ビクトール・トーレスは、このところハートマンと上手くいっていなかった。 判っている。 ・・・・・・大きなため息混じりに、言葉は二度三度繰り返され、僅かな沈黙ののちに話は続いた。
『 蒼 』
「要するに、山平は来ない。そういうことでしょう?」
携帯電話を耳に当てたまま、椅子から立ち上がり、セルヒオ・ハートマンは窓際へ歩いていった。
大きな背中から、苛々としたオーラが放たれている。
「ええ、判っています。本人が大学進学を希望しているんじゃ、どうしようもないってこともね。物わかりの良いパオロ・ムスカがまた、ロクに交渉も粘らず二つ返事で帰ってきただなんて、責めるつもりはないです。・・・話し方にトゲがある? 気のせいでしょう。ローマがヨン・ハーラルの買い取りオプションを行使すれば、来シーズンもポスト・プレーができないということや、それに変わるフォワードの獲得として、日本市場開拓が必要なクラブとスポンサーの兼ね合いや、何より移籍金がかからないという財政的事情を踏まえた上で、絶好の人材だった山平すらも、ウチのフロントは獲得できなかったのだと、そんな風に身も蓋もなくなじるような意地悪な言い方を、私がするわけはないでしょう。・・・落ち着け? 何を言っているんです会長。私は最初から冷静ですよ」
窓枠に置かれた指先が、コツコツと木枠を叩いている。
電話を受けたときと比べ、声のトーンが1オクターブは上がっていた。
とても落ち着いているとは思えない。
電話の向こうのハイメ・フェルナンデス会長も、そんなことはもちろん判っているだろうが。
白川兼陳(しらかわ かねのぶ)は壁に掛けられたアナログ時計を見た。
午前10時35分。
電話がかかってきて、すでに15分は経過している。
グラウンドでは仲間たちが、そろそろストレッチを始めている頃だろう。
窓から降り注ぐうららかな陽光とは不釣合いに、電話の向こうにいる人物をヒステリックに責めている、目の前の監督へ視線を戻した。
「これ以上話をしていても仕方がないでしょう? 仮に若い山平が来たとして、まずは育成から始めなければいけないわけですし、言葉の障壁も当然大きいでしょう。だからといって即戦力を獲得できる金銭的余裕なんて、ウチにはないでしょうから、それならば南米のクラブから埋もれた才能を獲得するほうが、言葉が通じる分、育てる時間もかからない。まだまだ時間はあります。最終的に来シーズンが開幕するまでに、左サイド・バックとフォワードが揃っていれば、いいだけのことですから。ジョアン・シウバとの交渉は、すでに始めているんですよね・・・。まさかまた、冬のように、緊急事態にも拘らず、誰も獲らないってわけではないのでしょう? 私はちゃんと、ウチのフロントを信用していますよ。それでは、これで。練習がありますので」
まだあれこれと、彼を宥めすかしているらしい声を無視して、目を怒らせたハートマンは、無情にも電源をオフにした。
不機嫌を隠さぬ表情のまま、彼が部屋の中を振り返る。
浅く座った姿勢で足を組み、肘掛に片肘をつきながら監督の背中をぼんやりと見つめていた白川は、慌てて背筋を伸ばし、足を床へ下ろすと、ハートマンの視線と対峙した。
「どこまで話していたかな?」
折り畳み式の携帯端末を畳んで長机の端に放すと、白川と向かい合わせになるように椅子を引き、腰を下ろしつつハートマンは少しだけ気まずそうに聞いてきた。
白い頬に名残を残す皮膚の赤みは、先ほどの怒りのせいだろう。
「ビクトールと話をしてくれないか・・・・・・そこまでです」
ここへ入ってきて、開口一番、ハートマンは白川にそう言った。
次の瞬間、山平相太(やまひら そうた)側から正式にオファーを断られたというフェルナンデス会長の残念な知らせが、彼の携帯電話を鳴らし、会話が途切れたのだ。
そこから約15分。
白川は、ハートマンとフェルナンデスの話が終わるのを、ただずっと待っていただけだった。
「そう、それだ。君さえ良ければ、一度ビクトールから話を聞いてみてほしい」
「はあ・・・」
話を聞けと言われても、何を聞き出してよいのやら。
具体的な指示を待って、白川が返事をしかねているとノック音が聞こえミーティングルームのドアが大きく開かれた。
「監督、ストレッチが終わりました」
「ああ、そうか。今行く」
ハートマンから返事を貰った天龍寺が、機敏にグラウンドへ引き返していく。
また特別メニューのようだ。
「それじゃあ白川、頼んだぞ」
「あの、でも・・・・・・」
上着を取って椅子から腰を上げることで、会話の終了を告げようとするハートマンに、焦って白川も立ち上がる。
「私は君を信頼しているよ。君は仲間を思いやれる優しさを持っている」
日本系自動車会社のロゴ・マークを背中に大きくプリントした黒い上着に腕を通し、ハートマンが笑顔でそう言い置くと、白川の返事も待たず、部屋から出て行った。
呼びかけだけ放った白川のセリフは、宙に浮いたまま放置された。
「何なんだよ・・・・・・」
ほとんど返事を拒絶された状態で取り残された白川は、ハートマンが開けたままにしていったドアの空間を眺めた。
東向きのそこから、まだ日が昇りきらない午前中の日差しが、電気を点けていないミーティングルームを、白く突き刺していた。
白川は外に出る。
見あげる空は雲ひとつない快晴。
今日もチューファの空は、青く美しかった。
怪我の為に昨シーズンを何ヶ月も棒に振った彼は、未だにトップ・フォームが戻っていない。
彼が守る右サイド・バックの定位置へは、最近、カンテラ出身のハビエル・ロドリゲスが立っていることのほうが多くなっていた。
シーズンも半ばを過ぎ、国王杯、ヨーロッパ杯、そして国内リーグと、三つのコンペティションを戦い続けるナランハの選手にとって、コンディションをベストに保つのは、それほど容易ではない。
疲労の蓄積が、小さな怪我を幾つも生み出し、大事故を引き起こす要因となる。
そうならないために、多くのクラブは出来る限り選手のローテーションを使うのだが、それでも万全でない選手がレギュラーから外されてしまうことに、変わりはない。
監督としては当然の選択だ。
だが、選手は心を持った生身の人間である。
出場機会が減少すると、ストレスから疑心暗鬼が芽生え、自分を干している監督が信じられなくなる。
口にこそ出さないが、ビクトールが最近そのことで悩み、ハートマンとしっくりいっていないことに、旧知の白川は気が付いていた。
そして、ハートマンに呼び出された理由がそこにあることを、本当は彼も理解している。
クラブ・ハウスから出ると、白川は少しだけ急ぎ足でグラウンドに向かった。
広告バナーが幾つも貼られたピッチの外には、かなりの見物人が来ていた。
今日は向かいにあるカンテラ用のグラウンドで、ジュニア・チームの対抗戦があるようだ。
ついでにトップチームの練習を見学していく保護者達も沢山いる。
いや、どっちが優先なのかは知らないが。
地元テレビ局のカメラマンが、試合風景を取材している様子が、ここからもよく見えた。
自分たちと同じユニフォームを着た小さなナランハの選手達が、人工芝の上で無心にボールを追いかけていた。
地中海性の温暖な風の流れに乗って、歓声がここまで届いてくる。
肩まで伸びた髪をふわっと撫でられて、白川は心地よさそうに一瞬目を閉じる。
再び行く手へ視線を戻すと、チームメート達は既にフリーキックの練習を始めていた。
事情があって遅れてきたらしい何人かの選手が、まだ隅のほうでストレッチを続けている。
自分もその輪の中に入ろうと、白川は方向転換をした。
途中、フェンスで仕切られた小ぶりなコートの前を通りかかる。
四角い金網の中では天龍寺がハートマンにマンツーマンの指導を受けていた。
少しだけ、胸の痛さを自覚する。
「白川こっち!」
ストレッチ組の中から那智泰綱(なち やすつな)が、大きく手を振ってた。
白川は駆け足で彼に近づく。
「話って何だった?」
腿の筋肉を伸ばしながら、那智が聞いてきた。
ドレッシングルームでハートマンから呼ばれたときに、白川と一緒に着替えていた那智は、彼が監督と話をしていたことを知っているのだ。
「・・・と言っても、大して話してはいないんだけどね」
片足立ちになった那智に肩を貸しながら、事の顛末を白川は説明した。
教えながら、自分もストレッチを開始する。
視界の隅では、フリーキック練習の壁に入っているビクトールが見えていた。
五箇山宗冬(ごかやま むねふゆ)が右脚を振り切ると同時に、6、7枚の壁が一斉にジャンプする。
空中で完全に壁が崩れたのが判ったが、五箇山のシュートも大きくゴールを反れていた。
ゴールマウスに立っているサンティアゴ・ペレスが、随分と暇そうだ。
「カナリア時代からの付き合いだもんな、お前たち」
それほど長くはない話を聞き終えた那智の開口一番がこれだった。
ビクトールの相談相手に、白川が選ばれた理由を、どうやら正確に言い当てられたようだった。
コーチの呼び声が聞こえて、フリーキック練習が終わったことを知らされる。
このあとはミニゲームがある。
白川と那智もそちらに合流しようと、グラウンドの中心に作られつつある輪に向かって歩いていった。
「監督はお前を信頼していると言ったんだろう? だったらお前のやり方で話せばいいんじゃないのか?」
歩きながら那智が言った。端正な横顔は前方の人垣を見つめたままだ。
澄んだ瞳が向けられた先には首里伝鬼房(しゅり でんきぼう)と話をしている五箇山の姿があった。
「悩んでいるのは、そのことじゃないんだけどね」
苦笑しながら後ろを振り返る。
フェンスで遮断された小さな箱の中では、監督と天龍寺が変った戦術訓練に集中している。
知将、戦略家として名高いハートマンの発想は、湧き出でる泉が如くだ。
そしてそれを伝えようとする情熱もまた、尽きることがない。
だからなのだろう、俺はそれを・・・。
「ああ、あの二人。また今日も特別メニューなんだな」
白川の視線に気が付いて、那智も後ろを振り返っていた。
「天龍寺を見ていると、以前のお前を思い出すよ」
昨シーズン、あの箱の中にずっといたのは、白川自身だった。
ミニゲームは練習着のままの黒組と、ビブスをつけた赤組に別れ、ピッチの半分を使って行われた。
ゴールポストが寄せられて、週末に行われるペリコ戦へ召集予定の選手たちが、その中に集まる。
コーチから注意をされる内容は、ここしばらくのアウェイ戦とさほど変わりはない。
早めのプレッシングと、ボールを奪ったら即カウンター。
納得のいかない形で国王杯から敗退してしまった今、ナランハの選手たちにとってリーグ戦にかける意気込みは、以前よりずっと一人一人が強く抱いていた。
赤いビブスをつけたパブロ・サエスの蹴り出しで、ミニゲームが開始する。
白川とビクトールは練習着のままの黒組。
那智はサエスと同じ赤組に分かれていた。
最初はこれまでと変わりのない面子でゲームが進められ、途中からは特別メニューを終えた天龍寺とハートマンも合流し、日曜日のペリコ戦を見据えた具体的な戦術訓練に入った。
ハートマン直々に一人一人へ細かい指示が言い渡される。
白川はビクトールを振り返った。
相変わらず表情は冴えない。
心ここにあらずというほどではないが、あまり練習に集中しているとも思えない。
監督もそれに気づいているようだ。
ハートマンがビクトールの元へ歩いていき、何か言葉を掛けながら、軽く背中を叩いていった。
小休止を挟んでゲーム再開。
グラウンドに飛ぶ監督の興奮した高い声が多くなる。
赤組の五箇山から、バックパスを受けたフローレスのトラップが乱れ、すかさず白川が奪い取る。
振り向いてシュート体制に入ろうとすると、後ろへ下がっていたサエスに、あっさりボールを奪われた。
そのままサエスがドリブルで黒組の首里を抜き、サイドを駆け上がる平等院武蔵(びょうどういん むさし)へパスを出す。
その間にサエスは前方へダッシュした。
ボールを奪ったら、必ずドリブルで一人抜き、それからパス。
先ほどハートマンが全員に出した指示を、サエスはきちんと理解している。
監督が彼を称える声が聞こえた。
白川が後方を見ると、味方のビクトールが平等院の対応に入っていた。
足元が器用な平等院の巧みなフェイントに手を焼きつつも、どうにかクロスのカットに成功したようだ。
こぼれ球を黒組のロベルト阿修羅がインターセプトし、前方へフィード。
白川は、そのままヘディングでシュートを狙えそうなボール目掛けてジャンプをするが、マークに付いて来ていた長身のマウリシオ・ゴンサレスに、高さで競り負ける。
ペレスがキャッチしたボールを再び左サイドへ蹴り出した。
誉められる選手と注意を受ける選手が、はっきりと分かれてきた。
いいところがない俺は、後者だ・・・。
後方でやはり冴えないプレイを続けているビクトールも白川と同じだった。
再び平等院のマークに入ったビクトールが、再びカットに成功。
今度はきれいにボールが奪えたようだ。
監督の指示通りにドリブルへ入ると、五箇山を抜き去る。
それを見て、白川はゴール前へ走った。
ゴンサレスのマークも完全に引き離している。
あとはビクトールからパスを受けて、シュートを狙うだけだ。
だが、右足から繰り出されたクロスは大きくゴールバーを越えて、後ろのフェンスを直撃した。
固唾を呑んでビクトールのプレーを見ていた見学者達から、大きなため息が漏れる。
ビクトールは地面を蹴って悔しがっていた。
側にいた那智が、肩を叩いて声を掛けている。
ペレスがボールを拾いに行き、ゲームが再開された。
首里がそれをカット。
上がったままになっていたビクトールへ声をかけ、ワンタッチでボールを送るが、パスを受ける体勢をまだとっていなかったビクトールが、これをトラップミス。
ボールは再びラインの外へ流れ、ゲームが完全に寸断されてしまった。
ゲームを終えて、何人かの選手たちが具体的なアドバイスを受ける。
ゲーム中に欠点を改善していた白川へは、特に注意らしきものがなかったが、誉められもしなかった。
ケアレスミスがあった以外、守備面で問題はないものの、キックの精度や、ボールのコントロールが明らかに良くないビクトールへも、大した注意はなかった。
本人が自覚していることや、叱ってどうにかなるものでもないことに言葉を費やさないのは、ハートマンの指導方針でもあった。
フリーキック練習の為に、五箇山や左サイドのファビアン・フランコ、センターフォワードのリカルド・アサーニャ、そしてセカンドGKのアンドレス・カルデナスといったメンバーが残っていたが、大半の選手たちはこれで本日の練習は終了。
後はリハビリやマッサージのために医務室へ向かった、サエスやロドリゲス、天龍寺たちをクラブ・ハウスへ残して、試合に備えて帰宅する。
明日はグエルへ移動だ。
駐車場へ向かうビクトールを追いかけて、白川が声をかける。
「メシ行くんだろ? 付き合えよ」
ストライプのコットンシャツに、ジーンズ姿のビクトールが驚いて振り返った。
ただでさえ大きな瞳が、まん丸になっている。
「いいのか? フリーキック練習に参加しなくて」
お前スタメンだろ? という響きが、言外に聞いて取れた。
「俺はいいの。それよりもっと大事な用があるからね」
白川は気易くビクトールの腕を取ると、駐車場の殆ど入り口側に止めてある赤いミニを目指して、すたすたと歩いていった。
「おい、NR2はいいのかよ」
選手専用駐車スペースへ置いたままになっている、スポンサー様提供のピカピカの新車を振り返り、
「いいさ。明日は君が送ってくれるだろう?」
白川が冗談めかして言った。
明るい色に脱色した長い髪が揺れて、整った顔が、柔らかく微笑む。
他意はないのだろうが、白川のこの表情はチームメート達にとって結構目の毒だった。
アイドルタレントめいた完璧な笑顔で見つめながら、日本人にしては強引な態度で迫ってくる白川。
なんと返してよいのか分からずビクトールは目を逸らすと、自分の車だけを目に入れて歩くことにした。
「メシって言っても、一体どこに行くつもりなんだ? それに本当にいいのか? もっと大事な用とか言って・・・五箇山が聞いたら怒るぞ」
ドライバーズシートに座ると、当然のようなタイミングで助手席へ乗り込み、いそいそとシートベルトを締めている白川に少し呆れながらビクトールが言った。
語尾が尻切れトンボ気味に小さくなっていたが、どうやら白川がフリーキック練習へ参加しなかったことを、ビクトールはかなり気にしているようだった。
「ははは、五箇山は厳しいからな」
「いや、そういうことじゃなくて・・・」
こんなことをすると、俺が怒られるんだけど、という言葉は、このチームのアイドルにあっさり聞き流された。
窓枠に肘を突いて、悠然と微笑みながらじっと見つめてくる白川の視線を、なるべく意識から払いのけるように、ビクトールは顔を逸らしてアクセルを踏み込んだ。
車は一般人用の駐車場を通り抜けて、大きくカーブしたスロープを走り上がり、込み合った幹線道路へと入っていった。
「じゃあドイツ料理でいいか?」
「それってノルテ駅付近に新しく出来た、あそこのこと?」
前方から目を逸らさずにビクトールが黙って頷く。
「いいよ。ペリコ戦へ向けて、景気付けにドイツワインで乾杯しようぜ」
おどけた調子で白川が言うと、ステアリングを握る冴えない表情に、ようやく明るさが見えた。
車は市内へ入り、ストップアンドゴーを反復する。
停止を示す歩行者用のシグナルと、隣に表示された待ち時間のカウント。
待ちきれずに車の切れ目を見計らって、器用に車道を横断する老夫婦の姿。
澄み切った青い空と、彼方にぼやける地中海。
たわわに実ったオレンジや青々とした椰子の木の、色鮮やかな街路樹。
どこか長閑な光景に反し、ここで生活している住人はそれほど気長ではない。
シエスタに入った大きなデパートの前で、ウィンドウ越しにブランド服の品定めをしている若者たち。
入り口にシャッターが無情に降ろされている店の前では、良く見かける光景だ。
細く入り組んだ道路を何度か曲がると、やがてノルテ駅のクリーム色をした装飾的な外壁が見えてくる。
車は交差点の手前でエンジンを切った。
「混んでいないといいな」
ステアリングからキーを抜きながら、ビクトールが呟いた。
車は路駐である。
この辺りの路地はどこも、歩道脇は鈴なりの駐車スペースになっており、そのせいで大型車両の乗り入れはまず無理だが、誰も気にする様子がない。
ここの生活を通して大阪人などまだまだ可愛いものらしいことに気が付き、白川はグローバルスタンダードの存在を初めて意識した。
前後とも車間距離を殺された後ろの車両に気が付き、この車に一体どうやって出てけと言うのだろうなどと疑問を感じつつ、白川は先に店へ入ってしまったビクトールの背中を追いかける。
同僚の縦列駐車のテクニックは素晴らしかったが、道徳意識は望むべくもないようだ。
店内は店構えの印象に反して意外と広かった。
天井が高いせいだろうか。
カウンターで給仕をしている初老の男へ、ビクトールが軽く声をかけてテーブルに着く。
よく来ているのだろう。
まださほど込み合ってはいない店内で、空気を揺らすアンバランスな、80年代アメリカンハードロックの「Patience」が、不思議と耳に心地よかった。
ビクトールが適当に見繕ったメニューが、次々とテーブルに運ばれる。
塩気の強いブラートブルストが、赤ワインとマッチしていた。
「次は落とせないな」
カナリア時代によく連れだって足を運んだライブハウスの壊れやすい水洗トイレの話や、代表戦で初対決した時の幻の決勝ゴールが、本当は入っていたか入っていなかったかなど、懐かしいけれどつい熱くなってしまう、しかしすでに何度も語りつくした話題でいつものようにひとしきり盛り上がったあと、話題はどちらからともなく、週末のペリコ戦へと移っていった。
「まだまだ先は長いよ。ここで焦る必要はない。・・・・・・といっても、負けたらキツいのは確かだけどね」
何よりサポーターが承知しないだろう。
軽い調子で白川が言ったが、ビクトールの表情は冴えない。
練習中のときの顔に戻っている。
「・・・膝のことだけど、実のところどうなんだい?」
少しため息をついてから、思い切った調子で白川が聞いた。
今話さなければ、言うときはないだろう。
思いがけない質問を、それも意外な人物から切り出されたとでも言うように、ビクトールが少し驚いている。
彼はおやと、肩眉を上げながら、白川をじっと見つめ返していた。
「あれだけの大怪我だったし、リハビリが終わったとはいえ、トップフォームに戻るまでには、時間がかかるだろう?」
白川は続けた。
「膝ね・・・」
「調子が上がらなくて、不安になっているんじゃないかと思ってさ」
「確かに調子はよくないな」
自嘲気味にビクトールが笑った。
彼は白川から視線を逸らし、テーブル脇に飾られた小さな花瓶のマーガレットを、意味もなく見つめている。
「焦る気持ちはわかるよ・・・でも、もっと気長に構えてもいいんじゃないか?」
ビクトールの考えていることが見えず、口では話し続けながらも白川は段々落ち着かなくなってきた。
目の前で、伏せられたままの長い金色の睫が、少しだけ震えて見える。
「・・・ここのところ、ずっと元気がないみたいだし。ビクトールはそういうこと、全然話してくれないだろう? 仲間が苦しんでいるのに、それを判ってあげられないなんて辛いじゃないか。不安なら不安だと、助けを求めて来て欲しい。そりゃ根本的には助けられないけれど、ひょっとしたら心から不安を取り除くぐらいは、俺たちにだって出来るかも知れない。だから一人で、抱え込まないで欲しいんだ」
「・・・仲間か」
皮肉っぽい声が微かに笑いを含んでいた。いや、嘲りだ。
「可笑しいこと言ったか?」
悪戯に言葉尻だけを捕らえられているような気がして、白川は少しムッとする。
漸くビクトールが顔を上げた。
・・・歪んだ笑顔だ。
「いや、お前らしいと思ってさ。とことんまでの楽天主義。何事も良いように解釈する。悪い側面からは目を逸らす」
「悪かったな」
「俺たちは仲間であると同時にライバルだろ? 皆自分のポジションを守るのに必死だ」
「そりゃそうだけど・・・」
「現に俺は今ポジションを失いかけている。ハートマンの信頼と共にね」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・ほら見ろよ。いくら楽天主義のお前でも否定できないだろう? 膝の靱帯を切った。長期間の療養生活のお陰でベストな状態とはかけ離れてしまった。トップフォームを取り戻すまでには、さらに時間が必要だ。・・・・・・言い訳なんかいくらでも出来るよ。でも現実問題、使えない選手を置いていてくれるほど、クラブは甘くはないんだよ。俺たちはプロだ」
「でも・・・」
「ああ、判っているよ・・・・・・判っているさ」
「ビクトール・・・?」
奇麗事を並べる白川を責めているとばかり思っていたビクトールは、その実、厳しい現実を認めたくはない自分に言い聞かせているようだった。
声は痛々しいものに変わっている。
「誰かのせいじゃない。なのに、思うように動かないこの脚に、体に苛立って、それを指摘してる監督やコーチへカッとなり、気持ちが不貞腐れてしまう。ガキみたいに拗ねたところで、何も変わらないのにな・・・。むしろ扱いにくいヤツだと思われて、自分を追い詰めるだけなのに」
ビクトールが伏し目がちに苦笑を漏らして、ふと顔を上げた。
「・・・白川、お前の気持ちはありがたいよ。卑屈になってばかりの俺には、もったいないほどにな・・・眩しくて。でも、そんな簡単なことじゃないんだ。現実にあのポジションにはハビエルが立つ方が多い。それに嫉妬をするだけの俺は、監督にもすっかり嫌われてしまった。構想外になった俺が次の放出リストに載せられて、厄介払いされるのも時間の問題だろうさ・・・」
自嘲気味に締めくくったビクトールはグラスを呷ると、再び白川から目を逸らした。
「冗談じゃないよ・・・あれだけ心配している人に、そんな言い方・・・」
今まで特に言い返しもせず話を聞いていた白川が、突然反論をした。
大きくはないが、確かに声は、怒りを含んでいる。
ビクトールは驚いて、視線を戻した。
間接照明に照らされた美しい面は、怒りというよりも、むしろ悲しそうに見えた。
「・・・白川?」
「そりゃ俺にはお前の苦しみや痛さが判らないかもしれない。楽天家で、口ばっかりで、・・・お前を苛々させたのは謝るよ。でも本当に心配している人を、貶めるような言い方はするな。・・・厄介払い? あの人がそんな人じゃないことは、カナリアにいたお前なら、よく知っているはずだろう。怪我から復帰をしようと苦しんでいる選手から、目の前のチャンスを奪うような、そんな冷たい監督じゃない。本当に追い出す気なら、不貞腐れているお前のことなんて、さっさと放っておくさ。あの人が・・・ハートマン監督が、ビクトールのことでどれだけ心を砕いているか・・・それが判らないのは、お前が心を閉ざしてしているからだ。そんなヤツに、彼を侮辱などしてほしくはない。・・・・・・気に掛けてもらいたくても、気づいてもらえないヤツだっているんだ」
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