9月10日月曜日。
午前8時から始まった検死審問では、アニー・チャップマンの友人でドーセット・ストリートに住んでいる、アメリア・ファーマーが証言に立った。
「彼女は実に行儀の良い女性で、およそ汚い言葉を使っているところなど聞いたことがありませんでした」
青白い顔に、ボンネットの下で黒髪を纏めているファーマーは、5年来の友を失った悲しみに沈んだ顔で、静かに話した。
ファーマーによるとチャップマンは、娼婦といっても日頃路上に立つことはなく、どうしても切羽詰まったときにだけ、客を引いていたとのことだ。
チャップマンの夫、ジョンが亡くなったのは2年前の12月で、肝硬変だった。
夫の急死をジョンの弟から聞かされたアニーは、それをアメリアへ伝えたあと、激しく泣き叫んだと言う。
だが夫婦はその2年前に離婚しており、原因はアニーの飲酒にあって、酩酊状態で数回、当時住んでいたと思われるウィンザーで逮捕歴があった。
肝硬変で他界したジョンもまた、大酒飲みだったことは想像に難くない。
離婚後、亡くなるまでの2年間、ジョンは週に10シリングの為替を、アニーに送っていた。
ファーマーに言わせれば、アニー・チャップマンは前夫の死後、「なにもかも駄目になってしまったよう」だと言う。
それでもチャップマンは、素面でいれば実に働き者で、路上でマッチや花を売ったり、近所から鉤針編みの仕事を貰ったりしていた。
金曜日には、ストラトフォードのマーケットへ行き、売れるものは何でも売っていたのだそうだ。
だが亡くなる少し前は体調が良くない様子で顔色も悪く、マーケットへは行っていなかったとファーマーは証言して席へ戻った。
続いてフィリップス医師による検死報告が始まった。
「喉の傷は首を殆どぐるりと回る形で骨まで達しています。これは恐らく、頭部切断を図ったものと思われ、死因は大量出血」
ここでウェイン・バクスター検死官が、フィリップスへ質問をした。
「遺体から臓器を取り去る手際はかなり良いようですが、犯人には解剖学知識があると思われますか」
「そう思います」
肯定を示したフィリップスは、自身の検死報告を続けた。
「凶器はおそらく、薄くて細い刃の付いた鋭利なナイフで、刃渡りは少なくとも15〜20センチ。あるいはそれ以上という可能性もあるでしょう。また被害者は脳と肺の組織が冒される病気・・・おそらくは結核性髄膜炎か、髄膜管性梅毒に罹っていたようです」
ここで俺は、遺留品の中に錠剤を入れた封筒があったことを思い出した。
「ってことは、あの薬はやっぱり・・・」
チャップマンはどこかで治療を受けており、そのための薬を持ち歩いていた可能性が高くなる。
「そうだな。アメリア・ファーマーの証言とも一致する」
隣で聞いていたアバラインが俺の意見に同調した。
ところが、まもなくフィリップスの証言は打ち切られ、インクエストは突然終了となってしまった。
その理由をウェイン・バクスター検死官は、「審問の目的は死因の特定のみであり、残虐な犯行をこれ以上詳述する理由がないことは、明確である」と説明したが、中途半端に打ち切られた審問は猜疑心だけを誘い、傍聴人や来場していた新聞記者達は、一時騒然となった。
「直接聞いてくる」
そう聞こえたかと思うとアバラインが隣で席を立ち、会場から出て行くフィリップス医師を追った。
慌てて俺も出口へ向かう。
人ごみを掻き分け、俺が二人を見付けると、アバラインはまるで、医師の行く手を阻むような恰好で、廊下の真中に仁王立ちして、フィリップスを詰問している最中だった。
「先に検死をされたルウェリン医師によると、犯人は右利きという見解でした。同意されますか」
「同意する」
意識的に抑えているようにも聞こえる、アバラインの静かな質問に、フィリップスがあっさり肯定を示す。
続けてアバラインが、彼の見解を述べた。
「つまり・・・ニコルズは殺害後に頭部切断を試みられたが、チャップマンのときには、彼女が生きている状態で首を切って殺害された。当然チャップマンは、必死に抵抗した筈で、咄嗟に犯人は右手でナイフを持つしかなかった・・・従って、犯人の利き手は右と考えるべき・・・違いますか?」
アバラインの説明で、俺は目が覚めたような気がした。
たしかにそう考えれば、ニコルズは左手で首を切られ、チャップマンは右手で切られたという、ルウェリンの検死に納得がいかなくもない。
それにしても、かなり器用な犯人ということにはなるが、これで一応の説明はつく。
さらに、ニコルズの殺害現場に殆ど血痕が残っていなかった理由としても、筋が通ってくる。
フィリップスもまた、アバラインのこの見解について同調した。
「私もそう思うよ」
「ルウェリン先生は、遺体から子宮が抜き取られていると仰っていました」
アバラインがさらに意見を求めたが、これにはフィリップスは応えようとしなかった。
「バクスター検死官の判断に従う」
それだけ返事を残し、アバラインの脇を通って行ってしまう。
「糞っ!」
凡そ彼からは、一度も聞いたことがないような暴言を俺は耳にした。
傍らでは色白のこめかみにくっきりと青筋を立てたアバラインが、強く握りしめた拳を壁に押し当てている。
日頃は冷静な彼の、激しい一面を見せつけられ俺は動揺した。
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