言われたとおりに、医務室で怪我の手当を済ませて報告書を書いていると、廊下で誰かが叫んだ。
英語ではない。
そこへマグカップが現れる。
「おお、悪いな。何かあったのか?」
お茶を淹れてくれたらしいディレクに礼を言い、ペン先で廊下を示しながら彼に尋ねた。
「喧嘩ですよ。パブでユダヤ人のゴロツキ達が、暴れていたんです。たぶん、縄張り争いか何かじゃないでしょうか」
「ふうん」
お茶を口へ運びながら、なんとなく後ろを振り返ると。
「だから、あっちが悪いって言ってんだろ! 急に殴りかかってきて、俺達はあんな連中知らないってのに・・・。いきなりナイフ持って突っ込んできやがって・・・」
「わかった、わかった・・・話はこれから聞くから」
手首を拘束され、警官二人に取り押さえられながら、赤毛の男が取調室へ向かって歩かされている。
随分酷くやられたようで、服が破れた肩も、痣で腫れあがった顔も、血を流して痛々しい状態だった。
それでもなお、俺は思った。
「あれ・・・あの男、どこかで・・・」
不思議な既視感。
或いは町で、擦れ違ったことがあるのだろうか。
「ジョージ」
そこへアバラインが入って来た。
俺は慌ててペンを置いて立ち上がる。
「フレッド、もしも見ていたらだけど、さっきのはただの誤解で、スティーヴン氏が俺を揶揄って・・・」
「もういい、わかっているから」
困ったような顔をしてそう言うと、咳払いをして軽く視線を彷徨わせる。
するとアバラインの後ろから笑いを噛み殺しながら、続いてキャラハンが入って来て。
「痴話喧嘩はあとにして貰って・・・それよりゴドリー、君に報告がある。俺から話したほうがいいか、フレッド?」
「いいえ、私が伝えます。・・・ジョージ、昨日からの単独行動については、大目に見て貰えるから安心しろ。だが、今後このような捜査は厳禁だ」
言われている意味が、今ひとつピンと来なかった。
確かに勝手な判断で単身、ギャングのアジトへ乗り込んだ点については、責められても仕方がない。
おまけに刑事が監禁されて、民間人に助けられたのだから、警察にとっては恥の上塗りだ。
処分のひとつも言い渡されても文句が言えないし、俺も覚悟はしていた。
アバラインの通達は、そこをお咎めなしにしてやろうと言っているのだから、俺は運が良いのだろう。
それはわかる。
だが、ギャングに捕まって、全身に痣を作った上に拘束されて、場合によってはいつ殺されても可笑しくなかった筈だ。
それでも、その危険を冒した結果、得る物は充分にあった。
ダリルとスティーヴンがどう繋がっているのかはわからないし、スティーヴンがなぜ俺を助けてくれたのかについても疑問は残る。
ダリルが言っていた話が、完全に信用に値するのかも、検討の余地はあるだろうが、無視して良い筈はない。
まずは、報告書を読んでほしかった。
俺はアバラインへ、ダリルから聞いた話を訴える。
「市議会議員のイアン・ガーラントを調べてください。マネー・ロンダリングの疑惑と、外国人献金疑惑があります。イアン卿はベッサラビア人ギャング集団、『クライム・インコーポレイテッド』と深い繋がりを持っていて、議会で根拠のない法規制を通過させたり、政治活動や自警活動を恣意的に取り締まらせたりといった形で、組織へ利益誘導を図る一方、彼らから多額の献金を数回に分けて受けており、俺が監禁されたグループは、その『クライム・インコーポレイテッド』の傘下組織で・・・」
俺がまだ話している途中で、アバラインが言葉を強く被せてくる。
「ジョージ、聞こえなかったのか。捜査をするなと言ったんだ」
「単独行動は控えますし、命令にも従いますよ。だからガーラントについて・・・」
「イアン・ガーラント卿についても、今後の捜査はなしだ」
俺はアバラインをまじまじと見た。
「捜査はなし・・・捜査そのものを、するなって言ったんですか? 俺の話を、ちゃんと聞いていましたか?」
信じられなかった。
ダリルから聞かされたギャングとの黒い繋がりに加え、イアン・ガーラントはヴァイオレット・ミラー殺しや、アリス・レヴィ殺しにも関与の疑いがある人物である。
その件だけでも、充分に追う理由があるというのに、アバラインは捜査をやめろと言ったのだ。
「もちろんだ。その上でお前に頼んでいる・・・・・この件からは、手を引いてくれ」
苦々しい表情を浮かべながら、アバラインは言った。
頼むと。
「何があったんです・・・?」
「俺とフレッド、スティーヴン氏とアーノルド警視・・・そしてモンロー長官で話しあった結論だ」
キャラハンが説明した。
「どうしてスティーヴンが絡んで来るんです!?」
「スティーヴン氏の意見は『ロイヤル・アルファ・ロッジ』の意見だ。これを無視すると、下手をすれば皇太子殿下のご意向に逆らうことになる・・・こう言えば君にもわかるか?」
また王室。
それだけではない。
いくら下っ端の刑事が足を棒にして、躰じゅうに怪我をして、命の危険を冒しながら、犯人に迫ったとしても、いとも簡単にわけのわからない上層部の判断で、掴みかけたその尻尾が、煙のように手の中から消えてしまうのだ。
やりきれない。
しかもなぜホワイトチャペル署へジェイムズ・モンローが来ているのか・・・。
モンローは8月末に、かねてから意見が対立していたチャールズ・ウォーレンへ、抗議を表明するかのように、4年間勤めていたCID部長を辞任した。
ヘンリー・マシューズ内務相は彼を、公安警察の刑事部門長官という役職に就任させて、手元へ引き留めている。
そしてモンローは、アバラインとクリーヴランド・ストリートの男娼館を、極秘に内偵していた人物で、ベイツは二人が同性愛の関係にあると言って、俺を慌てさせた。
公安警察といえば、ヤードの制御がまったく効かない、極めて独立性の高い部門だ。
そこのトップとなれば、何をしているものやら、さっぱり俺達の想像が届かない。
・・・やはり気分は良くない。
「すまない」
改めてアバラインが、俺に謝ってくれた。
よく見ると、その拳は握られて、白い皮膚にはっきりと青筋が立っている。
キャラハンの拳は震えてさえいた。
二人とも、辛いのだ。


 05

目次へ戻る