『夕立』
"ねぇ兼陳、こっちは確実な証拠をつかんでいるんだよ?
レッズの来シーズンの監督はセルヒオ・ハートマンだ。"
気まぐれで立ち寄ったクラブハウスの窓から、俺は一人、無人の駐車場を見下ろしていた。
あの日、彼が涙を流しながら去っていった場所を・・・・・・。
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遮光カーテンをきっちりと引いた、薄暗い部屋の中で、お花の髪飾りがどうのと歌っているソプラノボーカルの賑やかな音源を手探りで引き寄せると、俺、白川兼陳(しらかわ かねのぶ)は相手も確かめずに通話ボタンを押した。
「もしもし・・・・」
我ながら酷い声だ。
『感心しないな、君。もう正午を過ぎているぞ』
・・・監督?
「あの・・・、練習は昨日で終わりでしたよね?」
俺はベッドから這い出し、窓の側までヨロヨロと歩くと、カーテンを開けようとした途端に飛び込んできた真っ白な光に、思わず目をギュッと瞑る。
なるほど、これは確かに真昼の明るさだ。
ついでに今日もチューファは晴天らしい。
15センチほどの隙間から差し込んだ陽光を頼りに、続いてデジタル置時計のカレンダーもチェックする。
5月29日土曜日。
・・・・ほら見ろ、やっぱり練習は昨日までじゃないか。
今日から代表召集組以外の選手たちは、堂々とバカンスに入っていいはずだ。
そこまで考えてようやく俺は、昨夜というか今朝まで、本日からラスロサスで合宿に合流するはずの平等院武蔵(びょうどういん むさし)に誘われて、夜通し彼に付き合っていたことを思い出した。
平等院は遅れないで、ちゃんと皆に合流できただろうか・・・・。
『寝起きのところ言い出しにくいのだが、これから出て来られるかね?』
「はい?」
監督に、しっかり寝起きだと見破られていたようだ。
というか、監督が何を「感心しない」と言ったのかと思えば、べつに勘違いで練習へ遅刻したことを責められていたというわけではなく、こんな時間まで俺が寝ていたことを揶揄われただけ、ということか・・・・。
わかってみると、何とも恥ずかしい。
『久しぶりにパエージャを作ってみたのだが、量が多すぎてどうも一人では食べきれそうにない。君、今からウチへ来ないかね? どうせ食事はこれからなのだろう』
「ええ、まあ・・・っていうかパエージャ、・・・ですか?」
監督が?
奥さんがじゃなくて?
たしかに単身赴任中の監督の場合、夫人がわざわざラストロからやって来て、昼食を作る可能性は低いのだけれど。
『20分程で出来あがる。来るなら急いで来たまえ』
行っても大丈夫なのかなぁ・・・。
キーをポケットへ入れっぱなしにしていた、昨日のジャケットをそのまま羽織り、外へ出る。
ポケットがいつもより嵩張っている気がしつつ、ガレージまで来てみて、その理由が判明した。
「あちゃあ〜・・・しまった」
目の前に停車してある、自分のものではない空色のBMW。
しでかしてしまったうっかりのあまりの大きさに、俺は額を手で打った。
「アイツ、どうやって行ったんだろう・・・他に車持ってたか?」
ポケットの中にはキーが2つ・・・叩いてみるたびキーが・・・増えるわけではない。
いや、そもそも俺は叩いていない。
童謡の歌詞のようなむちゃくちゃな言い訳を、誰かにしてみるまでもなく、この事態の原因ははっきりしている。
ひとつは俺のNR2のもの。
もうひとつは目の前のBMWのものと、体長10センチぐらいのクラブマスコット付きキーホルダー。
こんなものが入っているのだから、ポケットが嵩張る筈だ。
昨夜俺は練習帰りに、平等院の車で彼と海へドライブに行った。
そのまま朝まで過ごし、疲れてスヤスヤと眠ってしまった平等院を自宅へ送り届けたはいいものの、俺の車は練習場に放置したままだったから、勝手に彼の車で自分の家に帰って来ていたのだった。
俺は平等院が車を何台持っているのかまでは正確に把握していないが、大抵このBMWか、スポンサーから貰った車に乗っているし、そっちはこの間、どこかで擦ったと言っていたような気がする。
・・・修繕から戻って来ていればいいのだが。
ふと時計を見て迷った。
一先ずBMWを平等院の家へ戻し、・・・・いらっしゃればだが、御家族にキーを預けて、そこからタクシーを拾う。
「どうかなさったんですか? 今日は練習ないでしょ?」
というような運転手からの質問を適当に交わし、さらには代表召集されなかったことへの憐みの視線に耐えながらアスレホの練習場で降りる。
そこから駐車場で自分のNR2に乗り換えて、監督の家へ・・・・などとやっていると時間がかかるし、なにより面倒だ。
大体、車を返したところで平等院もとっくに空港へ向かっていないといけない時間だろう。
平等院、悪いがもう1回だけ借りるぞ。
心の中で持ち主に断り、俺はガレージへ停めてある空色のBMWのドアを開けた。
ここからセルヒオ・ハートマン監督の家までは、車で10分もかからない。
大通りへ出て、トゥリア川沿いに少し北上する。
途中で大きなデパートへ立ち寄り、酒を買って行くことにした。
まあ、監督の家にも沢山あるとは思うが、手ぶらで行くのはさすがに気がひける。
デパートの駐車場へ入ったところで、携帯電話のメール着信音が鳴った。
みっくみくにされる前に音を切る。
五箇山宗冬(ごかやま むねふゆ)からだった。
『話は平等院から聞いたぞ。帰ったら覚えとけ』
何処まで聞いたのか知らないが、おそらく平等院が五箇山に送ってもらったのではないかということと、無事に合流できたらしいことだけは、なんとなくわかった。
間に合ったのなら、こちらもひと安心である。
メール本文である脅迫が、少々気がかりではあるが、・・・まあ、それはおいおい対策を練るしかない。
リカー売り場で適当にワインを見繕い、さっさとレジへ向かう。
幸い、さほど込んではいなかった店をあとにして、今度は一路、監督の家へ向かった。