「少なくとも俺は、自分が今誰と話しているのか、間違っちゃいないぞ」
弄んでいた携帯電話をパタンと閉じて、ジャージのポケットへ突っ込みながら、厳島は言った。
「まあ・・・そりゃあ、そうでしょうよ。あなたが春日甚助と僕を間違える筈がない」
「比べるつもりもないぜ。・・・俺だけじゃなく、きっと皆も、監督もな」
「・・・春日は、あんな酷いミス、しないでしょうしね」
「そうかもな。けど、誰だってミスはするだろ。春日もな。アイツのミスのお陰で慌てさせられて、ピッチの上で俺が怒鳴り散らしたことなんて、数えきれないぞ」
「・・・そうなんですか?」
「当たり前だろ、チームメイトだったんだから。逆に俺が仲間から怒鳴られたこともある。・・・というか、その方が間違いなく多いな」
厳島がニッと笑った。
精悍な浅黒いスキンヘッドの面が、妙に人懐こく感じられる。
こんな顔をして、この人は普段笑うんだ・・・。
「慰めてくれているんですか?」
「そういうわけじゃないんだが・・・・それとも、たとえばベッドあたりでもっと優しく慰めてほしいのか?」
ほんの一瞬前まで親しみ易かった優しい笑顔が、目の動き一つで淫靡に変わった。
「そんなこと言ってないでしょうっ!」
僕は大いに焦る。
どうせ、本気で言っているわけがないのに・・・。
「ははは・・・まあ、実際にやっちまったら、イバンを泣かせそうだからな。・・・なあマヌエル、俺達が戦っている舞台はけして甘くはない。ラナは今シーズン降格しちまったが、エスパニア・リーグはたとえ2部でも、十分厳しいカテゴリーだ」
「それはわかってます」
2部BのブランコBは、プレイオフまで行きながら、何度もその壁に泣かされている。
そこは僕も、よくわかっているつもりだ。
「おまえは周りの目を気にしている暇なんて、本当にあるのか?」
「・・・どういう意味ですか」
「ポスト春日だろうが、メディアがお前にどんな渾名をつけようが、サポーターがブログでどれだけこきおろそうが、いちいち気にしていたら、きりがないってことだよ。・・・まあ、人の目が気になるっていうのも、お前が若い証拠なんだろうけどさ。けど、俺達は一人ひとりが1部復帰の命題を抱えていて、サポーターの期待を背負っている。そして他の21チームの選手やクラブ関係者達も、全員が同じ緊張感を持って戦っているってことを、けして忘れちゃいけない」
「僕には、覚悟が足りないと仰るんですか・・・」
「そこまでは言っちゃいない。それに、お前にとって始まったばかりの2部は、今のところ経験上、最高カテゴリーだろ?」
「はい・・・」
「だったら、ショックが大きいのは仕方がないし、俺だってエスパニアへ最初に来たとき、同じような衝撃を受けたさ。これでも日本じゃ、スター選手の一人だった筈なんだがなぁ」
「JPLの諏訪戸で殆どベンチだったと聞いていますが」
「・・・・ったく、誰が教えたんだよ。油断ならねぇな」
「そんなの、人に聞くまでもないですよ」
厳島のことなら、テレビで熱いそのプレーと、端正なルックスを見た瞬間から、すっかり僕は彼のファンだった。
ファンならネットや雑誌で調べまくるのは当然だ。
「まあいいや。・・・なあマノリート、俺とひとつ約束しないか?」
「約束?」
「ああ。次の試合でゴールしろ」
「無茶な! 僕はフォワードじゃないんですよ?」
ピボーテはピッチの中盤で、攻撃と守備のバランスを取るポジションだ。
状況に応じて攻撃参加もするが、敵の攻撃を寸断し、時に激しくボールを奪い、味方のチャンスへ繋げることこそが、僕らの大事な役割だ。
ゴールを入れることは、主たる仕事ではない。
「俺もゴールする」
「厳島さん・・・?」
彼はセンターバック。
文字通り、味方ゴール前を鉄壁に守り抜く、フィールドプレーヤーの最後列。
「お前は確かに、今日の試合でミスをした。そして俺もミスをした。だったら、次の試合で取り返せばいい・・・そうじゃないか?」
ラナの次なる対戦は、明後日のSVヴェルシュ戦。
オーストリア2部リーグの中堅クラブチームが相手なので、FCローズブル・ザルツァッハに比べたら、いくらかそれらしいゲームが出来るだろうし、ゴールチャンスも増えるだろう。
とはいえ、ゴールの約束なんて・・・。
「今のラナFCの8番はマヌエル・プラネスだろ。俺達のピボーテなんだろ、お前は?」
「厳島さん・・・」
僕が返事を出来ずにいると、厳島は、口元を歪ませて苦笑した。
さすがに無茶を言っていると、気付いてくれたようだった。
今の僕に、そんな軽はずみな約束はできない。
あなたの期待を、裏切りたくはないからこそ。
「ま、焦る必要はないさ。まだプレシーズンが始まったばかりだからな。ぼちぼち行こうぜ」
そう言って僕の隣を通り過ぎ、彼はバスから出て行こうとした。
目の前を、長身の美しい東洋人が通過する。
僕も席へ戻ろうとした。
不意に、肩へ手が置かれて、行く手を阻まれる。
「えっ・・・・・」
「俺はお前を信じている」
振り返った僕へ、彼の顔が急接近したかと思うと、一瞬だけ頬に触れて、すぐに離れていった。
風のようなキスだった。
彼は僕に背を向けると、あっという間にステップを駆け降り、リズミカルな足取りでバスから出て行こうとしていた。
僕は咄嗟に彼を追い、ステップを駆け降りる。
「・・・約束します!」
長い影をこちらへ伸ばして、アスファルトを歩く足が、5メートルほど前方で立ち止まった。
「・・・・・・・」
振り向いてくれる様子はない。
笑っているのだろうか。
それとも驚いているのだろうか。
彼がどんな顔をしているのか、僕にはわからない。
「・・・だから、あなたも約束してくれませんか? 僕がゴールしたら、今度はほっぺじゃなくて・・・」
言い終える前に、厳島が再び歩き出してしまった。
トイレを目指していると思われる方向へ向かって、背の高い後ろ姿が離れて行く。
不意に、ポケットへ入れていた右手が肩の高さまで上がり、指を広げた手の甲がヒラヒラと空中で踊った。
辺りには誰もいないところを見ると、それは僕へ向けたサインのようだった。
ばいばい・・・それとも、オッケーという意味に取っても、いいのだろうか。
少なくとも拒絶ではないと、信じられる。
僕はその後ろ姿が、建物の中へ消えるまで、じっとそこに立って見送っていた。
やがて、幹線道路を行き交う車のエンジン音に混じり、聞き慣れた声が耳へ飛び込んでくる。
「マノリート、探したよ〜!」
両手いっぱいに買い物袋をぶら提げ、ショッピングモール側から自慢の俊足で戻って来るイバン。
「良い物見つかった?」
左右にお菓子だの料理酒だのを詰めたナイロン袋を持ったまま、どうやら館内で僕を探しまわっていたらしい。
僕が笑顔で出迎えてやると、イバンもいつもの無邪気な笑顔に戻り、元気にこちらへ手を振りながら走って来た。
大きな箱が入っている透明袋が、ゆらゆらと左右に揺れている。
「あのね、ザッハトルテ買ったから、一緒に部屋で食べようよ!」
「それはありがとう。・・・でもケーキ買ったのに、そんなに走って大丈夫なのか?」
不思議に思って僕が尋ねると、イバンが大きく目を見開いた。
「・・・・あーっ!!!!」
その夜、箱の中で見る影もなくなった名物菓子の残骸を、僕らは二人で突いて食べた。
04
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