ホワイトチャペル署へ戻った俺は、報告書を書きながらアバラインの帰りを待っていた。
昼間ダニエル・バーネットと話を終え、その足で念の為にミラーズ・コートへ行くと、幸いにしてメアリー・ジェーンと会う事ができたが、やはりあれ以来バーネットは帰っていないという。
続いて『ホーン・オブ・プレンティ』と『ブリタニア』、ついでに先日のスコーンの礼を言いがてら、『テン・ベルズ』へも行って聞いてみたが、やはりこの1週間ほど、誰もバーネットを見かけていなかった。
恐らく兄のダニエルが言うように、バーネットはケントへ行ったきり、まだ戻っていないのだ。
ちなみに、『テン・ベルズ』のマスターへは、今度食事でもどうかと誘っておいたが。
「つまらない話をするなら、さっさと出て行ってくださいな! 仕事の邪魔ですよ!」
そう言って怒鳴られながら、追い出された。
やはり顔が真っ赤で可愛かった。
恐らく、もう2、3度誘えば、めかし込んで付いて来ると思う。
誘わないが。
それはともかく、バーネットだ。
彼は二度、俺に嘘を吐いた。
この間は、よく知りもしない俺に、仕事を解雇されたと打ち明けるのが、恥ずかしかったのだ・・・などと言っていたが、それも嘘だろう。
そして、ポリー・ニコルズ殺害時も、アニー・チャップマン殺害時も、現状彼にはアリバイがないことになる。
さて、バーネットよ・・・今度は俺に、どのような嘘を吐く気だ?
俺は、3時間ほど前に書きあげた報告書に10回以上も目を通し、大きく溜息を吐いた。
「ったく・・・こういうときに限って、いつになったら帰って来るんだ、あの人は? もう12時過ぎじゃねえかよ・・・畜生、明日はケントだってのに、また朝帰りか」
待ち人来たらず。
明日乗る予定の、ケント行きの切符はすでにポケットの中にある。
署へ戻る前に、駅で購入済みだった。
だが、アバラインへの報告はまだであり、本当にケントへ行くつもりなら、当然上司である彼の許可は必要だ。
ウェスト・エンドへ足を伸ばすのとは、訳が違う。
その為にはこの報告書を読んで貰う必要があり、バーネットの追及が必要だということを、彼が納得する必要があった。
列車の時刻は午前6時15分。
なのに、許可をとるべきアバラインは、まだ戻って来ない・・・刻々と、俺の睡眠時間だけが、容赦なく削られて行くわけだ。
まあ、はりきって朝一の便なんて選んだ、俺が悪いのだろうが。
そのとき、入り口で当直のディレクが立ち上がり、敬礼を見せた。
続いてアバラインの声が聞こえて来る。
「フレッド・・・」
名前を呼びながら立ち上がり掛けて、俺は思わず固まった。
「おやすみ、フレッド・・・さっさと寝ろよ」
そう言って彼の肩に手をかけて、頬へキスをしてから、そのまま引き返す人物は見間違えようもない。
相手を暫く見送ってから、刑事課へ入って来るアバライン。
ほっそりとしたそのシルエットが、入り口の辺りで凍りつく。
「ジョージ・・・まだ残っていたのか」
ヘイゼルの瞳が、心なしか動揺しているように俺には見えた。
「ええ。急いで御報告したいことがありましたから。それとも、俺が残っていたら、何か都合の悪いことでもありましたか、アバライン警部補」
つい、言葉がきつくなってしまう。
アバラインの表情が、あきらかに歪んだ。
悲しそうな瞳。
「そんなことはない。何だ、急ぐ報告というのは。早速聞こう。それは報告書だな・・・読ませてくれ」
俺は手にしていた書類を彼へ渡した。
暫くアバラインが黙って報告書へ目を通す。
目の下の痛々しいほどの隈。
もともと華奢だった彼は、最近また痩せたように思う。
一連の殺人事件捜査責任者として指揮を執る一方で、ヤードに残した事件の捜査も続けているのだから、当然だ。
容赦のない本庁からの呼び出しや、彼を引っ張り回すキャラハンに付き合わされ、ホワイトチャペル署でも泊まり込みが当たり前になっている。
これではいつ寝ているのかもわからない。
今日もまた、キャラハンと一緒だったわけだ・・・一体、どこで何をしていたんだ?
あのような、親密な挨拶を、当たり前のようにさせて・・・。
気が付くと、ヘイゼルの瞳が俺をじっと見つめていた。
「あ・・・ええと・・・?」
アバラインが珍しく、視線を泳がせる。
ひょっとしたら、何か質問をされていたのだろうか。
まったく聞いていなかった・・・。
「いや・・・。大体は承知した。つまり、お前はこのジョウゼフ・バーネットをもう少し、追いたいんだな。手にしている切符はひょっとして、ケント行きのものか?」
アバラインが視線を、俺の手元へ落としながら聞いた。
「はい・・・あの、勝手なことをしてすいません」
「構わん。・・・随分早い列車じゃないか。これでは寝ている時間がないぞ? もういいから、早く帰って明日の準備をしろ」
そう言ってアバラインが自分の机へ向かおうとする。
俺は思わず彼の手首を掴んで引きとめた。
「待てよ・・・」
「ジョージ・・・!?」
振り向いた頬がカッと赤く染まり、ヘイゼルの瞳が大きく揺れた。
「それだけかよ・・・もっと、言うべきことが、あるんじゃないのか?」
「ジョージ、やめろ。職場だ」
フレッドは俺の態度を非難するように言った。
俺は頭に血が上る。
「その職場で昔の男にキスさせてたのは、どこの誰だよ!」
「ジョージ・・・!」
頬に軽い衝撃があった。
目の前ではヘイゼルの瞳を潤ませて、口唇を噛んでいるアバラインが、きつく俺を睨みつけている。
その骨ばった右手が、白い皮膚にくっきりと青筋を立てながら、胸の前で握りしめられていた。
頬を平手で叩かれたのだ・・・。

 『9月29日』_03

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