ミラーズ・コート13番地の扉を叩くが返事がない。
「畜生、また留守か・・・」
背を向けて帰ろうとしたところ、中から声が聞こえる気がしたため、俺は壁伝いに回ってみることにした。
窓が見えたところで、耳に届いて来る、はっきりとした喘ぎ声に、俺は思わず唾を飲み込む。
腰を屈め、割れた窓ガラスから覗いた光景は、なかなか衝撃的だった。
まず目についたのは、空間を半分以上占めているように見えるシングルベッド。
壁に付けられてはいるが、入り口との距離を考えれば、扉を開けるとベッドの木枠にぶつかりそうな気がした。
向かいの壁際には洗面台。
窓の近くには小さな机と、扉の正面には暖炉。
その上に絵が掛けられていた。
ベッドへ視線を戻す・・・というよりも、嫌でも目が行ってしまう。
そこには裸になった女が二人、艶めかしく絡み合っていたからだ。
横たわっている方はメアリー・ジェーンである。
覆い隠す物がない姿で、乳房も露わなその肢体の膝の間に、金髪の女が座っている。
下腹部へ埋められた金髪の頭がときおり蠢く度に、仰向けになっているメアリー・ジェーンが仰け反り、半開きの口からは、色っぽい喘ぎが漏れてくる。
金髪の女が不意に顔を上げると、立てられたメアリー・ジェーンの細い膝を、さらに大きく割り開かせるように、両手で抱え直す。
アイコンタクトがあったのか、暫しメアリー・ジェーンが親しげに笑いかけていた。
相変わらず長い髪に隠れて顔は見えないが、仲が良い相手なのだろう。
金髪の女がぐっと首を伸ばして、メアリー・ジェーンの口唇を奪う、同時に、向こう側の腕を動かしてどこかへ手で触れた。
微かに響いている気がする湿った音・・・キスを続けながらも、女が尖った肘を小刻みに動かし続け、溜まりかねたように、メアリー・ジェーンは、横顔を仰け反らせ、遂に悲鳴に似た声を上げた・・・。
突然背後から肩を叩かれる。
「失礼だが、ここで何をなさっているんですか?」
「はい・・・!?」
その瞬間、俺は人生が終わったような気がした。

 


「じゃあ、あたしは用事があるから帰るよ。・・・・またね、刑事さん」
「ああ・・・」
安っぽいドレスに着替えて、部屋から出て来たのは、金髪のジュリア。
同じミラーズ・コートに住むメアリー・ジェーンの友人で、いつだったか公共水道で会った時、俺にバーネットと会ってくれと言ってきた女だ。
そういえば、あのときもジュリアは、メアリー・ジェーンなら自分の部屋にいると言っていなかったか・・・。
絶賛覗き中だった俺は、通行人に見咎められた。
背後から肩を叩き、声をかけてきた相手は、大家であるジョン・マッカーシーの代理人らしく、トマス・ボウヤーという体格の良い中年の男。
上手い誤魔化しや言い訳も思い浮かばず、ただひたすら狼狽えていた俺は、部屋から出て来たメアリー・ジェーンに助けられた。
「この人はお友達で、割れた窓がなんとかならないかって相談していたところなの。ねえ、直してくれない、ボウヤーさん」
「家賃を貰ったあとで、考えてやるよ」
下着姿で迫るメアリー・ジェーンを冷たくあしらうようにして、ボウヤー氏は別の部屋へ行ったのだった。
そういう会話は日常的に感じられた。
とりあえず、危ないところで俺はメアリー・ジェーンから助けられたわけだ。
刑事が女の部屋を覗き見したなどと訴えられたら、俺一人の首では済まないところだった。
とはいえ、覗かれていたメアリー・ジェーンもジュリアも、覗いていた俺を、その後非難するというわけでもなく、互いに顔を見合わせてクスクスと笑っていただけなのだが。
覗かれるぐらい、何でもないということなのか・・・。
そんな筈はあるまい。
あるいは、俺の弱みを握って、いつか強請ってやろうという魂胆か。
仮にそうなっても、俺の自業自得だ。
「いつまで、そこにいるつもりなの? お茶を淹れたから、部屋に入りなさいよ」
戸外で小さな空を眺めながら、ぼんやりと人生の終焉について考えていると、きちんとドレスを身に付け、ブルネットの長い髪を背中に垂らしたメアリー・ジェーンが呼びにきた。
俺は改めて、彼女の部屋へお邪魔する。
「その・・・すまなかった。実はノックをしていたんだが、声をかけるタイミングが見つからなくて・・・」
何と言ってよいのかわからず、とりあえず謝りつつも、無駄な弁解をすると。
「あなた、刑事だったのね」
メアリー・ジェーンが悪戯っぽく目を細めた。
「ええと・・・そうか、言ってなかったっけ」
「初耳だわ、・・・といっても、会うのはまだ二回目だけど。前回は思わせぶりにあたしを誘っておいて、結局別の女とどこかへ行っちゃっただけ。結構ショックだったのよ。この辺では彼女も若いほうだけど、あたしの方がずっと年下だし、見た目も負けてるとは思わなかったから」
ミラーズ・コートの入り口で、自棄酒に酔っぱらったリジーに絡まれて、『テン・ベルズ』へ連れて行かれたときの話だ。
「負けてるどころか、とんでもない! 君はこのあたりじゃ、抜群の美人だろう。リジーの比じゃないよ」
「ふうん。彼女はリジーっていうのね。でもあまり見かけない顔だわ・・・。娼婦じゃないのかしら」
「娼婦だよ。オールド・モンタギュー・ストリートの『マダム・マギーの家』って店にいる。君も見ただろうけど、すんごい化粧して男を探してるよ。・・・たく、なんであんな化粧するんだか。そのままにしてりゃあ、結構可愛いのに」
「随分仲がいいのね。化粧が濃くなるのは、女の変身願望と心を鎧で固めてる証拠・・・そうでもしなきゃ、正気でいられないのかもしれないわね。こんな仕事・・・好きでやっている女なんていないから、当然だけど。ところで刑事さんがいったい、何の用だったのかしら。あたしのところに来るなんて、やっぱりアニーのこと?」
メアリー・ジェーンのほうから名前を出されて、こちらが驚く。
「君は、ひょっとしてアニー・チャップマンを知っているのか?」
「ええ、よく『テン・ベルズ』や『ブリタニア』で顔を合わせたし、料理の話をしたりしてたわ」
たしかにクロッシンガム・ロッジング・ハウスとミラーズ・コートは、目と鼻の先だ。
飲みに行った先で一緒になることも多かったことだろう。
「料理の話か・・・彼女は料理が好きなのか?」
「とりたてて好きかどうかはわからないけど、家庭的な人よ。だからあたしがわからないことを、アニーに色々と聞いていたの。料理に洗濯、編み物とか、彼女なんでも出来そうだったし」
メアリー・ジェーンはまだ若く、バーネットと暮らして家事をこなす中で、わからないことも多いのだろう。
さしずめアニー・チャップマンは、近所に住んでいる、主婦の先輩的な存在だったということだろうか。
アメリア・ファーマーも言っていたことだが、どうやらアニー・チャップマンは、いわゆる娼婦とは、少しわけが違うようだった。
「ところで、9月8日のことを聞いてもいいかな」
「アニーが亡くなった日ね」
メアリー・ジェーンの顔が少し暗くなる。
友人とまではいかなくても、仲の良い先輩主婦の死は、少なからずショックだったことだろう。
「事件のあった前日の夜から朝にかけて、君は家に?」
「ええ」
「一人で?」
「やだ刑事さん、まさかと思うけどあたしを疑ってる?」
「まさか。君の恋人はどうなのかな」
メアリー・ジェーンは目を丸くした。
こうすると、鳶色の綺麗な瞳がよく見える。
しかし、突然目の前の美しい女性が、大きな声で笑い転げてしまった。
「ちょっと、冗談でしょう!? ・・・ジョーがアニーを殺したって言うの? やめてよもう・・・人を笑わせるにも程があるわ。・・・ああ、もう可笑しい・・・!」
それはまるで、発作のように見えた。
俺は彼女が淹れてくれたお茶を飲みながら、メアリー・ジェーンの笑いが収まるのを暫く待った。
「そろそろ、話してもいいかい?」
俺が尋ねると、不意にメアリー・ジェーンはきつい表情になる。
それまで話していた穏やかな女性とは、別の顔を見た気がした。
「あの男に、そんな大それたことが出来るわけないわ。・・・せいぜい魚や肉を盗んでくるのが関の山。ビリングズゲート・マーケットもクビになって、碌に仕事も見付けられない・・・・どこで何をしているのやら。このお茶もそう。あのジャガイモもそう・・・あたしが通りで躰を売って稼いだ金で買った物よ。お茶に入っているお砂糖や、あそこのパンは、大家さんにお願いして分けてもらった物。家賃もまだ払えてないのに・・・・惨めったらありゃしない!」
メアリー・ジェーンは拳を握って、ドンと机を叩いた。
「もう一度聞くよ、メアリー・ジェーン。9月7日の夜から9月8日の早朝にかけて、ジョウゼフ・バーネットはこの部屋にいたのかい?」
「いないわよ」
「彼はどこへ行ったの?」
「知らない・・・興味もないわ」
鳶色の瞳は目を伏せられ、握りしめたままの拳と、机を叩いた拍子にカップから零れたらしい、丸いお茶の染みとの間あたりを、じっと見つめているようだった。
不意にノックが聞こえる。
「誰か来たんじゃない・・・?」
彼女に動く様子がないので、どうしようかと思う。
ひょっとしたら、ジュリアが戻ってきたのだろうか。
迷ったが、俺は立ち上がり扉を開けに行くと。
「メアリー・ジェーン、準備はいいかい・・・・君は?」
そこに立っていたのは、若い男だった。
「俺は客だけど・・・ええと」
「ジョー? ごめんなさい、もうそんな時間なの?」
後ろからメアリー・ジェーンが、恐らくやってきた男に、話しかける。
ジョー・・・ジョウゼフ?
だが、この者はジョウゼフ・バーネットではない。
「メアリー・ジェーン、この男は誰だ?」
「ああ、彼は刑事よ」
後ろで慌ただしく、鏡に向かって化粧を始めたメアリー・ジェーンが、ジョーに応えた。
「刑事? 失礼だが、メアリー・ジェーンに何の用だ」
この質問は当然俺にされている。
「いや、アニー・チャップマン殺しの件で、聞きたいことがあったから・・・ところであなたは・・・」
「俺は関係ないだろう。それより、どうしてメアリー・ジェーンのところへ刑事が来るんだ?」
「やめてジョー。刑事さんはバーネットのことを聞きにきただけよ。そっちはジョウゼフ・フレミング。悪いけど刑事さん、帰って貰える? あたし、これから出掛けなきゃならないのよ。ジョー入って・・・」
髪を纏め直していた途中のメアリー・ジェーンから、そう言って追い立てられるように俺は彼女の部屋を出た。
入れ違いにジョウゼフ・フレミングが入る。
考えるまでもない。
ジョウゼフ・フレミングは、バーネットに愛想を尽かしたメアリー・ジェーンが、新しく付き合い始めている男ということだ。
現状はバーネットがメアリー・ジェーンの同棲相手で、フレミングはその後釜を狙っている立場なのに、部屋へ来てみたら俺がいた。
だからフレミングとメアリー・ジェーンは焦ったのだろう。
そういう意味では申し訳なかったが、何も知らないバーネットが可哀相な気がした。
いや、何も知らないわけではないだろう。
バーネットはメアリー・ジェーンの浮気を疑い、かつて俺を相手に『テン・ベルズ』で長々と愚痴を言ったことがある。
バーネットは仕事のことで、俺に嘘を吐いたが、あの愚痴は恐らく本当なのだ。
ふと、メアリー・ジェーンの部屋から歌声が聞こえて来た。
「この歌・・・」
優しいような、懐かしいような・・・それでいてどこか悲しい歌。
それはいつか、見世物小屋で聞いた、サキという両性具有の少年が、美しい声で歌っていたあの歌だった。


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