見世物小屋を後にした俺達が、一旦署へ戻ると、待ち構えていたらしいトマス・アーノルド警視がやって来て、アバラインをどこかへ連れて行ってしまった。
仕方なく俺は一人で報告書を書きあげて、終わり次第ドーセット・ストリートへ向かった。
目的場所はミラーズ・コートだ。
最後にここを訪れたのは、9月7日。
アニー・チャップマンが殺される前日の午後、メアリー・ジェーン・ケリーの友人で娼婦仲間らしいジュリアという女と話して以来だ。
あのときジュリアは、必ずジョウゼフ・バーネットと会って話をしてくれと、俺に言っていたが、結局俺はバーネットと会う事が出来なかった。
その翌早朝、ハンバリー・ストリート29番地で、チャップマンは惨殺されたのだ。
現状警察がバーネットを容疑者として追っているわけではなく、まったくの俺の個人的な見解でしかないのだが、彼の事はやはり気にかかる。
メアリー・ジェーン・ケリーの情夫であり、街娼として町に立つ彼女をよく思っていない気弱な男。
果たしてバーネットが、ポリー・ニコルズやアニー・チャップマンを惨殺した、冷酷な犯人像と結びつくかと言えば、そうとは言い切れない。
しかしバーネットは、ポリー・ニコルズの殺害時刻にアリバイがなく、ビリングスゲート・マーケットで、正規雇用の仕事をしていると、俺に嘘を吐いていた。
チャップマン殺害時刻における、彼自身のアリバイは確かめる必要があるだろう。
コマーシャル・ストリートから賑わっている『ブリタニア』の前を通ってドーセット・ストリートへ入る。
この『ブリタニア』は、ビールの販売しか許可されていないパブだ。
オーナーの名前はウォルター・リンガーと言って、地域住民達の間では「リンガーの店」という名称でも通っている。
ドーセット・ストリートはいつ来ても本当に人が多い。
全長150メートル足らずしかないというのに、住民は1500人を超えており、その多くが13軒あるロッジング・ハウスや、それよりも幾らか多い未許可の宿泊所に暮らしている。
通りにおける賑やかさとしては、近所のフラワー&ディーン・ストリートに次ぐ人の多さで、ホワイトチャペルでは二番目の人口密度ということになる。
アニー・チャップマンが最後の居所としていたところが、このドーセット・ストリートにあるクロッシンガム・ロッジング・ハウスだ。
通りを挟んでちょうど向かいにあたるのが、これから向かうミラーズ・コートである。
その近くには、かつてアザミがノーマ・ホイットマン母娘とともに住んでいた、『ターナーの貸間長屋』もあった。
壁でスーツを擦らないように気を付けながら、狭い通路を渡り、俺はミラーズ・コートへ入る。
ほぼ入り口辺りにある、一軒だけ独立した家が13番地で、ジョウゼフ・バーネットがメアリー・ジェーン・ケリーと共に住む建物だった。
ノックをしてみるが返事がなく、扉から声をかけたあとで、壁を回ってみる。
窓ガラス越しに耳を澄ませてみたが、人がいる気配ではない。
どうやら留守のようだった。
以前、ジュリアが「メアリー・ジェーンならうちにいる」と言っていたことを思い出し、彼女の部屋も訪ねてみるが、そちらも不在である。
あるいは、連れだってどこかへ行ってしまったのだろうか。
どうやら訪問は空振りに終わったらしい。
諦めて階段を下り、ミラーズ・コートを後にする。
また夜遅くか明日にでも出直そうと考えながら、ドーセット・ストリートへ通じる狭い通路へ向かうと。
「きゃっ」
向こうから入って来た女と、通路でぶつかりかけた。
「おっと、悪い・・・大丈夫か?」
相手は目を瞠るような美人である。
「ええ・・・ごめんなさい、考え事していて」
鳶色の瞳にブルネットの豊かな髪を結いあげ、ボンネットにはレースやリボンの飾りがふんだんに付いている。
ドレスは落ち着いた黒一色だが、どことなく娼婦なのだとわかってしまう雰囲気があった。
年齢はまだ20代半ばといったところだろう。
40代の娼婦が多いホワイトチャペルでは珍しい。
ジュリアといいメアリー・ジェーンといい、人口が多いぶんこのあたりでは、若い娼婦も結構いるのかもしれない。
もしも住まいが近所だとすれば、ジョウゼフ・バーネットについて、何か知らないだろうか・・・そう考え、俺は少し彼女と話したいと考えた。
「こっちこそ悪かったよ。・・・ところで君、この辺りに住んでいるの?」
口調がナンパっぽくなってしまうことは、反省すべき点だろうが、相手が若い女の子ではどうしようもない。
相手も男から声を掛けられ慣れているようで、とくに不審がっている様子はなかった。
「ええ、そうよ。・・・近くだからよければ案内するけど、安くはないわよ」
女は一旦引いていた身を近づけ、俺の顔を間近に見上げながらそう応えてくる。
慣れていて当然である。
思ったとおり、娼婦だからだ。
女にしては、結構背が高く、170センチ以上あると思われた。
ブーツの踵を合わせれば、おそらくアバラインとそう変わらないだろう。
「そこを何とか負けてくれないかな・・・話をするだけでいいから・・・」
いつのまにか胸に置かれていた女の手が徐々に下がり、ボタンを留めていなかった上着の隙間からスラックスのベルトへかかったところで、俺は慌てて彼女の手を止めた。
こんなところで下半身を刺激されたら、引くに引けなくなってしまう。
聞きこみ中に娼婦と寝たりしたら、大問題だ。
「あら、何を話す気なの? ベッドの中でアイルランド民話でも聞かせてあげましょうか? それとも、ホワイトチャペル殺人事件の方がいいかしら」
女の言葉にドキッとしてしまう。
あるいは俺が刑事だと、バレているのだろうか。
「いや、その・・・、知りたいのは君のことなんだけど・・・」
「ジョージ!?」
攻め手を一向に緩めようとしない、若い娼婦の手練手管にたじろいでいると、背後から突然、俺は女に名前を呼ばれた。
この声には聞き覚えがある・・・だが、人違いかもしれない。
そうじゃないかもしれないが、だとすればこのような光景を彼女に目撃されたことは、実に運が悪いと思う。
口の悪い彼女にこの先何を言われ、どのような弱みを掴まれて、さんざん揶揄われ続けることか、わかったものではないからだ。
「とりあえずさ・・・奥行って話さない?」
「ジョージでしょう? やだ、もう〜こんなところで、何してんのよ!」
俺が背後の声に対して無視を決め込んでいるにも拘わらず、相手は一向に空気を呼んで退散してくれる様子がない。
いや、そのような気を利かせてくれる、甘い女ではないのだから、これは当然だった。
それどころか、背後からは俺の名前を呼びつつ、どんどんと通りへ入って来るような気配さえ感じられた。
最悪である。
「彼女が呼んでいるわよ、色男のジョージさん」
目の前の娼婦はそう言うと、まだ彼女の手を握りしめたままだった俺の右手を振りほどき、静かに背を向けて一人、ミラーズ・コートへ入ってしまう。
「ちょっと、君・・・うわっ!」
「ジョージってば、人が呼んでんのに、無視してるんじゃないよ!」
未練がましく彼女を追いかけようとしていた俺は、背後から抱きつかれて止められる。
「ったく、お前なあ・・・人が仕事してる最中に・・・つか、なんだこの匂い! お前、酒の匂いプンプンしてんじゃねえかよ、臭えよ!」
「うるさい〜! 娼婦が酒飲んで何が悪いのさ! それより、聞いてよ〜・・・最悪なんだから、もう」
「いいから離れろって・・・最悪なのはこっち・・・って、お前、どうしたんだその顔!?」
人の聞きこみを邪魔した揚句に、いきなり背後から抱きついて、アルコール臭すぎる息を俺に吐きかけたのは、『マダム・マギーの家』の娼婦、リジーだ。
どうやら仕事の最中だったのだろう、オレンジ色の派手なドレスを着て、まるでパレットのように、賑やかな化粧をしている。
化粧が濃すぎる仕事モードの彼女は、どう見ても女王陛下とアレクザンドラ妃の間ぐらいの年齢にしか見えないが、実際は俺と同い年で32歳だ。
そのド派手メイクの目元が、アイシャドウではなく、鬱血で青黒く変色しており、片目が変形するほど、大きく腫れあがっていた。
元々綺麗に結いあげていたのであろう髪も、随分と乱れている。
とりあえず俺は彼女を庇うようにして、ミラーズ・コートへ入ると、公共水道でスカーフを濡らし、痣に宛てがって冷やしてやることにした。
その途中で俺は見てしまった。
さきほどまで無人だった筈の13番地の窓から、蝋燭の灯りが揺らめいている光景を。
つまり、俺が話していたあの女性が、他ならぬメアリー・ジェーン・ケリーだったわけだ。

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