マーブル・アーチでキャラハンと別れた俺は、オックスフォード・ストリートで馬車を拾い、オールド・モンタギュー・ストリートへ戻った。
『マダム・マギーの家』を覗いてみたが、まだ準備中のようであった。
声をかければ、あるいはリジーと話すぐらいは出来たかもしれないが、顔を出さずに引き返す。
そしてリジーの話を思い出し、時間を潰しがてらに救貧院へ寄った。
夕食の配膳を手伝っていたジェシカ・ペパーミントは、俺を見ると仕事の手を休めて、大きな躰を揺すりながらこちらへやってきてくれた。
「暫くぶりだねえ、あんた。すぐに来るかと思ったのに、心配していたんだよ」
実際には2週間も経っていないのだが、待ち侘びてくれていたことに俺は感謝した。
歓迎してくれたペパーミント夫人は、約束通りに早速、ジェシカ・スウィーティー物語の第2幕を聞かせてくれた。
英国へ戻ったジェシカ・スウィーティーは、踊り子に身を落とし、英国各地の町から町へ、流離いの生活を送っていた。
カンタベリーで、ある豪邸の晩餐会に呼ばれたジェシカ・スウィーティーは、そこで異国の貴賓を紹介されて驚く。
それは彼女を追って、英国へやってきた、アラブの王子サイードだった。
あなたの噂を耳にして、ゴールデンベル伯爵にお願いし、招いて頂いたのです・・・そう言って、ジェシカ・スウィーティーの手に接吻するサイード。
オリエンタルな王子は、黒髪を撫でつけ、タキシードに身を固めていたが、情熱的な黒い瞳は、砂漠で盗賊から彼女を守ってくれた戦士そのものだった。
改めてサイードに求婚され、ジェシカ・スウィーティーはそれを受け入れる。
カンタベリーを後にしたジェシカ・スウィーティーは、サイードと旅に出た。
流離いの踊り子としての一人旅ではなく、サイードとともに、愛で満ちた旅路だ。
英国南部の町から町へ、美しい田園風景や海沿いの景色を楽しみ、港町ブライトンへ二人はやって来た。
マーケットを見に行った彼らは、ゴチャゴチャとした魚市場で互いと逸れてしまう。
ジェシカ・スウィーティーは、サイードを探して、ある酒場の扉を押した。
狭い店は荒くれ者の船乗り達で一杯で、入って来た彼女は、冷やかしの声を浴びる。
怖くなって店を出ようとしたジェシカ・スウィーティーは、入れ違いに入って来た男とぶつかった。
倒れた彼女を抱き起こしてくれる、日焼けをした逞しい、傷だらけの腕もまた、船乗りのものであったが、彼女を気遣う懐かしいその声。
ジェシカ・・・自分を抱き上げながら、そう呼びかける男の顔を彼女は見つめる。
そこにいたのは、死んだ筈のアーサー・トルーマンだったのだ・・・というところで、第2幕終了。
続きはまた来週とのことである。
話を終えたペパーミント夫人は、食堂へ戻った。
迷惑かと思いつつも、俺も付いて行き、仕事の邪魔にならない場所でリジーのことを聞いてみる。
「ああ、あの子なら結構長いことここにいたよ。・・・2年ぐらいは、いたんじゃないかね」
夕食・・・といっても、ほとんど具の入っていないスープだが、ペパーミント夫人は、慣れた手つきでほぼ均等にそれを皿に注いでは、宿泊者達に配っていた。
「そんな長い間・・・」
日頃のリジーからは、まったくその頃のことは伺い知れない。
「1年ぐらい前に、あの豪勢なお屋敷に、娼婦達が集まりだしてね・・・毎日綺麗な恰好をした女が、この辺をウロウロするようになった。それを見てたら、羨ましくなったんじゃないかねえ・・・あの子も女だから」
「ということは、リジーは元々娼婦だったわけじゃないってこと?」
「可笑しなことを言うねえあんたも。最初から娼婦の女なんて、いるわけないだろうさ」
「ああ、いやその・・・」
口籠る俺を見て、ペパーミント夫人は呆れたように笑った。
質問の意図は曲解されたが、要するにここにいた当時、リジーはまだ売春稼業に手を染めていなかったということだろう。
何があったか知らないが、救貧院の世話になる、どん底まで落とされて、生きて行くため仕方なく身を売る世界に飛び込んだ・・・いや、そうではない。
リジーに限らず、好きで身を売る女など、世界のどこにいるというのだろうか。
笑って、明るく振る舞って、派手な化粧を施した、その仮面の向こう側にいる、素顔のリジーとは・・・一体、どんな女なのだろうと俺は考える。
「ほら、これ」
突然ペパーミント夫人が、手にした皿を俺に渡そうとした。
中には色の薄いスープと、よく見れば様々な野菜・・・、人参やジャガイモ・・・だろうか。
何かはわからないが、緑や白っぽいのものも浮いている・・・どれもよく見ないと、見落としそうなほど、小さく刻んであるが。
「ああ、俺は結構・・・」
焦って、出された皿を辞退しようとした。
「誰があんたに分けてやるって言ったんだよ、勘違いしないでおくれ。善意の施し物を、刑事なんかにくれたやったことが表沙汰になったら、救貧院存亡の危機だよ!」
「いやあ、いくら何でもそれは・・・・・・ええと、そんなものですかねえ」
そこまで騒ぎが大きくなったりするものかと、笑い飛ばすつもりでいたが、あるいはベンジャミン・ベイツのような性質の悪い記者の手にかかれば、『刑事が恫喝』だの、『警察と救貧院の黒い繋がり』だのと、事実を悪意で幾重にも塗り固められ、ほぼ創作に近い捏造記事を作成されて、大騒ぎにされかねない・・・そう考えると、ペパーミント夫人の杞憂も、大袈裟とは言い切れないものがあると考え直した。
それはともかく、だとすればこの皿は一体・・・。
俺は手渡された皿に入っている、一杯の薄いスープをしみじみと眺める。
ペパーミント夫人は、再び別の皿をとってスープを綺麗に注ぎながら、俺との無駄話に付き合ってくれた。
「人参、ジャガイモ、セロリ、ほうれんそう、ニンニク、鶏がら・・・昼間にあの子が持って来てくれた物が、そこに入ってるんだよ」
「リジーが・・・これを!?」
俺はもう一度スープへ目を落とす。
「あそこに置いてある箱に一杯詰めて、市場から運んで来てくれたのさ。けど、宿泊者が多すぎて、皆に食べさせてやろうと思うと、こんなもんにしかならないけどね・・・それでも、ありがたい話だよ。・・・ちょいと、ブライアン! あんたはさっき、食べてたじゃないか!」
記憶力の良いペパーミント夫人が、この日の夕食二度目の列に並んでいる男の宿泊者に、迫力のある声で注意した。
「あいつが、こんなことを・・・」
皿を置いて列から離れるブライアンの背中に、不正が許せないペパーミント夫人が、しつこく罵声を浴びせ続け、別の宿泊者が、出来心だから許してやれと宥める。
食堂を見渡せば、先にスープを手にした者達が既に食事を始めており、そのテーブルにはスープ皿の他に、薄い粥を並べている物もいる。
つまり、もしもリジーがこれらの野菜や肉を持って来なければ、彼らの食事は全て、あの薄い粥一つきりだったということだ。
元来救貧院という場所は、そういうところである。
このスープとて、ブライアンのように不正をしたり、ペパーミント夫人のような、全員がスープを口にできるようにと、配慮してくれる者がいなければ、果たして全員へ行きわたるかはわからない。
元が善意の施し物なのだから、必ずしも人数分あるとは限らなくて当然だろう。
俺は手にしていた皿を机へ戻した。
それを見ながらペパーミント夫人が聞いて来る。
「もう帰るのかい?」
「はい。そろそろ俺も仕事に戻らないと」
「犯人・・・ちゃんと捕まえとくれ・・・頼んだよ、刑事さん」
相変わらず、配膳の手は止めずにペパーミント夫人が言う。
あとどのぐらいいるのだろうかと、俺は食堂を見渡した。
列に並んでいるだけでも、まだ50人近い。
テーブルに付いている人が30人ぐらい。
食堂へ入って来ては、新たに列へ並ぶ人がいるところを見ると、宿泊者はこれが全てというわけでもないのだろう。
ペパーミント夫人の仕事は、まだまだ終わりそうになかった。
「はい、もちろんです」
救貧院宿泊者達にこうして配膳や害虫駆除、槇肌づくりといったような仕事があるように、俺達刑事には犯人逮捕の仕事がある。
市民の安全や生活を守ってこその警察だ。
「それから、あの子に会ったら、もうあんな危ない仕事は・・・」
「はい?」
俺は玄関へ歩きかけていた足を止めて、もう一度食堂を振り返る。
「いや、何でもないよ。早く仕事へお戻りよ」
そこには、大柄なペパーミント夫人の背中が、黙々と宿泊者達へ配膳する姿だけがあった。
彼女独特の太いハスキーな声が、どことなく懇願するような、切羽詰まったものに感じたのは、果たして俺の気のせいだったのだろうか。
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