指示を仰ぐべき上司もいないので、俺はすぐに署を出ると、その足で『ホーン・オブ・プレンティ』を訪れてみた。
バーネットがよく来るこの店なら、あるいはダニーの家を知っている客もいるかもしれない。
店員や常連客らしき男達を捕まえて、知っている者がいないか聞いていると、そこへ思わぬ人物が入って来た。
「やあ、ジョーじゃねえか」
カウンターでオイル・サーディンを摘まんでいた労働者風の男が、そう言って戸口へ手を振り、よもやバーネット本人が来たのかと俺は期待して振り返った。
「刑事かよ・・・」
やってきたのは、メアリー・ジェーンの浮気相手・・・というより、元恋人らしい、ジョウゼフ・フレミングだった。
「どうも、こんにちは」
俺はフレミングに挨拶し、窓際でジンを呑み始めた彼のテーブルへ移動する。
顔を顰められたが、とくに何も言われなかったので、ついでに少し話を聞かせてもらうことにした。
フレミングは、かつてメアリー・ジェーンがペニントン・ストリートで娼婦をしていた頃に、彼女と知り合ったらしい。
職業は左官で、昨年メアリー・ジェーンがバーネットと知り合うまで、二人は同棲していたのだという。
彼としては、いずれ結婚するつもりでいたようだ。
「あの男が横槍入れて来やがったんだよ」
いまいましそうに、フレミングはそう言った。
今でもときどき、ミラーズ・コートを訪れて、メアリー・ジェーンが経済的に困っていると金を与えたり、連れ出して一緒に食事をしたりしているのだそうだ。
昨日会ったのは、そういうタイミングだったらしい。
「メアリー・ジェーンを殴ったりもしているのか?」
俺が聞くと、フレミングは一瞬動揺したように見えた。
しかし、すぐに気を取り直し。
「どうせ、あのジュリアとかいうレズの娼婦から聞いたんだろ。あんた刑事やってんなら、娼婦ってのがどういう人種がわかるだろう? 嘘を吐いて男を騙し、金を毟り取るのが連中の商売さ」
そう言ったフレミングは、戸外に向かって一際大きな声で呼びかけると、間もなく入り口から顔を出した男と連れだって店を出て行ってしまった。
意外にも声を掛けた俺を嫌って、すぐに出て行ったりせず、話に付き合ってくれたと思えば、どうやらここで誰かと待ち合わせをしていたために、出るに出られなかったということのようだった。
「男を騙す商売ね・・・」
確かに言っていることに間違いはない。
そして、その娼婦と結婚を考えた上に、別れた後も未練を立ちきれず、金を貢ぎ続けているのは、一体どこの誰なのだと俺は思った。
あるいは、メアリー・ジェーンだけは違うと、フレミングは信じたいのかも知れない。
いずれにしても、哀れな男だとしか俺には感じられなかった。
手に入れた情報に概ね満足をしたところで、店を出てダニエル・バーネットを訪ねることにした。
「マスター、お邪魔しました」
カウンターへ挨拶をして店を出る。
そして通りへ出たところで、すぐに鉢合わせた顔に、俺は大きく息を呑んだ。
「あれ・・・刑事さんじゃないですか」
人通りの激しいドーセット・ストリートとベル・レーンの曲がり角に立ち、曖昧な笑顔を作ってこちらを見ている、中肉中背の男。
「バーネット・・・」
そこにいたのは、俺がこの数日ずっと探していた男。
ジョウゼフ・バーネットだった。

 


「はい、仰る通り今はダニーの家にいますよ。僕にも意地がありますからね。彼女があいつらを追い出すまで、家に帰るつもりはありません」
再び『ホーン・オブ・プレンティ』の、窓際の席へ戻った俺は、マスターが出してくれたオイル・サーディンを摘まみながら、バーネットの話を聞くことにした。
バーネットはジンを口へ運びながら、珍しく語気を強めてそう話すと、意志の固さを強調するように顎を引く。
その様子が、いかにも気の弱い男の、強がりでしかないように見えて、少々滑稽だった。
せいぜい肉や魚を盗んで来るのが、関の山・・・そういって彼を嘲笑った、メアリー・ジェーンの、男を見下しているような顔を俺は思い出す。
やはり、バーネットは犯人ではないのだろうか・・・だが、俺は彼に一度嘘を吐かれている。
そして、ポリー・ニコルズの殺害時刻に、バーネットのアリバイはないのだ。
「じゃあ9月8日の朝も、ダニー達と一緒だった? それを証明できる人物はいるか」
俺は手帳にメモを取りながら、バーネットへ尋問した。
「それがですね・・・実は僕、そのときロンドンにはいなかったんですよ」
意外な回答が帰って来て、俺はまじまじとバーネットを見る。
「ロンドンに・・・いなかった?」
「そうです。9月7日の朝からホップ摘みをするために、ケントへ行ってました」
この時期、確かにホップ摘みでケントへ出掛ける労働者は多い。
力のいらない単純作業のため、大した金にはならないが、ひととき空気の悪いロンドンから離れて田舎で暮らすことになるため、小旅行がてらに家族揃ってホップ摘みに出掛けるというケースも少なくない。
「いつ帰って来た。それを証明できる者は?」
「翌日です。・・・実は行ってはみたものの、仕事にありつくことができなくて・・・結局次の日の昼ごろにはロンドンへ戻ってきてしまったんです。ダニーの家族と一緒に行きましたが、彼らも戻ってますよ」
ということは、裏付けはダニエル・バーネットへ聞けばよいということだろうか。
それなら、すぐに確認できるだろう。
「わかった。・・・お前には以前に一度仕事のことで騙されているからな。つい、口調がきつくなってしまって、悪かった。念を押すが、今度は本当だろうな」
俺が聞くと、バーネットは徐にジャケットのポケットへ手を突っ込み、テーブルの上に小さな紙を二枚取り出した。
鉄道切符である。
「ケントへ行ったときの切符です。日付が入っていますから、確認してください」
テーブルに並べられた2枚の切符は、手に取るまでもなくロンドンとケントを結ぶ、往復分の切符であり、刻印された日付は確かに9月7日と8日だった。
言うまでもなく、9月7日にロンドンからケントへ出発し、翌日にロンドンへ戻ってきている。
鉄道ダイヤまで俺は頭に入ってはいないが、アニー・チャップマンの死亡推定時刻は、発表されているもので9月8日の午前4時半から6時の間。
最初に検死をしたルウェリンの見解では、4時半より前とすら言っている。
仮に始発へ乗ったとしても、到底バーネットがハンバリー・ストリートの裏庭でチャップマンを殺害し、あれほどの解体作業ができるとは思えない。
「わかった」
念の為に切符は預かった。
そしてバーネットは恥ずかしそうな顔になり。
「前は刑事さんに嘘を吐いてごめんなさい・・・あのときはまだ、刑事さんと知り合ったばっかりでしたし、彼女のこともあってその・・・仕事をクビになったなんて、恥ずかしくて言えなかったんです。たぶん刑事さんは、ビリングズゲイト・マーケットへ行かれたんですよね・・・。本当に情けないです」
恐らく、市場から魚を盗んで解雇されたことを言っているのだろう。
曖昧に笑うと、目の前に座っているバーネットは俯いて見せた。
それはどこか、自嘲に見えなくもない。
今はどうしているのかと聞くと、スピッタルフィールズ・マーケットや、マイター・スクエア近くにある、セント・ジェイムズ・プレイスで日雇いの仕事に並んでいるのだという。
その後俺は、念の為にダニーの家を訪ねてみたが、生憎留守が続いた。
近所の住人に聞くと、ケントに行っているのだろうと言う。
仕事はなかったと言っていた筈だが、あるいはあれから空きがでたのかも知れない。
バーネットの証言について裏付けはとれなかったが、本人から切符を預かっていることもあり、俺はそれきりダニーの家を訪ねることは止めていた。
そうして大した動きもなく、数日が過ぎた。


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