男の名前はトマス・ノーマン。
見世物小屋の興行師であり、エレファントマンことジョウゼフ・メリックをかつて雇っていた男であった。
当時はホワイトチャペル・ロードでショーを見せていた彼は、警察の取締りを受けて店を閉じ、その後メリックが社交界で持て囃される一方、これでもかというような新聞のしつこいバッシングによって、すっかり悪役にされたのが彼だった。
その後ノーマンは浮浪者同然の生活を余儀なくされたうえに、行く先々で社会の敵のような扱いを受け、見世物小屋では閑古鳥が鳴く日々が続いていた。
辛酸を長く舐め続けたノーマンが、ここまで見世物小屋を立てなおすのは、容易な努力ではなかったことだろう。
それだけに、彼が警察と新聞を敵視するのも無理はないかもしれない。
「本当はジョーの方からトミーに、見世物になりたいって言ってきたのにね」
リリーが哀れみ深い声で、ノーマンへ同情を寄せる。
そのノーマンが不意に俺へ視線を向けると。
「で、警察の方があたしに何か御用で!?」
実につっけんどんな声で聞いてきた。
ノーマンが警察に良い感情を抱いていないことには理解を示すが、なぜアバラインではなく俺を睨んだのかがわからない。
「えと・・・あの・・・」
そういえば、何をしにここへやってきたのだろうか。
何しろ一方的にアバラインから引っ張りこまれただけで、訪問の目的を俺は聞いていない。
あるいは、ただショーを見るためだったのか、それともリリーや、このノーマンへの挨拶のつもりだったのか。
俺が、しどろもどろになっていると。
「明け方、この通りで女が殺された事件は知っているな。何か気づいたことはなかったか?」
アバラインがノーマンへ尋問をした。
やはり聞き込みのためだったらしい。
ノーマンは、とくに気になったことはないとぶっきらぼうに返事をして、テントへ戻ってしまう。
不意にリリーが後ろを向いて、にっこりと微笑んだ。
「遅かったね、ヘンリー」
視線の先は、見世物小屋とお化け屋敷らしき、別のテントとの間。
そこに、新しい訪問者が立っていた。
「ただいま・・・こいつらは?」
「こら、そういう言い方しないの!」
ヘンリーを叱ったリリーは、俺たちとヘンリーを互いに紹介してくれる。
それを待つまでもなく、リリーとよく似た顔でわかったことだったが、彼はリリーの弟のようであり、驚いたことにハンバリー・ストリート29番地で起きた殺人事件の、目撃者の一人。
名前をヘンリー・ジョン・ホランドという、19歳の青年・・・年齢的にはそうなるのだろうが、身長160センチそこそこの、姉そっくりな彼は、一見すると男か女かもわからないような可愛らしい少年だった。
一方リリーの本名はリリアン・グロリア・ホランドで、ヘンリーとは1歳違いらしい。
「さっそくだけど、8日の朝・・・」
手帳を片手に、俺が話を切り出した途端。
「あんたら警察は、真面目に捜査する気があるのか!」
少女のように華奢な拳で、俺のスーツの襟を握り締めながら、ホランドは可愛らしい小さな顔を紅潮させて怒鳴った。
「えっ・・・?」
「ヘンリーやめなさい!」
リリーが間に入って、弟を窘めてくれる。
その後ホランドは、アバラインが捜査担当責任者であることを知ると、漸く冷静な声で事件当時の彼の行動について教えてくれた。
ハンバリー・ストリート29番地の裏庭を出たホランドは、まっすぐコマーシャル・ストリートへ向かい、スピッタルフィールズ・マーケットを訪れた。
そこで見付けた警官に、『バックス・ロウと同じような死体がある』と訴えたが、警官はその場を離れようとはしなかったらしい。
仕方なくホランドは、次にコマーシャル・ストリート署へ走り、当直の警官へ自分が目撃したことを伝えた。
その警官は真面目に話を聞いてくれ、すぐに現場へ急行してくれたが、問題なのは酒を飲んでいた点だと彼は言う。
「酒を・・・飲んでいた?」
「ああ、そうさ。ウィスキー・ボトルを手に、酒臭い息で、俺達の話を聞いていたよ」
ホランドの話は、それまで俺達がチャンドラー警部補から直接聞いていた内容と、ほぼ一致する。
だとすれば、その酒を飲んでいた警官はチャンドラー本人ということになってしまうのだ。
「君はなぜ、まっすぐにコマーシャル・ストリート署へ行かなかったんだ?」
アバラインが話を変えた。
「あの時間、一番人が多いのが、あの場所だからだよ。大抵警官もいるし、もし見付けられなかったとしても、市場にいる誰かに警官を探してもらうように、頼むこともできるじゃないか」
「なるほど。・・・おそらくその場に立っていた者は、任された警備のために、勝手に持ち場を離れるわけにいかなかったのだろう。それは、市場で事件や事故が起きたとき、すぐに対処するためだ。もちろん、君はその重大な事件を目撃して、彼に訴えたのだから、ハンバリー・ストリート29番地が彼の持ち場でなかったとしても、動かなかった彼の判断が間違っている。警察の人間として、私から君に謝罪させて頂く。誠に申し訳なかった」
アバラインの真摯な態度を目の当たりにして、ホランドはさきほどの勢いはどこへやら、見る見る頬を染めながら狼狽えた。
「いや・・・べつに、あんたが悪いわけじゃないからさ・・・」
「こっちこそごめんね、刑事さん。この子口の利き方が、まるでなってないからさ。まったくいつも言ってるでしょう。外に出て年上の人に、生意気にしちゃ駄目!」
「いてっ・・・わかってるよ。姉貴、つねんなよ・・・爪が食いこむだろ!」
リリーに摘ままれた肘を、痛そうに擦りながら、ホランドが赤い顔で抵抗する。
本当に肘が痛いというよりも、色っぽいドレス姿の姉に擦り寄られて照れ臭いように見えた。
そんな弟に、リリーはお構いなしでしがみつく。
「あんた、全然わかってないじゃないの!」
「わかったから、やめろって言ってんだろ・・・」
可愛らしい姉弟の様子は、なんとなく微笑ましいものだったが、その背景にある出来事は暗い社会の現実だ。
恐らくは十代半ばから見世物小屋で、下品な観客相手に芸を見せる少女。
惨殺された売春婦殺人事件の、目撃者である弟。
そして、チャンドラーが酒を飲んでいたというのは、一体どういう意味だろうかと、俺は考える。
「あなたも刑事なのか?」
ホランドがふたたび俺へ視線を向けた。
姉に叱られて、少しだけ言葉を改めたようだった。
「ああ、ベスナル・グリーン署のジョージ・ゴドリー巡査部長だ」
改めて自己紹介をすると。
「結局警察だって、貧しい下町で起きた殺人事件なんか、真面目に捜査する気ないんだろ?」
「何を言っている、そんなわけないだろ」
この言い方にはさすがに俺も腹が立ったが、犯人が逮捕出来ない以上、ある程度の批判はどうしようもないのかもしれない。
「昨日のコマーシャル・ストリート署の対応だって、いい加減なもんだったしな。俺の話をちゃんと聞く気があるようには見えなかったぜ」
「そんなことはない。あの後チャンドラー警部補は、実に精力的な聞き込みをしていたんだぞ。徹夜明けだというのに・・・」
「あのデカイ、酔っ払い警官の方じゃねえよ、仕事の後で立ち寄ったときに出てきた、若い警官の話だっての」
仕事のあとで、立ち寄った・・・?
「お前・・・昨日、もう一度コマーシャル・ストリート署へ行ったのか?」
そこで、チャンドラーは今朝の会議で、ホランドから得たらしい、新たな証言を追加していたことを思い出した。
言われてみれば、昨日チャンドラーは、各目撃者達の仕事が終わった頃に、もう一度聞き込みをすると、予定を話していた。
だが、ホランド自らコマーシャル・ストリート署へ再訪したという話は初めて聞く。
「ああ、警察の対応にどうしても納得がいかなかったからな。クレームを言う為に行ったんだよ」
つまり、事件のことでチャンドラーから呼ばれていたわけではなく、まったく個人的な苦情を申し立てるために、ホランド自らの意志で、コマーシャル・ストリート署を訪問していたというわけだ。
チャンドラーはこの件について、あるいは意図的に隠したのだろうか・・・飲酒の件とともに。
その後ホランドは、話しているうちに怒りが再燃してきたのだろう。
結局俺は、最終的に「警察は真面目に事件を捜査しろ」と彼から怒鳴られる羽目になった。
その頃アバラインは、再びノーマンと話しこんでいたようだった。
そういえば、ノーマンがつっけんどんな声で訪問目的を聞いてきたのも、俺に対してだったと俺は思い出す。
「責任者はフレッドの方だっていうのに、なんで皆、俺にばっかり文句を言うんだ・・・」
我知れず、つい愚痴が零れてしまった俺に。
「それはあんたが、言い易そうな顔してるからじゃないの?」
いつの間にか隣に来ていたリリーが、同情を滲ませた声でそう言う。
「言い易いね・・・俺ってそう見えるんだ・・・」
言われてみれば、『マダム・マギーの家』のリジーにしろ、『テン・ベルズ』のマスターにしろ、俺には言いたい事を言ってくれている・・・まるで客扱いされずに。
「姉の立場で言えた義理じゃないんだけどさ、あの子昔っから正義感強くて、融通が利かないところがあるんだよ・・・悪いね。これあげるから、許してやってくれないかい?」
そういうと、リリーから見覚えのある籠を渡される。
「へ・・・何これ?」
蓋を開けてみると、中にはぬめりと躰を光らせた蛇が数匹蠢いていた。
思わず悲鳴を上げて、俺は籠を地面へ放り投げてしまう。
「ちょいと、何してくれるんだよ! ・・・ああ、可哀相に」
プリプリと怒りながら、飛び出した縞蛇達を慣れた手付きで籠に戻していくリリー。
「おい、何事だ?」
「だ、だって・・・蛇が・・・うねうねって・・・」
騒ぎに気付いたアバラインが俺に聞いてくる。
俺は自分がされた仕打ちを彼へ訴えようとするのだが、籠越しのゾロリとした感触が手に生々しく蘇り、上手く言葉にならない。
当然アバラインは、要領を得ない俺の説明を聞かされて、ピンと来ない顔をしながら突っ立っているだけである。
「まったく・・・人がせっかく、精が付くだろうと思って、分けてやろうって言ってんのに、失礼しちまうね!」
吐き捨てるようにそう言うと、どうやら怒ってしまったらしいリリーは、ぷいっと俺達に背を向けて、馬車へ入ってしまった。
恐らくその馬車が、彼女の居住スペースになっているのだろう。
「そんなこと言ったってさ・・・」
どうしても蛇が生理的に受け付けない俺としては、どうしようもない。
寧ろ、若い女の癖に、仕事の為とはいえ、ああも容易く蛇を扱うリリーの方が珍しい筈だ。
いや、今の話しぶりを聞いていると、彼女はけして仕事だから仕方なく蛇を触っているのではなさそうである。
恐らく蛇にまるで抵抗がないか、あるいは本当に好きなのかも知れない。
そう考えると、ステージで彼女が見せたパフォーマンスも、本人は幸せを感じてやっていたことなのかも知れないと思えて来る。
誠に恐ろしいことだが。
アバラインはというと。
「あれ以上精が付かれても、俺が困るんだがな・・・」
溜息混じりにそう呟き、ノーマンの元へ戻って、話を再開していたのだった。
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