「意外と早かったね・・・・おや?」
オレンジ色のエプロン姿という、なかなか見られない格好をしているハートマン監督が、玄関のドアから顔を覗かせる。
一歩外へ踏み出し、スポンサー社製の紺色のセダン、アヴァンセの隣に俺が入れたBMWを見つけて、彼が器用に片眉だけを上げてみせた。
「あ、ちょっとわけがあって、借りているだけです・・・・」
「誰も盗んだとは、思わんよ。・・・・入りたまえ、ちょうどパエージャが出来たところだ」
監督はエプロンを外しながらドアを開放して、俺を招き入れてくれた。
ダイニングからは食欲をそそる美味しそうな匂いが漂っている。
テーブルの上には木台の上に載せられた大きなパエージャパン。
赤い持ち手が付いている底が平らな黒い鍋に、サフランで黄色い色を付けられた粒の大きなチューファ米。
その上にはエビやイカ、ムール貝、レモンなどが美しく盛り付けられ、白い湯気をもうもうと立ち上らせている。
俺は今しがた買ってきたピエモンテ産のワインを、袋から取り出してテーブルへ置くと、示された椅子に腰をおろした。
「ご招待ありがとうございます。・・・・でも、どういう風の吹き回しですか?」
さっそくワインの栓を抜いてグラスに注いでくれる監督を見上げながら、俺はあまり可愛くない質問をぶつけていた。
なにしろ、短くはない付き合いの中で、こんなことは初めてだったのだ。
不思議に思うのは当然なのだが、この質問はあっさり無視された。
俺は差し出されたグラスを受け取り、監督が向かいの椅子に腰掛けるのを待つ。
「乾杯」
互いにガラスの縁を軽く擦り合わせ、白ワインを口へ運んだ。
ジジロッソ・ガヴィのさっぱりした味わいが舌の上に広がる。
促されて、俺はさっそく監督の手料理をプレートに取った。
「始めにことわっておくが、最後に作ったのは、3年前だ」
「さ、・・・・3年前ですか?」
正直に白状する監督の言葉に、一瞬フォークを持つ手が止まった。
やはり来るべきではなかったか・・・・?
ところが俺の戸惑いなど意にも介さず、・・・・もしくは、気づかなかったらしい彼が、パクパクとパエージャを食べ始める。
・・・結構美味しいのかも?
空中で3秒ほど停止していた最初のひと掬いを、俺も口へ運んだ。
米は形が少し崩れていたが、味はかなり良い。
「以前はもっと頻繁に作っていたんだけどな。どうしても一人だと、外食ばかりになってしまう・・・・そうは思わないかね?」
なるほど。
ましてやパエージャなんて、まず一人前で作りはしないだろう。
俺も友人が遊びに来たり、家族が来ていなければ、1日中外食なんてザラだ。
監督もラストロにいた頃には、休日の昼は家族のためにパエージャなんかを作っていたんだろうか・・・オレンジ色のエプロンをつけて。
「それとも君は、誰かが君のために料理を作って待っていてくれたり、・・・あるいは君が作ったりしているのかい?」
「んっ・・・・!」
突拍子もないことを言われて、俺は口へ入れたばかりのムール貝の実を、そのまま飲み込み喉を詰まらせかけた。
慌てて水で流し込み、しばらくナプキンで口元を押さえながら、その場で噎せる。
「大丈夫かね?」
前を見ると、監督が可笑しそうに目を細めている・・・・。
「・・・揶揄わないでください」
「べつに揶揄ってなんかいないよ。・・・むしろ君の年頃なら、そんな相手の一人や二人・・・・はマズイな。決まった交際相手がいても、不思議なことではないと思うが・・・女性に限らなくてもね」
その言葉に、俺は少しだけ恨めしい思いで監督を睨んだ。
彼は相変わらず可笑しそうに、俺を見ている。
「・・・意地悪ですね」
俺の気持ちは、知っているくせに。
「意地悪だったかね?」
監督が緑色のボトルを持って、口をこちらへ向けてくれた。
俺は手元のグラスが空になっていたことに気づき、ステムを持って差し出した。
薄い色の液体がそこへ満たされる。
「どうも今回は失敗だったようだね」
「はい?」
「パエージャだよ。見てごらん、米が潰れて、まるでリゾットのようになっている」
監督が鍋からスプーンでひと匙掬い、少しこちらへ向けて顔を顰めた。
「水加減でしょうね。お米の種類や乾燥具合によって若干変わりますけど、スープの量を最初1.2倍ぐらいにしておけば、どんな米を使っても多すぎることはないです。それにスープは足りないようなら途中で足してもいいので、予め大目に作っておけば、失敗することはありませんよ。あと、炊きむらが出来ないように、パンを水平にして、米を平らにすることです。でも、味はこのぐらいが美味しいと、僕は思うんですけど・・・」
エスパニア、それもチューファはパエージャの故郷だが、実は外食で食べるパエージャはどれも今イチだ。
美味しいパエージャを食べたいなら、誰かの家で御馳走になれ。
昔、日本で読んだどこかのガイドブックには、そんなことが書いてあった。
来てみると、本当にその通りだとわかったので、だったら自分で作ってやると思い立って以来、俺も工夫をしながらちょくちょく作るようになっただけなのだが。
それにしたって日本人の俺が、ハーフとはいえ国籍がエスパニア人の監督にパエージャ作りを講釈するとは滑稽だ。
味付けや盛り付けは、俺よりずっとセンスがいいし、こういうものはたぶん一朝一夕に外国人が真似できるようなものではないのだろう。
サフランのいい香りがついた具を米ごと口へ運び、なんとなく気恥ずかしくなって監督から目を逸らす。
「なるほど、参考になったよ。では今度、ぜひ君が作ったパエージャを食べさせてくれるかい?」
冗談か本気か、監督がそう言ってくれた。
「そうですね・・・・まあ、近いうちに」
途端に、昨日の記者が言っていた言葉が、頭を過ぎる。
"レッズの来シーズンの監督はセルヒオ・ハートマンだ。"
「私も、以前はこんな失敗もしなかったんだがね・・・少なくとも、教えてくれたエスパニア人の母は、近所でも屈指のパエージャ自慢で・・・。どうかしたかね?」
不意に監督から指摘されて、俺はフォークを持つ手が再び止まっていることに気が付いた。
「あ、いえ・・・」
「あまり食がすすまないなら、無理しなくていいぞ。・・・もっとも監督としては、君にはもっとカロリーを摂ることを勧めるが」
「そんなんじゃありません」
「なら、どうした。顔色が優れないように見える」
とうとう監督もフォークを置いた。
逃げられない状況だった。
「・・・僕が作ったパエージャを食べていただくとしたら、急がないとダメですよね」
俺はプレートに半分ぐらい残った料理を見つめながら言った。
「何を言っている?」
「だって・・・、そうしないとイングランドまで作りに行かないといけなくなるかも知れない・・・。それとも、その時にはあなたが来てくださいますか?」
「兼陳」
困惑した声で名前を呼ばれた。
「・・・すいません、差し出がましいこと言っちゃって。気にしないでください」
俺は再びフォークを取って、パエージャを食べようとした。
だが、それは監督の手によって止められた。
「監督?」
フォークを持つ手に、こちらへ身を乗り出していた監督の大きな掌が重なっている。
「君が誰からその話を聞いたのかはわからない。だが、私に何が起きようと、この先の人生から君が消えることはない。少なくとも、私はそう信じている」
俺は驚いて顔を上げる。
彼の強い眼差しが、まっすぐに自分を見つめていた。
その言葉を信じて、今すぐ縋りつきたくなる衝動をぐっと堪える。
俺は目を逸らした。
「気休めを言わないでください」
「なぜそう思う?」
「だってそうでしょう? あなたが幾らそれを望んでくれても、先方のクラブが僕を受け入れることは考えにくい・・・事実、僕のところに、そういうオファーは一切来ていません。それに・・・、仮にあなたが僕をカナリアFCから連れてきてくれたように、他のクラブへまた連れて行ってくれたとしても、今度はご家族もいらっしゃるでしょうし、そうしたらもう二人きりでこういう時間を過ごすことは・・・・」
そこまで言いかけて、慌てて口を噤んだ。
クソッ・・・、こんなことを言うつもりじゃなかったのに。
アルコールで滑らかになりすぎたお喋りな舌を呪い、俺は自分の失言を恥じた。
実力を棚に上げて、自分の契約のことばかり気にしているだけでも、じゅうぶん格好が悪いのに、あろうことか家族を持つ身である彼との関係についてまで、こんな弁えない言葉を吐いてしてしまうなんて、とんだ恥知らずだ。
俺って最低じゃないか・・・。
甲にかかったままの彼の手に、少しだけ力が込められているのを感じる。
また監督に気を遣わせてしまっている。
顔から火が出そうだった。
居たたまれず、席を立つ。
「兼陳?」
「すいません、ちょっと酔ったみたいです」
「ならソファへ案内しよう」
監督も後を追うように席を立つと、こちらへ回って来て、手を差し伸べてきた。
俺は思わずその手を払いのけた。
「あっ・・・」
「兼陳」
しまったと思ったが遅かった。
監督が目を見開いている。
「あの、すいません。でも許してください・・・これ以上あなたに、醜い自分を見られたくはないから・・・失礼します」
赤くなって、青くなって。
今の俺は、とても酷い顔をしているはずだ。
髪で顔を隠すように俯いて、ダイニングから出ようとする。
だが足早に近づいてきた監督が、背後から長い腕を伸ばしてきた。
「監督・・・」
ウェストに回された力強い腕を引き剥がそうとして、その手をさらに上から押さえ込まれる。
後ろから覆いかぶさるようにして、監督が首筋に唇を押し付けてきた。
息を呑む。
「兼陳、帰るな」
強く抱きしめられる。
「やめてください、・・・揶揄わないで」
「なぜそう思う? 一体どう言えば、君は私を信じてくれるんだ?」
項へかかる息が熱かった。
薄いシャツ越しに感じる彼の体温と、僅かに背中へかけられている体重を感じ、もっと触れたいと求めそうになっている自分がいる。
見透かされるのが怖くて身を捩り、必死で彼の腕から逃れようとした。
けれど。
「放してください。あなたがこんなこと、しちゃいけなっ・・・・」
言葉の終わりは、口付けによって切り取られていた。
「・・・・!?」
頭が混乱した。
振り払おうとしていた腕は、身体ごと押さえ込まれ、髪を鷲掴むように後頭部を押さえていた乱暴な掌が、キスを強要していた。
意識を持っていかれそうな深い口づけの中で、初めてこの人と交わしたときのことを、ぼんやりと思い出す。
叶うはずもない思いを抱え、泣きじゃくる俺を宥めてくれていた監督。
顔が近づいてきた気配を感じ、偶然を装って、無理やりファーストキスを成立させた・・・。
あの一瞬が、その後の辛く苦しい恋を耐える俺の支えになった。
「どうして・・・・」
ようやく解放された呼吸の中で、息が乱れ、力の入らない声が、そう尋ねていた。
ショックで緩んだ涙腺が、彼の輪郭をぼやけさせる。
「それはこっちのセリフだ。どうして君は逃げようとする? そんなに私が怖いかね? ・・・私は君に傍に居て欲しい。君にもっと触れてみたい。それは私の欲張りでしかないのか? 君は以前に私を好きだと言ってくれた・・・・それはもう、心変わりしてしまったということなのかね?」
せつなくなるような、掠れた声で聞いてくる合間にも、唇を何度も押し付けられた。
違う・・・そうじゃない・・・。
あなたの傍にいたい。
あなたに触れられたい。
心変わりなんてするわけない・・・ただ。
怖いのはあなたじゃなく、あなたに溺れそうになってしまう自分。
キスは湿った音を立てながら唇から、耳朶、首筋、鎖骨へと下りてゆく。
たくし上げられたシャツの裾から、あっという間に忍び込んで、敏感な皮膚の上を彷徨っている掌。
俺は快感を刺激され、身体を震わせる。
「これまで君には、出来る限り紳士的に振る舞ってきたつもりだったが・・・・どうやら私もずいぶん酔ったみたいだ。今はとても、自分を抑えられそうにない」
そう言ったのを最後に、彼は俺を引き摺るように歩かせてリビングへと移動すると、一気にソファへ押し倒してきた。
圧し掛かってくる体重と、押し付けられた腰の感触に、身体の芯が熱くなる。
監督が、俺に欲情している・・・。
「君が欲しい」
耳元で囁かれ、思わず目を閉じた。