薄闇に包まれはじめたオールド・モンタギュー・ストリートは、人通りも疎らだ。
通りの向こう側に立っていた若い男が、一瞬俺を見つめてから目を逸らす。
そして手に広げて持っていた新聞を畳みつつ、ベイカーズ・ロウへ向けて歩いて行った。
「・・・なんだ?」
その様子はまるで、俺に何かを『見つかった』と感じて、慌ててその場から逃げだしたようにも思える。
ハンティングを目深に被り、上着の襟は立てているが、色白の横顔はまだ若い・・・20代前半だろう。
金髪と大きな丸い目・・・知らない青年だ。
気にはなったが、俺はその場を後にすると、『マダム・マギーの家』へ向かった。
既に営業は開始していたが、新しく雇われたらしい小間使いの少女に聞いてみると、リジーは今日仕事を休んでいるそうだ。
考えてみれば、昨日あれほどの怪我を、それも顔に負っていたのだから、仕事などできる筈もなかった。
それならば部屋にいるのではないかと考え、呼んでくれるように頼んでみるが、本人もどこかへ出かけた様子だった。
リジーのことだから、あるいはまた、『テン・ベルズ』で自棄酒でも飲んでいるのだろうかと思ったが、今日は邪魔せず引き返すことにした。
二日連続で飲みに付き合わされたら、こちらもたまらない。

 

署へ戻ったのが、午後8時過ぎ。
報告書を書いていると、間もなくアバラインが戻って来た。
ペンを置いて、彼の机へ近づく。
「なんだ?」
上着を脱ぎながら、向こうから声をかけてきた。
「昼間、ウェスト・エンドの『ジャルダン・スクレ』という店で、本庁のキャラハン警視とお会いしました」
ジャケットをコート・スタンドへ掛ける手が一瞬止まる。
「そうか。なぜ、そんなところへ行っていたのかは、あとで聞くことにしよう。お前の言いたいことは、何だ?」
「ええと・・・昨日、ある窃盗と暴行の被害者から預かった手掛かりに、オックスフォード・ストリートの住所があって・・・その・・・、店員や客達から大した収穫もなかったので、すぐに引き返したのですが・・・途中で、ええと・・・」
そこを突っ込まれるとは考えておらず、俺は慌ててキャラハンに会うまでのいきさつを頭で組み立てなおした。
よもや、男娼館を探しに行きましたとは、口が裂けても言えない。
「『ジャルダン・スクレ』はクリーヴランド・ストリートだろ。それに、なぜそんなところへ行ったのかの説明は後でいいと、俺は言った筈だが。・・・先に、お前が言いたいことを言ってくれ」
俺のしどろもどろで無様な言い訳に、まともに付き合うのも馬鹿馬鹿しかったのだろうか・・・話を促すアバラインの声には、呆れ以外の感情は、見つけられそうになかった。
敵陣へ攻め込むつもりが、出足を間違えて、あっさりと返り討ちに遭う・・・どうして俺は、もう少し落ち着いて作戦を実行へ移せないのだろうか。
些か自己嫌悪に苛まれながら、俺はアバラインの促しに甘えて、先にキャラハンから聞いたことを話すことにした。
つまり、彼がアバラインにとって、元教育係であり、恋人でもあったという内容だ。
「ああ、その通りだ。・・・まったく、あの人はそんなプライベートなことまで、お前に話してしまったのか」
そして軽く溜息をひとつ吐くと、アバラインは静かに椅子を引いて席に着き、抽斗から書類を出して、仕事へとりかかろうとする。
なんなのだろうか、この軽い反応は?
「ちょ・・・ちょっと、待った!」
「おい、気をつけろ・・・インクを零すところだったぞ」
開けかけていたインク壷の蓋を手で押さえて、不用意に彼の机を叩いた俺を、アバラインは非難した。
「ああ、ごめんなさい・・・。っていうか、そうじゃなくてさ・・・あんたの返事ってそれだけ? 一応俺たちって、その・・・こないだ、ああいうことしたわけで」
「ジョージ、仕事中だ」
ヘイゼルの瞳が鋭く俺を睨みつける。
ここは俺が悪いだろうと考え、反省した。
刑事課に戻っている者は多くないとはいえ、同僚が聞いている職場で口にして良いことではない。
「すいません・・・ですが、その・・・」
それでも、いきなり元恋人という男が目の前に現れて、その男に俺はやり込められっぱなしだったのだ。
しかもキャラハンは、今でも男娼館の件で、アバラインとは繋がりがある様子で、そもそもアバラインとて、今こそ娼婦連続殺人でホワイトチャペルにいるが、所属は本来ヤードだ。
そんな男が、日頃から彼の身近にいたわけで、本庁に戻れば、また毎日顔を合わすということである。
これで、どうして落ち着いていられるというのだろうか。
アバラインは深く溜息を吐くと。
「黙っていたことは悪かった。確かに4年ほどそういう時期もあったが、俺とライアンが付き合っていたのは20代の頃の話だ。お前が気を揉むような問題じゃない」
アバラインの机に置きっぱなしにしていた俺の拳へ、細い指を持つ骨ばった白い手が重なった。
確かにキャラハンはアバラインが若い頃の教育係で、公私にわたるパートナーだったのだと当時を振り返った。
「だからって・・・終わったとは限らないでしょう」
「なぜそう感じるんだ?」
「だって・・・」
クリーヴランド・ストリートの件を勝手に探ろうとした俺は、キャラハンに非難された。
なぜなら、それは俺を信頼して打ち明けてくれたアバラインに対する裏切りだったからだ。
それに対して俺は弁解の余地もない。
しかしキャラハンは、今後俺がアバラインを泣かせるようなことをすれば、自分が容赦はしないと・・・、はっきりとそれは警告だとさえ言ってきたのだ。
本当に関係が終わっていて、アバラインに対し、同僚や部下以上の気持ちがないのだとすれば、俺に個人的な感情を剥き出しにした警告などしてくるだろうか。
俺には、どうしてもそこが割り切れないのだ。
「仕事がある。お前もさっさと机に戻れ」
重ねていた手が離れ、アバラインがインク壷にペン先を付ける。
「はい」
俺も大人しく席へ戻ることにした。
「報告書は30分以内に上げろ。俺もそうする」
「はい?」
その背中へ投げつけられた言葉に、俺は上司の席をもう一度振り返る。
アバラインよりも先に戻っていた俺は、既に殆ど書類を書きあげていたので、出来ない注文ではないが、しかし。
「今夜はうちに来い。一緒に飯でも食って・・・よければ泊まっていけ」
俺は5分後に報告書を提出しようとして、スペルミスや日時の間違い、字の汚さなどをアバラインに指摘され、結局その後たっぷり30分を使って報告書を仕上げた。

 09

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