見世物小屋を出たあと、コマーシャル・ストリートへ向かおうとした俺は、その場で思わず方向転換しそうになった。
「ちょっと、僕の顔を見た途端、あからさまに顔を顰めて、方向転換することないでしょう!」
中折れ帽に蝶ネクタイ、丸眼鏡・・・。
「これはこれは、『スター』紙の花形記者である、ベンジャミン・ベイツ君じゃないか。今日も素敵な蝶ネクタイだね」
俺がそう言うと、ベイツは得意げに紺色の蝶ネクタイを、わざとらしく直し始めた。
社交辞令というものが通じないらしい。
「一連の殺人事件捜査の真っ最中に、それも現場付近で朝から見世物小屋見物とは、呑気ですねえ・・・・ああ、なるほど。これはちょっと興味深い」
そう言うベイツの視線の先には、チンパンジーと両性具有の性交を思わせるような、淫靡なイラストの看板があった。
「さっきその両性具有に会ってきたところだ。興味あったら、今夜にでも入ってみろよ。綺麗な歌声だったぞ」
親切に教えてやると、ベイツが目を丸くする。
「歌? チンパンジーとセックスするんじゃないんですか?」
言葉をオブラートで包みもせず、ダイレクトに聞いて来るあたりは、さすがに『スター』紙の花形記者である。
節操がない。
「やってたらすぐ俺に教えろよ。見世物小屋を潰して興行主を逮捕しないといけなくなるからな」
「どうせその前に、ちゃっかりショーを、舞台袖から間近に見物するんでしょ?」
「お前は俺を、一体何だと思っている」
そんなもの、見るに決まっているじゃないか。
警察特権で舞台袖に通してもらうという発想まではなかったが・・・覚えておこう。
結局、スピッタルフィールズ方面へ歩きながらベイツと喋っていた俺は、続いて彼から最近新聞社へ寄せられた投書の傾向を聞いていた。
収まらない殺人事件の連続で、かつて起きた陰惨な事件の数々を思い出し、不眠や躰の不調を訴える人々が続出しているのだという。
「1827年から翌年にかけ、墓荒らしと殺人を犯したバークとヘアを思い出す人や、15世紀から16世紀にかけて、人里離れた洞窟で旅人を襲い、人食いのみで生活していたソニー・ビーン一家を思い出す人もいました」
どちらもスコットランドで起きた出来事とはいえ、我が国きっての悍ましい怪事件だ。
「バークとヘアはともかく、ソニー・ビーンなんて実際に見聞きしていたわけでもないだろうに」
ソニー・ビーン一家の伝説は、ニューゲート監獄の犯罪カタログに掲載されてはいたのもの、事件の真偽は定かでない。
「そのぐらい、人々は不安で眠れない日々を過ごしているということですよ。警察の責任は重いです」
話の行方が鬱陶しくなってきたので、俺は話題を変えることにした。
「ところでベイツ」
「ベンでいいですよ」
意味不明の訂正なので、無視した。
「ベイツ、お前、女同士っていうのをどう心得る?」
「心得?」
コマーシャル・ストリートの入り口で立ち止まったベイツが、中折れ帽の小首を傾げながら、俺を見上げて来た。
「だからだな・・・その、女と女の恋人同士ってのは、どう考えたらいい」
俺が再度質問すると、納得した様子でベイツがコマーシャル・ストリートの往来へ歩みを進めて行った。
「レズビアンですか・・・まあ、そりゃあ世の中にはいるんじゃないですかね。刑事さんにだって、愛しのフレッドがいるでしょう?」
「今度馴れ馴れしくフレッドの名前を読んだら、見世物小屋にぶち込むぞ」
「ぶち込んでどうなるって言うんですか」
「蛇女に頼んで、お前を蛇まみれにしてやる」
「それは勘弁してください。・・・・なんていうか、刑事さんはホワイトチャペルの住民の、生命と財産を守る立場でありながら、彼らの表面上の生活しか見てないですよね」
「どういう意味だ」
ショアディッチ方面から四頭立ての馬車がガラガラとやって来たために、俺とベイツはその場で立ち止まって馬車が通り過ぎるのを待った。
その間に若い花売り娘が声をかけてきたので、リンドウの小さな花束を買ってやる。
しかし持ち歩くのも恰好が悪いので、ベイツに押し付けると、何を勘違いしたものか頬を染めて受け取った。
気味の悪い男だ。
花束を片手に歩き始めたベイツは、軽く咳払いをすると。
「ロンドンには現在どのぐらいの売春婦がいると思います?」
不意にそんなことを聞かれた。
「さあ・・・3万人ぐらいか?」
適当だ。
「専業、パートを含めて8万人ですよ」
「そんなにいるのか」
知らされた数字は、中々ショッキングだった。
ロンドンの人口が、約450万人だとして、60人に一人か二人が売春婦ということになる。
人口の半分が男ということ考えると、女が30人歩いていれば、その中に一人は売春婦が混じっているという計算だ。
さらに成人人口に絞れば、うんざりするような数字が出て来るだろう。
地域をホワイトチャペルに限定すれば、比率がうんと跳ねあがるのは、考えるまでもない。
それが、俺達が治安を預かる町の現実なのだ。
嫌になってくる。
俺の見識の低さを目の当たりにして、或いはいつものように皮肉が待っているだろうかと身構えたが、ベイツはとくに反応をすることもなく、彼の話を続けた。
「一連の娼婦殺人事件のお陰で、彼女達は世界一物騒な町で夜辻に立ち、躰を張った仕事をしていくにあたって、自警意識と互助精神から、互いに寄り添いながら身を守る傾向が強くなっています。そんな中で、売春婦同士のレズビアン・カップルが増えているというのも、最近の流行ではあるんですよ」
「なるほど・・・必要に迫られた知恵というわけか。合理的ではあるな」
興味深い話ではあったが、茶化す気になれず、自分が的外れな返答をしていることはわかっていたものの、これもベイツはさらりと流した。
呆れていたのかもしれない。
「そもそも悩むほどの問題ではないでしょう。語源を辿ればレズビアンは、古代ギリシャの女流詩人サッフォーの出身地である、レスボス島から来ているぐらいです。レズビアン的なことを示すサフィックという言葉も、詩人本人の名前に由来するんですよ。真相は不明ですが、もしも世に言われているようにサッフォーがレズビアンだったとすれば、クリスチャンの歴史よりも古いということになります。良し悪しはともかくとして、女同士の行為がそれほど不自然なことだとは、僕には思えません」
ジャーナリストらしい、論理的で現実的な意見だった。
確かに男同士が惹かれあうなら、女同士が恋に落ちても、なんら不思議はないかもしれない。
俺が黙っていると。
「急にそんなことを聞いて来るなんて、何かあったんですか? こう見えて実は女だなんていうのは、やめてくださいよ」
少し冗談染みた口調で、ベイツが言った。
「いや、まさにそれなんだが」
「えっ・・・」
俺が応えると、今度こそベイツがギョッとした顔をする。
「違う違う、俺じゃなくて・・・」
名前は出さずに、俺はそれとなくリリーとアリスの話をベイツに教えた。
「男装の麗人ですか・・・聞いたことありますよ。『ナイト・フォーク』っていうクラブをご存じないですか? 従業員が全員女性で、男装しながら接客をするのが特徴なんです。なおかつ客の方は女装をして、おネエ言葉を使うわけですね・・・特殊な趣味を持つ層の、集まりってわけです。しかも客層はかなり良くて、貴族や政治家など、金払いの良い紳士ばかりらしいですよ」
「頭が痛くなってくるな・・・」
しかし、世の中にはかなり変わった趣味を持つ男たちがいて、彼らを満足させるための特殊な店が存在することは事実である。
先週俺達が踏み込んだ『イエロー・ローズ』などが、まさにそうだった。
ベイツが話を続ける。
「ところが、客には高級娼婦も多いらしく、彼女達が来て何をするかというと・・・」
「レズビアン行為というわけか」
「そうなるでしょうね。まあ、それも魚心水心ってことです」
これから会社へ戻るというベイツは、パブ『ブリタニア』の前で馬車を捕まえた。
窓からリンドウの花束を振って立ち去る、気味の悪い男と別れた俺は、一人でドーセット・ストリートへ入る。
ミラーズ・コート13番地を訪ねるが、この日も生憎留守だった。
その後、バーネットがよく飲みに行っている『ホーン・オブ・プレンティ』や『テン・ベルズ』も覗いてみるが、行き先の手掛かりが得られず、諦めて俺も署へ戻った。
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