと呼ぶ人もいるようだった。
この界隈の住人にありがちなことで、ポリー・ニコルズも同じだったが、時期によって住所が異なり、この数カ月はドーセット・ストリートのクロッシンガム・ロッジング・ハウスにいたそうだ。
この日の明け方、宿を出たチャップマンは、ハンバリー・ストリートへ辿りつき、もしもエリザベス・ロングの証言が本当であれば、5時45分頃に29番地で身長170センチか180センチ強、あるいは2メートルを超える、ハンティング、あるいはシルクハットを被って、黒いマントから巨大な男根を突き出した熊男と交渉し、29番地の中庭で殺害されたということだ。
ちなみにエリザベス・ロングの証言に一応の重きを置かれたのだろうか、死亡推定時刻はルウェリン医師が見立てた4時半より前から、4時半から6時の間に修正された。
会議のあと、資料に目を通しているアバラインを捕まえた俺は、漸くじっくりと二人で話す機会を得ていた。
時刻はすでに午前9時を回っている。
結局、徹夜になってしまい、岩石を脳へ押し込まれたように頭が重かったが、アバラインはそれ以上の疲労の筈だった。
「フレッド、ちょっといいですか?」
「何だ?」
端正な横顔はヘイゼルの瞳を一瞬、俺に向けただけで、すぐに捜査資料へ視線を戻した。
色白の肌はいつも以上に血の気がなく、目の下は痛々しい程の青黒い隈になっていた。
ほんの数時間前、俺がこの人にしたことを考えれば、体力の消耗は察するにあまりあるだろう。
「あの・・・」
目の前の華奢でありながら、しなやかな肢体が、俺の腕の中でどのように乱れ、いつも冷静な声音が、いかに艶っぽく激しい嬌声を聞かせてくれたことかを思い出し、躰の芯へまた火が点りそうになる。
「何なんだ、早く言ってくれ」
いつまで経っても話を切り出さない俺に不審さを覚えたのだろう。
アバラインが鋭い眼光と苛々とした声を掛けて寄越し、俺はふしだらな妄想を慌てて頭から追い払った。
そして現場で唯一理解が出来なかった疑問について話を切りだす。
ルウェリン医師へ見せた、彼の対応のことだった。
「どうしてもわからないんです・・・セカンド・オピニオンの重要性については、俺も否定する気はないですが、それにしてもなんというか・・・いくらなんでも、あれではルウェリン先生も気分を害されて当然というか・・・」
「つまり、俺の態度が無礼だろうと」
「あ・・・いやそんなつもりは・・・まあ、多少そういうところもあるのではないかと」
否定しかけ、自分のはっきりとしない物言いに嫌気が差し、アバラインが言うところを認めた。
俺の口調が滑稽だったのだろう。
アバラインの顔が苦笑に歪む。
すると、不意に彼は席を立ち、綺麗にファイリングされた書類から、一枚の紙片を俺に渡してきた。
それは新聞らしき、印刷された、粒子の荒い紙の切り抜きである。
媒体名と日付は、残念ながら不明だが、ルウェリン医師へのインタビューだった。
だが、とりたてて長く掲載されているわけではないその取材記事に、気になるような変わった内容は見当たらない。
どれも自分が知っている事実ばかりである。
「そこに『大量の出血があった』と書いてあるだろう」
「ええ・・・それが何か?」
確かにあのとき、バックス・ロウの現場は事件の痕も生々しく、路面には大量の出血や遺体からの残存物が・・・いや、違う。
俺は自分の記憶を、慌てて訂正した。
俺達が現場へ到着したとき、あの通りではちょうどオールド・モンタギュー救貧院の人々がデッキブラシを手にして路面を洗い流していたのだ。
そこにいたアザミ・ジョーンズは、突然やって来たアバラインに詰め寄られて、すっかり彼に委縮した。
俺とアザミが深く知り合うきっかけとなったのが、あの無残な殺しの現場だったのだ。
それはともかく、現場には大量の出血が残されていたのではない。
大量の出血があったのであろう事実を窺わせる路面を、綺麗に掃除している人々がいたのだ。
俺は自分の記憶の曖昧さに呆れた。
「ルウェリン医師は誤った情報をメディアへ流した疑いがある」
「どういう意味です?」
アバラインが意図するところを俺は測りかねた。
到着した現場では、路面を洗い流している人々がいた。
しかし、遺体から大量出血があったのは、医師の検死結果から明らかであり、疑問を差し込む余地はない。
宿代が払えず暗いバックス・ロウを歩いていた哀れな中年娼婦のポリー・ニコルズは、声をかけてきた殺人犯に襲われた。
傷口は深く、恐らく犯人は現場で遺体の解体を試みた。
犯人は解剖学知識を持っている、左利きの男・・・あるいは、両利きの。
「ニコルズの遺体に残された痣は顔面の右から顎にかけて。それと左側の顎にも円形の打ち身があった。こういう痣は普通、どういうときに出来る?」
「ですから、左頬を殴って昏倒させ、次に右手で口元を強く押さえて、喉元を・・・」
「両手を使って、相手の悲鳴を抑えながら首を絞めたときに出来ると・・・それも女性の被害者が男に殺された可能性が強いときには、そう考えるのが普通じゃないのか」
ルウェリンの検死報告そのままを言いかけていた、俺の回答を遮るように、アバラインは苛々とした声でそう言った。
最初から答えさせる気がないのであれば、質問してくれるなと言いたい気分で、俺は口を閉じた。
だが、確かにその通りだろう。
それでも、被害者が傷口から大量の出血をしているのであれば、絞殺の可能性は否定される・・・・そう考えかけて、俺はハッとした。
「まさか・・・」
漸くアバラインが言いたい事が、わかった気がした。
ごく単純な話だったのだ。
「フィリップス先生はこの彼の検死報告を読まれて、絞殺だろうと言ったよ」
ポリー・ニコルズがもしも絞殺されたのであれば、現場に大量の血が残っていなくて当然だ。
石畳を磨き上げるまでもなく、被害者が残した血も残存物も、最初からないに等しい。
ならば、なぜルウェリンはあのような検死をした?
そこで俺は、ニコルズの遺留品を思い出した。
まだ8月だというのに、ペチコートを2枚も重ねて着ていた、哀れな中年街娼の遺留品を。
「けれど、・・・じゃああの衣類は・・・? ペチコートには被害者のものと思われる、かなりの出血の痕が・・・」
俺が言いかけたところで、不意にアバラインは刑事課の入り口から廊下へ出ると、戸口に掛けてあった消火用のバケツを提げて戻って来る。
そして、入り口付近の机で報告書を書く手を留めて、俺とアバラインのやりとりに聞き入っていたらしい、ディレクの隣で立ち止まると。
「ジョージ・・・・・・お前ならどう思う」
名前を呼んで俺の注意を引き、次に、わざとらしいほどのゼスチャーでバケツの中身を自分で確認して、ディレクにも確認させると。
「フレッド・・・・!?」
派手に水を床へぶちまけた。
ディレクも呆気にとられて床とアバラインの顔を交互に眺めている。
「この水は一体、何パイントだ?」
淡々とした声で、アバラインは質問を続けた。
積年の事件発生に、刑事達の靴で踏みしめられた凹凸と摩耗の激しい、黒ずんだ床へ、じわじわと水溜りは広がり、所々で黒く染み込んでゆく。
「5・・・・いや、6か7パイント?」
こんなものは思い付きでしかない。
水溜りの容積など、真面目に考えた人はそうそういないだろう。
「1パイント未満。2カップあるかないかだ」
そう言ってアバラインは、バケツを持っていない方の親指と人差し指の間を、顔の横で数センチ広げて見せた。
隣でディレクも、間違いないと言いたげに、うんうんと頷いている。
「・・・・・・」
俺は溜息を吐くと、机から飛び出していた誰かの椅子へどかりと腰を下ろした。
アバラインのやり方は確かにいやらしかったし、少々腹立たしくもあった。
しかし言われたことには反論できない。
追い打ちをかけるように、アバラインが言葉を重ねて来る。
「ついでに指摘しておくと、ニコルズのペチコートにも血の染みは確かにあったが、フランネルの生地にじんわりと染み込んでいた程度で、外側に着ていたであろうウールのほうや、スカートには殆ど染み込んでいなかった筈だ。血液の循環している人間を解体すると、あの程度の出血ではすむまい。逆に絞殺後まもなくであれば、太い血管にはまだ血液が残っているし、凝固もしない。ペチコートの血の染みは、息が無くなったニコルズの腹部を解体しようとした際に、流れ出た程度のものだと思うぞ。そして、頭部切断をはかった際にも当然そういう出血はあったろうな・・・残念ながら、俺達には確認できなかったが」
もちろん、ルウェリン医師はそれを見たであろう。
そして惨劇が起きた殺人事件現場であれば、地面や衣類に残された血痕を見て、あるいは現場が血の海だったと錯覚を起こしたかもしれない。
現場を見た筈の俺の記憶にしたところが、実際に、呆れるほど曖昧だった。
そして、たった今も俺はその錯覚を起こしたのだ。
「ニコルズは絞殺・・・じゃあ、ルウェリン先生の検死は、間違っていたのか」
その可能性は、低くないだろう。
独り言のように俺が呟くと。
「正確にはシュウェリンだそうだ」
「えっ・・・」
馬鹿のように床の水溜りをずっと眺めていた俺へ、アバラインが謎の訂正を言い添える。
これとよく似た言葉を、つい最近どこかで聞いていた筈だが、すぐには思い出せなかった。
「ルウェリンではなく、シュウェリンだそうだ。本人がそう言っていた」
呆けた返答をした俺にアバラインはさらにそう繰り返し、さっさと席へ戻ってしまった。
「はあ・・・」
彼が自分の仕事を再開したのを確認し、俺はもう一度視線を水溜りへ戻す。
「これ、・・・もういいですかね?」
いつのまにか雑巾を取りに行っていたディレクが、アバラインを気にしながら恐る恐る俺に聞いてきた。
俺が頷くと、ディレクが床へ跪き、健気にも水溜りを掃除し始める。
俺も自分の席へ戻って、報告書をのフォーマットを広げた。
消火用のバケツに2カップ足らずの水しか入っていなかった事実は、確かに問題だ。
しかしバケツの大きさと、床に広がった面積の広い水溜りや染みを見て、俺はその中身が数倍ほどもあると思いこんでしまった。
その錯覚を、なぜルウェリン・・・いや、シュウェリンが起こさなかったと言い切れるだろうか。
なるほど、絞殺してから首を切ったのであれば、確かに出血量は少ないだろう。
「セカンド・オピニオン・・・」
その言葉を、俺は噛み締めるように呟いた。
やられた方は気分が良くないかもしれないが、その重要性は計り知れない大きなものがある。
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