『雨の夜に』

 

チューファの街外れにある小さなバルは、平日夜の静けさに加えて、霧のように降り続く戸外の静かな雨を流し込んだかのように、淋しい空気を漂わせていた。
古ぼけた調度品と、5人も立ち並べば一杯になる小さなカウンター。
掠り傷だらけの木目の上に、何本目かのビール瓶が現れる。
「帰らなくていいのかい?」
馴染みのマスターが銜え煙草のままで、俺、春日甚助(かすが じんすけ)に聞いてきた。
火のついたフォルトゥナの先から、細かな灰が、彼の足元へ少し落ちる。
俺はクラブのスポンサーでもあるメーカーのビールを、瓶ごと呷るとゴクリと喉を鳴らした。
その様子を見てマスターが、世話が焼けるとばかりに未使用のグラスへ手を伸ばし、口を上へ向けて、目の前に置き直してくれる。
「ねぇ、最近セルブロは来てないの?」
茶色い瓶をカウンターへ戻して、かつての同僚の事を聞いた。
「あいつは今エイバールだからな・・・だいいちお前さんと一緒じゃなきゃ、こんな肩身の狭い店へはわざわざ来ないよ」
Blanquista(レアル・ブランコ・サポーター)丸出しな店内装飾のこのバルは、確かに入店するために相当の度胸が求められるのだろう。
チューファという街が、アンチ・ブランキスタ(アンチ・レアル・ブランコ)だらけだと、よく知らないうちから俺は通っていたから、後で知らされて焦ったものだ。
「そう、来てないんだ。なんだ、つまらない・・・飲みに来て損しちゃった」
用無しの烙印を押されてクラブを追い出されたにも拘わらず、俺にとってレアル・ブランコは、今でもどこか特別な場所だった。
だから、セルブロ・アイレスと郊外へ買い物に出かけた休日、帰り道に偶然この店を見つけた瞬間、何も考えずに飛び込んだ。
俺と同じでブランコのカンテラ育ちの癖に、今思えば、確かにあのときセルブロは、店に入るのを少し躊躇っていたような気がする。
アスルグラナとのクラッシック・ダービーが世界的に有名であるグエルとラストロのような、はっきりとした関係ならともかく、それ以外の対立形式というのは、未だに俺はきっちりと把握できていない。
しかしエスパニア人にとっては、わりと常識的なものなのかもしれない。
「おいおい、店の主人の前で、なんてことを抜かしてくれるんだ」
おどけた言い方のマスターの言葉を聞きながら、俺はゆっくりと首を巡らし、いつ来ても変わらぬ店の雰囲気を楽しんだ。
一つだけ置かれたテーブル席。
その隣の壁に飾られているのは、パネルに収められた、7回目のヨローパ・チャンピオンズ・リーグ優勝記念に作られたらしい、レアル・ブランコのエスクードをあしらった青い特大フラッグ。
別の壁際には、かなり年季の入ったサッカーのテーブルゲーム・・・片方の選手たちのユニフォームは、もちろんブランコの白で、他方は青と赤・・・ここは当然アスルグラナだ。
残念ながら、ラナFCではない。
そして、今さっき俺が入ってきた、蝶番がかなり五月蝿い木製のドア・・・。
はめ込まれたガラスの向こうに、プジョーの黒いステーションサゴンが、オレンジ色の照明の下でボンネットを光らせて停まっている。
「とっとと謝っちまったほうが、お前さんの為じゃないのか?」
せっかく俺が無視を決め込んでいた、さきほどまでの話題を、マスターがわざわざ蒸し返してきた。
咄嗟に俺は、後ろのテーブルへ視線を走らせる。
4人掛けの席には、中々ハンサムなビジネススーツ姿の東洋人が一人。
ジャケットに光る丸い社章は、有名な日本の建設会社のもの・・・たぶん日本人だろう。
見たところせいぜい25、6歳のようだが、日常の疲れが溜まっているのか、ややくたびれて見える彼は、この30分の間ずっと、両手で抱え込んだ携帯端末へ向かい、ぼそぼそとした声で言いわけじみた文句を並べ続けている。
ときおり感情的に高くなる言葉を掻い摘んで判断してみると、どうやら携帯回線の向こうにいるのはハビエルという名の彼の愛人で、なかなか彼の離婚協議が解決しない為に、すっかり臍を曲げてしまっているらしい。
薬指に未だに結婚指輪を光らせている男が相手では、しがみつくだけ時間が無駄だと、ハビはいい加減に気付くべきだろう。
余計なお世話はこのぐらいにして・・・、彼が俺たちの会話に気づいている様子は、たぶんない。
サッカーには無関心で、ひょっとしたら俺が誰なのかもわかっていないのかもしれない。
「何があったかは知らないが、やっぱりクラブのお偉いさんに暴力を奮うのはマズイ。大人の喧嘩ってのは、手を出した方が負けなんだ。素直に謝るより他に道はない」
俺は東洋人をもう一度振り返った。
大丈夫、聞いていない。
我知れず、ほっと胸を撫でおろす。
こんなところを地元の人間に見られるのは、少々恥ずかしい。
カウンターの奥にある、グラスやボトルがみっしりと並んだ、ガラス扉付きの茶色いキャビネット。
じっとりとした夜の雨に二つのライトをぼんやり光らせながら、戸外に停車しようとしている1台の車を目で追いつつ、重い口をどうにか開く。
「そりゃ、俺だって・・・」
無意識に出て来た自分の言葉が日本語であったことに気付き、慌てて言いなおそうとしたその瞬間、背後の扉から誰かが入ってきた。
「いらっしゃ・・・おやおや、どうやら姫君のお迎えが到着したようだな」
マスターの視線の先を追って、俺は入り口に立っている男を振り返り、次に深く溜息をついた。
「アンタか・・・」
俺の言い種にスキンヘッドの長身の男は、浅黒い顔を苦笑させると、ジーンズの後ろポケットから財布を取り出しながら言った。
「ウチの不良がいつも迷惑掛けちゃってすいません、今連れて帰りますんで・・・お代いくらですか?」
「いいよ、馬鹿! 自分で払うから」
俺は厳島景政(いつくしま かげまさ)に財布を仕舞わせると、慌てて自分の財布から数枚のコインを取り出し、カウンターへ叩き付けて、先に店を出た。
「そこでストップだ、お嬢さん」
路駐のプジョーに指先をかけた俺の手首が、後ろから強くつかまれる。
反射的に振り払い、その勢いのままに俺は殴りかかろうとした。
「誰がお嬢さんだよ!」
しかし、繰り出した拳は大きな手中へあっさり吸い込まれてしまう。
厳島の掌が、すっぽりと俺の手の甲を包み込んでいた。
「はいはい、悪かったな。じゃあ、酔っ払い坊主。・・・酒気帯びどころじゃないだろ、今は。また捕まりたいのか? 言っとくがウチはブランコじゃないんだから、揉み消しなんて出来ないぞ? しかもお前は昨日、会長を殴ろうとしたんだ。クラブに守ってもらえると思うな」
「嫌味を言いに来たのか? だったら帰れよ。アンタも殴るぞ?」
俺は厳島の手を振り払い、左手で彼のTシャツの襟首を掴むと、もう一度拳を構える。
だが彼は微塵も動こうとはせずに、ただ不敵な笑みを浮かべて俺を見下ろしていた。
「ほう、面白い・・・。ただし、このあとはお前か俺の部屋でやってくれ。ここじゃ人目についてしょうがない。俺は誰かと違って、酔っ払い運転だの、暴力沙汰だのでゴシップネタにされる趣味はないんだ」
そう言うと俺の手首をつかんで、胸元から引き剥がし、そのまま強引に引っ張って道を歩き始めた。
「好きでネタにされているんじゃ・・・痛っ・・・何するんだよ、放せって・・・」
自分の車まで俺を引き摺ってきた厳島は、助手席を開けると、荷物のように俺を中へ押し込み、問答無用とばかりにシートベルトで括りつけてきた。
急激な圧迫に、一瞬、胃の中の物が逆流しそうになる。
「ほら、大人しくしろ」
「く、苦しいって・・・」
バタンとドアが閉じられて、厳島が運転席側へ回り込む。
その隙に脱出を図ろうとした俺は、一足先に車へ乗り込んで来た彼により、今度は横から腕を掴まれた。
「つまらない真似をするな」
「嫌だっ、放せよ・・・!」
厳島は右手の力だけで俺を押さえると、再びシートベルトをガチャリと締め、さっさとエンジンをかけた。
車が急発進して、俺は思わず口元を抑える・・・吐く。
いい年をして、何て運転だ・・・!
思わず目蓋を閉じて、不安定に揺らぎ始めた景色を視界からシャットアウトすると、俺はグッタリとシートに凭れた。
深夜の時間帯へ入っていた道路は幸い閑散としていたようで、信号以外はとくに渋滞で捕まることもなく、車はスムーズにチューファ市内の中心地らしき方向を目指して走り続けていた。
カーステレオもつけていない車内は会話もなく、静かなものだ。
ときおり目を開けると飛び込んでくる、規則的なオレンジ色の道路照明灯。
徐々に眠気が勝ち始め、意識へぼんやりと霞がかかる。
しかし、トゥリア庭園の緑地帯らしき茂みが強化ガラスの向こうに見え始めた頃、不意に厳島がこう言うのを、俺は聞いたような気がした。
「俺のことを殴るってさっき言ったよな・・・返り討ちにされたくなければ、今のうちに撤回しとけよ。俺はお前を10秒でノしちまえる自信がある」
だが、アルコールが頭に回り始めていた俺は、間もなく意識が途切れ、それが現実に聞いた言葉か、レム睡眠中に俺の大脳が作り出した妄想なのかは、はっきりとしなかった。



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