初めて落ち着いた環境の中・・・といっても、官舎だからアバラインはそうでもない筈なのだが、3日ぶりに彼の躰をたっぷり味わった俺は、満足して大の字になりながら彼のベッドを占領していた。
部屋の主はというと、どこぞへ行くと裸のまま部屋を出て行ったきりである。
あれから俺は、改めて本日アバラインが何をしていたのか尋ねていた。
俺の胸に息を強く吹きかけながら彼は短く笑ったあと、医学専門誌『ランスロット』の編集部へ行っていたのだと打ち明ける。
吹き出したのは、やることをやったあとで、いかにも俺が、たった今思い出したように質問したからであろう。
「医学専門誌・・・? なんでまた、そんなところへ」
するとアバラインは、ベッドから机へ手を伸ばし、出しっぱなしになっていた雑誌を俺に渡してくれた。
医学専門誌の『ランスロット』だ。
「折ってあるページを読んでみろ」
言われた通りに雑誌を広げる。
そこには、恐らくアバラインが印を付けたのであろう、段落に沿った枠組みで記事が囲んでありこう書いてあった。
『腹部は完全に切り開かれた状態で、腸間膜を切断された腸が体外へ取り出され、被害者の肩に載せられていた。
骨盤からは子宮及びその他の附属器が、膣の上部及び膀胱の後部三分の二と共に完全に除去されていた。こうした臓器がどこに行ったかは全く不明である。』
「これって、まさか・・・」
具体的な事件の日時や被害者の名前は伏せられていたものの、覚えのある記述にそれが何を示すものなのか、俺にもすぐにわかった。
「ああ、アニー・チャップマンの検死結果・・・極めてその可能性が高いものだ」
いやに含みのある言い方だ。
「どう見てもそうなんですが・・・どこが違うんですか?」
「俺もそうではないかと思うが・・・合っているなら、インクエストでも伏せていたような情報を、フィリップス医師は、雑誌ごときに提供していたということになる」
苦々しい表情をして、アバラインは言った。
しかしルウェリンも検死をしていたのだから、漏洩元をフィリップスだと一概に断定は出来ない筈である。
「そうとは限・・・」
疑問を口にしかけて、ページの上部に気が付いた。
この特集記事には、『警察医のレポート』というタイトルが付けられていたのだ。
ちなみに記事の署名は知らない名前である。
恐らく極秘で医師に取材した編集部の誰かが書いたのだろうこの内容を、特集記事のタイトルだけをもってして、ルウェリンではないと断定はできない。
しかしよくよく考えてみれば、町医者である彼よりも、アニー・チャップマンを検死しており、インクエストで証言もしているフィリップスに雑誌記者が接触している可能性は、遥かに高いだろう。
捜査会議のあと、アーノルド警視に呼ばれてこの雑誌を預かったと、アバラインは言った。
アーノルドは昨日、病院で主治医の診察を受けた際に、医師よりこの記事について質問を受けたらしい。
新聞各紙にあったインクエストの記事よりも、遺体の状態がずっと仔細に説明されているが、ひょっとして警察では情報規制でもしていたのかと。
記事を読んだアーノルドは、警察でさえ掴んでいない情報が、なぜ医学雑誌に掲載されているのかと驚き、慌ててアバラインに調査させたというわけだったようだ。
早速アバラインは編集部に行って、事実関係を尋ねたが、フリージャーナリストが持ちこんだネタを、編集部の記者が信用して記事にしただけであり、出所について正確にはわからないということだった。
続いてそのフリージャーナリストを尋ねてみたが、教えられた住所には住んでおらず、どうやら名前も偽名で、結局詳細は不明だったようだ。
「フィリップス先生に直接聞いても、どうせ口を割らんだろうしな。こうなってくると、この記事自体がアニー・チャップマンの検死報告なのかどうかさえ、わからないということになってしまう」
そう言い残して、アバラインは寝室から出て行ったのだ。
だが、遺体を実際に見ていた俺には、それで間違いないと確信できる。
むろん、アバラインも同じだろう。
それから10分後。
タオルを腰に巻いて戻って来たアバラインはベッドの傍で腰を屈めると、床から俺のスラックスを拾い、きちんと折り目を付けて椅子の背にかけてくれた。
そんな姿を見て、俺はたまらなくこの人が愛しくなる。
料理上手で床上手・・・おまけに健気。
これで惚れなおさなければ、男ではあるまい。
続いてジャケットを拾い上げたアバラインは、ポケットから落ちた何かに気付くと、ジャケットを腕に掛けたまま、それを床から摘みあげる。
「なんだ、これ・・・」
「ああ、それはリジーの事件で預かっているメモ用紙です」
「リジー・・・ああ、報告書にあった被害者のことか? 道端で暴漢に襲われたという」
ピンと来ない顔で、アバラインが確認してきた。
「ああ、ええっと・・・まあ、そういうことです」
よく考えたら、アバラインはリジーの渾名や本名をまだ知らない可能性が高い。
ちなみに、いつか『テン・ベルズ』でリジーが最初に声をかけてきたのは、俺ではなく一緒にいたアバラインの方だったのだが、まあ敢えてあれがリジーなのだと説明する必要はないように感じられた。
説明したところで、アバラインが覚えているかどうかも怪しい雰囲気だ。
「なるほど・・・それで、この住所がどうかしたのか?」
メモ用紙に書いてある、『224A Oxford Steet』について、アバラインは質問した。
「いや、それが・・・さっそく俺も行ってはみたのですが、何もわからなくて。どうやらパブみたいなんですがね」
店員や客に聞いても、結局情報は得られずじまい。
まあ、一度足を運んだぐらいで、何かわかるケースなど、殆どないのが実情ではあるのだが。
「これはそもそも何なのだ? お前の字でもないし、ライアンのものでもないようだが・・・」
ここで俺は、初めてメモの出所について、何もアバラインに説明していなかったことを思い出す。
うっかりしていた。
「いや、それは俺達が書いたものじゃなくて・・・」
「それじゃあスティーヴン氏か? この住所は、どういういきさつで誰に聞いたものなんだ?」
「ですから・・・」
なぜかアバラインは、そのメモについて、俺が『ジャルダン・スクレ』にいたときに手に入れたと思いこんでいるようだった。
不意になぜか、俺の頭へ『ジャルダン・スクレ』の玄関の光景が、フラッシュ・バックのように蘇る。
失礼。そこを通して頂けますか?
ひょっとして、ゴドリー巡査部長ではないかね?
扉の脇に出ていた、『JARDIN SECRET』の店看板と、壁に刻まれた装飾的な頭文字のレリーフ・・・。
なんだ、今の・・・。
「だって、このマーク・・・いや、俺はこれをどこかで見たことがあるな」
何かを言いかけたアバラインが、顎に手を当てて考え込み始めた。
「それは、俺がリジーから事前に預かっていたものですよ。ホワイトチャペルで暴漢に襲われた彼女が、犯人の落し物の可能性が高いとして、路上で拾い、提出してくれた証拠品で・・・」
俺が改めて、メモ用紙の出所をアバラインに伝え掛けた途端、彼の顔色が変わった。
「そうだ・・・」
そのような言葉を微かに呟いたアバラインは、再び机へ戻ると抽斗から鉛筆を取り出し、そのままメモ用紙に擦りつける。
「ちょっと、大事な証拠品に一体何を・・・」
言いながらアバラインの背後へ近づいた俺の目の前へ突きつけるようにして、アバラインが紙を見せてきた。
鉛筆を寝かせるようにして、薄く擦りつけられたメモ用紙には、オックスフォード・ストリートの住所の他にも、様々な字の痕跡が、透けて読み取れる。
『フィッシュフライ』に『ローストビーフ』、『シャトー・マルゴー』、『ロマネ・コンティ』だのと書いてあるすぐ隣に、1や2といった数字が並んでいる。
どの字も見事な走り書きだ。
これが何を意味するのか、馬鹿でもわかるだろう。
「やっぱりそうか・・・どうりで見覚えがある筈だ」
「これって、レストランの伝票用紙ですか・・・? なんでこんなものが・・・ちょっと見せてください」
不意に俺は見覚えのあるマークへ改めて気が付き、アバラインの手から伝票を奪う。
『J』と『S』の絡み合う、装飾過多なロゴマーク。
昼間尋ねた、白亜の建物の壁に、浮き彫りにされていた、あのマークが、擦りつけられた鉛筆の流れに、頭の部分を消されながらではあったが、今俺の手の中に再現されていた。
ああ、俺はこのマークをずっと持ち歩いていたというのに、なぜ気が付かなかったのだろうか。
「それは『JARDIN SECRET』の伝票だ。・・・そしてお前の話が本当なら、これは結構厄介な事件ってことになる」
スティーヴンの他にも、スウィンバーンやミレー、ロセッティのような、一流の文化人を始め、来店していた客は俺の目から見ても、金持ちそうな紳士ばかりだった。
そしてどれほど金を持っていたとしても、紹介者なしに『ジャルダン・スクレ』へ入店することはできないのだと、アバラインが教えてくれる。
この伝票がもしも事件と関係があるのだとすれば、なんらかの形で『ジャルダン・スクレ』が関わっていることになる。
ホワイトチャペルの娼婦を襲い、ペンダントを盗んだ事件と、ウェスト・エンドの高級レストランに、どういう繋がりがあるのだろうか。
第1部完了
『ゴドリー巡査部長の事件簿〜ハンバリー・ストリート殺人事件〜:第2部』へ