行き交う馬車の間を縫うようにして、コマーシャル・ストリートを横断したリジーは、俺の手を引いたまま『テン・ベルズ』の扉を勢いよく開けた。
「もう、悔しいったらありゃしない!」
先客がいるにも拘わらず、窓際のテーブル席の椅子を引いて、どかりと腰を下ろしたリジーは、隣の椅子を掌でバンバンと叩く。
俺にそこへ座れという意味だろう。
「すんません、本当に・・・」
新聞を読みながら静かにブランデーを飲んでいた先客の紳士へ詫びると、俺は言われたとおりに席へ着く。
紳士は文句も言わず、咳払いをひとつ返しただけだったが、次の瞬間には店から出て行ってしまった。
そこへ断りもなく、ソーサーに乗せられた趣味の良い紅茶のカップが、目の前のテーブルへ速やかに現れた。
「あ、マスターこんばんは。今日も忙しそうですね」
カップの中身はアール・グレイ。
どうやら通りからここへ向かう俺の姿を目撃して、すぐに準備してくれていたらしい。
疲れが癒される程度のほのかな甘みが、すでに付けてある。
最近のマスターは、俺が言わなくても、黙ってこのお茶を出してくれるようになった。
「お蔭さんでね。余計な仕事が増える一方だよ・・・まったく。で、そちらのマダムの御注文は?」
声全体に苛々を漂わせながら、マスターが伝票片手にリジーの注文を伺う。
良い香りが立ち上っているティーカップに指を添えて、俺はそれを口へ運ぼうとした。
「何そんな生ぬるいもの飲んでんだよ! ビールだよビール! じゃんじゃん持って来て」
「うわ・・・ちち!」
隣から手首が思い切り叩かれ、持っていたカップの中で熱いお茶が派手に踊る。
それが掌やら、シャツの袖やらを、びしゃびしゃと濡らした。
「トルーマン・ビールでいいですね? それと・・・うちではちゃんと沸騰したてのお湯で淹れた、お茶を出してますよ・・・っ!」
後のセリフをヒステリックに小さく叫ぶと、マスターはプリプリと肩を怒らせながらカウンターへ入った。
ちなみにマスターの言葉に嘘はない。
それは俺の掌と手首の一部へ真っ赤に広がった、火傷が何よりの証明だ。
「あっちいし、痛いしっ・・・!」
「トルーマン・ビールお待ちどう様! それとハイ! あとは自分でやって!」
すぐに戻って来たマスターはテーブルにビール瓶を二本ドンと置き、次に冷たい濡れ布巾を俺の手に押し付けて、またプリプリとカウンターへ引っ込んでしまう。
ただの水道水ではなく、おそらく氷水を使って濡らしてくれたのであろう布巾は、とてもよく冷えていて、炎症した掌や手首に心地よかった。
「マスター、ありがとう」
一応声を掛けておくが、案の定無視される。
ここのマスターは、最近本当に可愛いらしいのだ。
ミラーズ・コートの公共水道で、俺はリジーから暴漢に襲われたという話を聞いていた。
この日リジーは仕事で、いつものように夕方過ぎに『マダム・マギーの家』を出ると、客になりそうな相手を探しながら、パブで飲んでいたのだという。
まもなく若い男の方からリジーに声をかけてきて、二人で暫くその店で飲み続けたあと、揃って店を出たところで、後ろからやって来た暴漢にリジーは襲われた。
リジーはその場に倒れ、気が付くと声をかけてきた若者も走って逃げており、そのすぐ前を、彼女を襲ったのであろう暴漢達が走っていたのだという。
「盗まれたものはペンダントだけ? それは高価なものか?」
俺が質問すると。
「さあね・・・よくはわかんないけど、金の台に赤い石が入ってる、綺麗なペンダントだったよ。あたしも客から貰っただけだからさ」
どうやらアクセサリー以外に盗まれたものはなかったようだった。
さらに、リジーと一緒にいた男が、彼女を襲った暴漢を追いかけたのかと思えば、それも違ったようで。
「こんな良い女が襲われて倒れてるのに、戻って来ないわけないだろう? よく見るとペンダントを持っていたのはフィルで、暴漢達と一緒にトンズラしちまったのさ。グルだったんだよ、グル!」
そう言ってリジーは、水道の蛇口を悔しそうに何度も拳で叩いて見せた。
フィルというのが、一緒にいた男の名前だったようだ。
その後リジーは一人で『テン・ベルズ』へ入って飲み直し、金が尽きたところで店を出て、ミラーズ・コートにいる俺を見つけて抱きついてきたというわけだったようだ。
なるほど・・・店へ入ってくる早々、鬱陶しそうな顔を見せたマスターの反応も納得である。
せっかく出て行ってくれた酔っ払いが、財布を連れて戻って来たのだから・・・。
ミラーズ・コートを出た俺は、とりあえず病院に行こうと彼女を誘うと、それより調書を取ってくれとリジーは言った。
傷は痛々しかったが、襲われた後も散々飲んでいたというのだから、まあ本人は平気なのだろう・・・明日にはどうなっているかわからないが、そこまで俺が面倒をみる義務はない。
なにより、この状態のリジーに逆らうだけの勇気が俺にはなかった。
そんなわけで、改めてリジーとともに、俺は『テン・ベルズ』へ入り、マスターに嫌がられながら、ここで彼女から事情聴取をすることになったのだ。
「お前の話だと、つまりフィルは最初から、そのペンダントを奪うつもりで声をかけてきたように感じられる。もう少し、そのペンダントについて聞かせてくれないか・・・・、っておいおい」
俺の質問を聞きながら何本目かのビールを飲み干したリジーは、瓶をテーブルに置いて、頭を抱えつつ、机に顔を突っ伏してしまう。
「あたしゃあもう、腹が立って、腹が立って、しょうがなくてさあ・・・何が頭に来るって、自分が一番情けないんだよ」
「いや、それはいいから、ペンダントの話を・・・」
「だから、ペンダントは客から貰ったもんだって言ってんだろ? ギルバートって不動産屋の男さ。金は持ってるけど、中年太りのただの爺だよ。けどさあ、フィルは違ったんだよ〜・・・まだ若くて20代半ばぐらいの良い男でさ〜・・・金髪に翡翠色の目で背が185センチぐらいある、精悍なイケメンだったんだよ〜・・・だからって、つい気を許しちまったことが、自分で腹が立って情けないのさ。こんなこと、ここ3年ぐらい一度もなかったってのに、まるで若い娘みたいにぼおっとなっちまって、良い年して無様ったらないよ」
どうやらホワイトチャペルの娼婦としての、矜持の問題らしかった。
「とりあえず、そのフィルってのが俺ぐらいの身長で、金髪と瞳の色がグリーンの若者ってことだけ、了解した。他には聞いてないか? たとえば、どの辺に住んでるとか、何の仕事をしてるかとか・・・」
「冗談じゃないよ、あんたなんかと全然違うさ! 言っただろう、フィルは金髪で目は翡翠色! あんたなんかより、ずっと良い男なんだよ! 一緒にしないでおくれ!」
突然リジーが立ち上がったかと思うと、机の上をバンバンと叩きながら怒鳴り始める。
「おいおい、あまり興奮するとまた腫れが酷くなるぞ・・・それに、俺もフィルが金髪で瞳はグリーンだと、ちゃんと言ったし、身長が同じぐらいだと言っただけで、別に自分と比べた覚えはまったくないんだが・・・なんか知らんが、気に触ったのなら悪かった」
そんな調子で、ときどき興奮したり落ち込んだりするリジーを、宥めたり、慰めたりしながら、俺はどうにか調書を取り終える。
最後にリジーは、犯人達が落として行ったと思われる、一枚の紙を俺に渡してくれた。
「なんだこれ・・・メモ用紙・・・にしてはちょっとデカイな」
紙には1センチ程の幅で罫線が引かれており、その下には装飾の多い『J』と『S』の文字が絡みあったマークが入っていた。
罫線上には、オックスフォード・ストリートの住所が、青いインクで走り書きにされている。
用紙の真中に十字型の折り目がついているところを見ると、折り曲げてポケットに入れていた物が、リジーを襲って逃げる際に落としたものと察せられた。
何のための住所かわからないし、リジーがはっきりしない以上、これが事件に関係があるという確証もない。
だが、ひとまず探ってみる価値はあるだろう。
聞けるところは聞き終わり、リジーも漸く落ち着いてきたところで、彼女の方から話題を変えてくる。
「アザミが外国に行っちまったっていうのは、本当なのかい?」
「いきなりその話かよ・・・ああ、本当だよ。親父とともに、今はパリを旅行中の筈さ」
「なんでまた、そんなところへ・・・っていうか、あの子親がいたのかい?」
その後俺は知っている限りで話せる範囲のことを、リジーに教えてやった。
彼女とアザミは、元々『マダム・マギーの家』で、一緒に働いていた仲だ。
というより、事実上俺にアザミを紹介してくれたのは、彼女の方なのだ。
ある程度知る権利はあるだろう。
話を終えると、俺はマスターに、改めてアール・グレイを注文した。
時計を見れば、すでに12時近い。
そろそろ切りあげないと、明日の仕事に差し支える。
そして俺は、あとでまた訪ねようと思っていたミラーズ・コートの事を思い出した。
メアリー・ジェーン・ケリーと漸く会えたというのに、せっかく話せるチャンスを目の前で逃してしまったことは、実に心残りだったが、また明日にでも訪ね直すしかあるまい。
今日はもう遅すぎるし、この時間だとメアリー・ジェーンも出掛けたあとかもしれない。
「そうだったのかい・・・驚いたねぇ。まさかあのポール・ジョーンズの隠し子だったなんて」
リジーが目を丸くして、感心したように言った。
しかし、よくよく思い出してみれば、ホワイトチャペルのようなスラムで最下層の生活をしつつも、どこかアザミには品の良さというか、血統の良さのようなものが、滲み出ていた。
丁寧な言葉遣いやおっとりとした気質がそう思わせただけかもしれないが、なるほど彼の身に流れる高貴な血筋が、そのように感じた原因なのかもしれなかった。
「そうだな、俺も驚いたよ。おまけに爺さんは東洋の貴賓だっていうんだから・・・ありがとう、マスター」
案外早くアール・グレイを持って来てくれたマスターに礼を言うが、マスターは黙ってカウンターへ戻ってしまった。
それでも、その耳が赤いのは気のせいではないだろうと思う。
マスターは間違いなく、そろそろだと考えて、すでに紅茶を準備してくれていたのだ。
しかも香りばかりではなく、甘さがまた絶妙である。
あるいは彼には、俺の心が読めるのかもしれない。
俺がいつ、どのタイミングで、どの程度の甘さを加えたアール・グレイを飲みたいのか・・・それをマスターはちゃんと、カウンターの中にいながら心得てくれている。
まったく、なんて素敵なパブなんだ。
「で、アザミとは何回やったの?」
口へ運んだ紅茶を、俺は盛大にテーブルへぶちまけた。
さらに気管へ入りこんだ水分を吐きだすために、暫く咳こむ。
「まったく・・・・もうっ・・・・!」
目の前のテーブルに、濡れ布巾が叩きつけられる音を聞いた。
さすがにこれ以上は店に居辛くなって、俺はリジーに声をかけると、『テン・ベルズ』を出ることにした。
しばらくこの店には来難くなってしまった。
フォーニアー・ストリートからブリック・レーンへ入り、リジーの職場兼自宅である『マダム・マギーの家』まで彼女を送りがてらに、話を続けることにする。
アザミの件は適当に誤魔化したが、結局「顔に出ている」と揶揄われ、バレたも同然だった。
さらにリジーが意外なことを言う。
「そうだ、ジェシカ・スウィーティーが、あんたのことを心配してたよ。話の続を聞きに来ないってさ」
オールド・モンタギュー・ストリートへ入るころ、彼女が出した人物の名に俺は驚いた。
「ジェシカ・スウィーティーって・・・まさか、あの救貧院の面白い婆さんのことか?」
本名をジェシカ・ペパーミントという63歳の救貧院宿泊者。
魚屋の夫に先立たれた未亡人で、素晴らしい想像力の持ち主である彼女の夢の話は、壮大すぎて一度で全てを聞き終えることはできない。
ポリー・ニコルズが殺害された明け方、俺はアザミやジェシカ・スウィーティーを救貧院へ送り届ける傍ら、彼女が見た夢の話を聞いていたのだが、結局第一幕を聞いただけで終わっていた。
ちなみに何幕構成なのかは、まだ知らない。
それはともかく、なぜリジーが彼女のことを知っているのかと本人に聞くと。
「そりゃあ、あたしもあそこにいたからに、決まってるだろう。あたしもマダムに拾われたクチなのさ」
これもまた、思いがけない回答だった。
「ってことは、お前はひょっとして最初からアザミを知って・・・いや、それは違ったな」
たしかあの日、アザミは救貧院に入所したばかりだと言っていた筈だ。
会ったばかりの頃の会話を俺が思い出していると、どこか懐かしそうな声で、リジーが話し始めた。
「あの日はさ、仕事を求めて出て行ったアザミが、救貧院へ戻って来るなり、あたしの目の前でペタリと座りこんじまってね・・・そりゃあ無理もないさ。救貧院の食事っていったら、薄いオートミールばっかりだろう? それを朝食で口にしたきり、水一滴すら飲んでないっていうんだから、あんな子がドックなんて行って、一体何をする気だったのかねえ・・・まったく滑稽だよ」
そう言ってリジーが可笑しそうに笑った。
漸く俺はあることに気が付いていた。
「おまえ・・・まさかアザミを救貧院から助けたのは、お前だったのか?」
「あたしは別に何もやっちゃいないさ。ただ金になりそうな可愛い子を見つけて、家に連れて帰っただけ。マダムがあの子を見てその気になったから、アザミがうちで仕事を始めただけの話さ。雇ったのはあくまでマダム。あたしにそんな権利があるわけないだろう?」
「お前・・・」
リジーはそう言うが、俺にはなんとなく彼女が照れてはぐらかしているように感じられた。
マダムが素晴らしい人であることは、アザミやリジーの話からよくわかる。
だがリジーもまた情の深い女だ。
かつてマダムが自分を救貧院から救い出してくれたように、彼女もアザミを救ってやりたかったに違いない。

 『9月10日』へ

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