「あ・・・ええと、悪かった・・・」
たいして痛くもない頬を擦りながら、俺は素直にアバラインへ謝る。
今のは殴られて当然だ。
当直のディレクもいるというのに、勝手に彼のプライベートを持ちだして、悪しざまに非難したのだから。
俺は何をやっているんだ・・・。
「すまない・・・少しだけ外してくれないか?」
不意にアバラインが、力のない声でそう言った。
背後でディレクが、慌てたように俺達へ声をかけて、部屋を出て行く・・・ご丁寧に扉を閉めて。
つまり、今の台詞は俺と二人きりになるために、アバラインがディレクへ頼んだものだった。
それにしても、ディレクは気が利きすぎだとは思うが。
「あんた・・・何考えてるんだ・・・?」
アバラインの行動がまったく読めず、俺が聞くと。
「いいから、まあ座れ・・・言っておくが、少しばかり長くなるぞ? 明日のこともあるから、断るなら今のうちだ」
流しへ向かい、紅茶の缶を開けながらアバラインが返してくる。
「そんなこと言われて、はいそうですかって帰られるわけないだろ」
俺は大人しく椅子を引いて腰をかけると、アバラインが戻って来るのを待つことにした。
「悪いな付き合わせたりして・・・まあ、いい機会だから我慢して話を聞いてくれ。知っての通り、ライアンは元々俺の教育係だった。・・・いや、順番からいくと、先にエマとのことを話すべきか」
「エマ・・・それって、あんたの亡くなった奥さんだったよな」
沸騰させた湯が注がれ、ダージリンの豊潤な香りが漂ってきた。
アバラインは肯定すると、話を続ける。
「今から20年前の2月、ハイゲート署のビーメント警部補が強盗と格闘中に背中を刺され、その日の晩に息を引き取った。彼には娘が一人おり、母親をすでに病気で亡くしていた彼女は、その半年後に天涯孤独の身となった・・・それがエマだ」
「そうだったんですか・・・」
「ビーメント警部補は、俺がその3年前にY管区へ異動を言い渡されてからの、・・・つまり刑事になってからの最初の相棒だった。というより、まあ・・・当時無鉄砲で無茶苦茶だった俺の教育係で、飛び出そうとする俺の手綱を、しょっちゅう引き締めてくれた人だったんだけどな」
「あんたでも、そういう頃ってあったんですか」
まったく想像がつかない。
「あたりまえだろ。最初から落ち着いている刑事なんて、俺は見たことがない。今の相棒は刑事になって7年近く経っても、自分から好んで危険に飛び出してしまい、しょっちゅう俺を死んだ気にさせてくれるけどな」
そう言ってアバラインは静かに笑った。
「すいません・・・」
間違いなく俺のことだった。
「ビーメントはある日俺にエマを紹介してくれた。今でも覚えているが、父親に似て明るく、お喋り好きな娘だった。そのときに、いつか嫁にくれてやるから、頼んだぞと彼は言ったんだ。結局言った本人も、言われた娘の方も忘れていたみたいだけどな。そしてあの夜・・・、俺は彼の制止を聞かず、犯人がいる店へ乗りこんで、犯行現場を抑えようとした。店主は怯えた目をして、ロープで括られており、犯人は商品や金を探すのに、夢中になっていた。だから大丈夫だと思った。ところが俺が乗り込んで行くと、蹲っていた店主にナイフを突きつけ、金のありかを聞いていた、もう一人の男が立ち上がって、ナイフを片手に飛びかかって来た。ビーメントはそれを見て俺を庇おうとし、背中を刺されて倒れた。犯人は逃亡。俺は相棒を・・・命の恩人を亡くした。エマはまるで人が変わったように笑わなくなり、ほとんど口を聞かなくなった。気が付けば涙を流していて、とても見ていられなかった。さらに不幸が彼女を襲った・・・結核に罹ったんだ。彼女はそれを俺に打ち明けながら、これでパパとママのところに行けると笑ったんだ・・・それは俺が見る、父親を亡くして以来、初めて見た、すっきりとした笑顔だった」
「そんなことが・・・」
予想を超えた重い話だった。
今のエリート然としたアバラインからは想像も付かない、若かった彼の悔しさと、自分の失敗で恩人が命を落とし、その家族を天涯孤独にしたという、とてつもない苦しみ。
そんなものと、この人は戦っていたのだ。
「その笑顔を見ているうちに、俺は気が付いたら彼女にプロポーズをしていた」
「えっ・・・」
理解が出来なかった。
するとアバラインが、何かに気が付いたような目をする。
「お前の顔・・・」
「えっと・・・俺?」
「あのときのエマも、ちょうど今のお前と同じような目をして俺を見ていた」
そう言ってアバラインは、どこか懐かしいような、それでいて、未だに苦しんでいるような顔をして、笑った・・・悲しそうに。
「・・・・・・」
「俺達は翌日に籍を入れた。同僚はみんな俺の気が狂ったのだろうと、陰口を叩いていたと記憶している。昼間は仕事をして、家に帰れば若くて綺麗な女房が待っていて・・・といっても、刑事の仕事だから、そうきっちりと帰れるわけではないが、俺は人並みの幸せを手に入れられたのだと思う。だが、2週間を待たず、妻の病状が悪化した。咳が酷くなり、躰が痛いと訴える彼女をどうしてやることも出来ず、ただ日に日にやせ細って行く妻を目の前に、俺はどうすることも出来なかった。その翌月の終わり、庭の木陰でひっそりと咲くブルーベルの花を見ることもなく、エマは他界した」
「フレッド・・・・あなたは・・・」
アバラインがなぜ、その女性と結婚をしようと思ったのか、俺にはその理由がわかった気がした。
もちろん、その人を愛していたのだろうが、突然天涯孤独に突き落とされ、おまけに余命いくばくもない病の宣告を受けた彼女に、彼は再び家族と、女性としての幸せの両方を与えようとした。
アバラインの選択が、果たして正しかったのかどうかはわからない。
それでも当時の彼には、そうするしか彼女に償う術がなかった・・・そういうことだろう。
彼は十字架を背負ったのだ・・・或いは今もまだ、背負い続けている。
エマという女性の十字架を追加して。
「茶が切れたな・・・淹れなおそう」
「俺が淹れますよ」
そう言って、俺は空になった自分とアバラインのカップを手に、流しへ向かう。
時計を見ると、12時半を過ぎていた。
今夜は下手に寝ない方がいいだろうか。
俺の背中に向かって、アバラインが話を続けた。
「年が明けて早々、ハイゲート署にライアンがやってきた・・・・・・大丈夫か?」
「あ、すいません・・・ちょっと葉っぱが零れただけです。続けてください」
アバラインは軽く笑っただけで、すぐに席へ戻る。
俺は零れた茶葉を集めて捨てると、もう一度茶を淹れなおした。
そもそもキャラハンの話を聞いていたというのに、名前を出されただけで動揺するとは、間抜けな話だった。
「その頃、決まった相棒がいなかった俺は、すぐにライアンと組まされた。彼は前の年に30歳ですでに警部補に昇進。その頃に所属していたチャリング・クロス署の署長、エドガー・ブロウズ警視の娘、クララ嬢と結婚し、アリスという1歳の娘がいて、妻のお腹にはさらに二人目の子供がいた」
俺は今度こそアバラインを振り返る。
「ちょっと待って下さいよ・・・ってことは、キャラハン警視って、既に結婚していたんですか!? しかも二人の子持ちって・・・」
おまけになんという皮肉だろうか。
長女の名前が、あのアリス・レヴィと同じとは。
アバラインはヘイゼルの目を見開いて、驚いていた。
「いや、その頃はまだ二女のモニカは生れてなかったから、二人の子持ちというのは微妙な言い方になる。それに既に結婚をしていたという点においては、俺だって同じことだぞ?」
「いや、あきらかにニュアンスが違うし・・・畜生、しかも相手は当時の署長の娘とか、典型的なエリート・コースじゃないか。だからあの人、あんな上までトントン拍子に昇り詰めて・・・」
「お前、それは話がまた別問題だと思うぞ。何をやっかんでいるのかは知らないが・・・。とにかく、当時の俺にとって、ライアンはまるで太陽みたいな人だった。あの頃彼に出会わなければ、恐らく俺は刑事をさっさと辞めていただろうし、下手をすればエマの後を追っていたかも知れない。ライアンは俺にとって、陽だまりで、良き先輩であり友であり、憧れとなり、目標となって・・・かけがえのない人となったんだ」
「・・・・・」
その言葉を聞くのは、やはり辛かった。
キャラハンがいい加減な男であれば、俺もここまで動揺はしない。
だが、その頃のアバラインが、まるで人生のどん底のような、それこそ死を考えてしまうほど、ボロボロに傷付いていたときに、まさにキャラハンは公私にわたって彼を支え、引っ張ってくれたのだ。
キャラハンが相手なら、それもわかる。
わかってしまうのだ・・・。
たとえばその頃、そこにいたのが俺だとしたら・・・・アバラインを同じように、救えた自信はまるでない。
到底、叶わない・・・素直に、敗北を認めざるを得なかった。
「それから4年後、ライアンはチェルシーへ異動になった。そこではまた、新米刑事の教育をしていたらしい。随分と酒好きの若造で、しょっちゅう二人で飲みに行ってたみたいだった。不本意な異動で、今は刑事じゃないらしいがな」
「それってまさか・・・」
チャンドラーのことだろうかと思った。
だからチャンドラーは、あれほど刑事を妬ましく思っているのかもしれない・・・。
そう考えると、少しわかる気がしたが、結局真相は明かされずじまいだった。
「そして年末、彼の奥さんが待望の長男を生んだ。その頃から、俺とライアンは擦れ違いばかりで、だんだんと会える回数が減っていた。だからその2年後、彼が警視に昇進したときに、わざわざ呼び出され別れてほしいって言われたときには、正直なところ、何を今更って気がしたよ・・・」
そう言うと、アバラインは自嘲気味に笑った。
「結局それって・・・出世の邪魔になったあんたを、あの人が捨てたってことか?」
俺が聞くと、アバラインは目を丸くして俺を見つめる。
そして曖昧に笑って。
「まあ、実のところ俺もそんな気がしてはいたんだが・・・それにしても、言いにくいことを言い過ぎだぞ。少しは遠慮をしてくれ」
「んなこと言ったってさ・・・」
聞いていて腹立たしくはあった。
それでも、キャラハンが間違いなく、地獄の苦しみを味わっていた当時のアバラインを救い、新しい幸せを与えたことは間違いない。
或いは、その当時自殺を考えたとさえ言ったアバラインの言葉が本当であれば、キャラハンがいなければ、こうして俺がアバラインと会う事も出来ず、また彼に恋をすることもなかったということだ。
それでも、傷付いたアバラインの心へ付けこみ、その気にさせるだけさせて、都合が悪くなれば彼を切り捨てた、そんなキャラハンを、俺が許せる筈はなかった。
「お前が気付いているとおり、俺が本庁へ異動になった直後ぐらいから、ライアンにはときおり誘われている」
「フレッド・・・!?」
俺は思わず立ち上がった。
アバラインが目を見開いて、俺の手首を下へ引っ張る。
「落ち付けジョージ・・・いくらディレクを表に出しても、大声を出されたら、席を外してもらった意味はないぞ。確かにライアンはときどき、俺を誘ったり、さっきのような思わせぶりな態度はとってくる。だがな、何度も言っているが、俺とライアンは既に終わっている。それも15年も前にだ。冷静に考えてみろ・・・そんな大昔に、ほとんど若気の至りで恋に落ちた相手と、なぜ再会したからといって、その気になったりすると思うんだ。俺はもう20歳の若造じゃないぞ」
「そんなこと言ったって、相手は滅茶苦茶その気じゃないですか!」
「俺の知ったこっちゃない」
「・・・なんと言われましたか?」
「ライアンが何を考えていようが、俺には関係ないと言ったんだ。だいたい今の俺にはそんな暇はないし、やることは次から次へと山積みで、上層部の連中は余計な口ばかり出してくるし、新聞は要らないことだけ騒ぎ立てる・・・・・調子の狂ったアバンチュールを今さら誘いかけられて、なぜ俺がその気になると思うんだ」
「調子が狂った・・・アバンチュールですか・・・」
それはあまりにも、キャラハンが気の毒だと正直に俺は思った。
相手は、結構真面目にアバラインを思っているというのに。
もっとも、俺も敵に塩を送ってやるほど甘くはないし、馬鹿ではない。
彼が俺を、どのように脅したかは、死ぬまで黙っていようと胸に誓った。
そして俺は思ったのだ。
キャラハンは俺に、アバラインを泣かせるようなことをすれば、容赦はしないと言った。
だがそのキャラハンは、かつてのアバラインを、数えきれないほど泣かせたであろうことは、容易に想像が出来る。
よくぞ、俺を脅迫してくれたものだ。
「そもそも、お前は俺の何なんだ?」
アバラインが言った。
呆れたような、優しいような・・・そして少し、甘い声だった。
「そりゃもちろん部下ですよ」
平然と俺は言ってのける。
アバラインの顔が、途端に不満そうになる。
尖らせた口唇が可愛くてたまらなかった。
「それだけなのか・・・」
「そして、同時に・・・こういう仲ですよね」
俺は首を突き出し、尖ったままの口唇を奪った。
同時に、彼は俺の最愛の人だ。
アバラインが微かに口唇を開く。
「愛してる、ジョージ」
低く、そして甘い声の響き。
この言葉は、もうすでに俺だけのものだ。
「ああ、俺も愛してる」
そう告げて、再び口唇を重ねる。
先ほどよりも、ずっと深く。
『9月29日』最終章