厳島がラナFCへ移籍した1年後、太陽電光FCはクラブ解散となり、俺はエスパニア北部の町にある、SDアルメロスで1年間プレーしたのちに、ラナFCで再び厳島の同僚となっていた。
そして当時、太陽電光で主将を務めていた玉川政志(たまがわ まさし)は、かつて厳島が在籍していたガイア諏訪戸へ移籍し、2年間をJPリーガーとして、素晴らしい活躍をしたものの、太陽電光時代に患った膝の故障が悪化して引退。
その後はガイアでコーチを務めたりもしていたが、今ではJPLを中心にサッカー中継の解説をしたり、雑誌やスポーツ新聞にコラムを書いたりしている。
昨年からはエスパニア・リーグの中継にも、ときおりゲスト出演するようになっていた。
そんな玉川がチューファにやってきていると知ったのは、今朝のこと。
知り合いのスポーツライターから聞いたという俺の携帯番号へ、本人自ら連絡をくれたのだ。
「急に呼び出したりして、悪かったな」
約束をしていたノルテ駅付近にあるバルの玄関前で、律儀にも俺を待っていてくれた玉川は、注文した生ビールを受け取ると、微妙な顔で笑った。
再会を喜ぶ気持ちと、当日になって呼び出したことを、本当にすまないと思っているような、誠実な人柄を感じさせる、微かな笑顔だ。
「お会い出来て嬉しいですよ・・・まあ、いきなりマニセス空港から電話っていうのは、確かにびっくりしましたけど。今回はやっぱり、テレビ取材ですか?」
海外ローミング設定になっていたらしい玉川の携帯からは、チューファ訛りのエスパニア語による空港アナウンスが、ひっきりなしに聞こえていた。
「ああ。来週の放送で流すインタビュー素材だ。本当はもう少し早くこっちに着いて、チューファ・ダービーもライブ中継したかったんだけど、諸事情あってなあ」
そう言うと、玉川はバツが悪そうな顔をしてあらぬ方向を向いた。
「まあクラッシック・ダービーと重なっちゃったら、そりゃあ仕方ないでしょう。チューファ市内ですら、日曜はクラッシック・ダービーの中継をするバルと半々ぐらいだったらしいですから」
「そうなのか? ・・・それは、ちょっと厳しいな」
「ええ、結構厳しい現実です」
FCアスルグラナとレアル・ブランコは、エスパニア・リーグでもっとも有名な名門2チームであり、その二つのクラブが対決するクラッシック・ダービーが盛り上がるのは当然だ
世界中のテレビ局がこの試合をライブ中継するのは、言うまでもない。
だから、偶然にも同じ時間に重なってしまったチューファ・ダービーが後回しにされたのは、日本のテレビであれば仕方ないだろう。
しかしチューファにおいては、街を代表する二つのクラブ・チームが雌雄を決する大事な一戦なのだ。
1年でもっとも盛り上がるべきダービーが地元で優先されなかった事実は、プレーヤーとして軽んじてはならぬ事態である。
俺達には、その恥辱を噛み締める責務があるだろう。
その原因は、建て前はさておいて、現実的には、ラナがナランハへ未だ肩を並べるに値せず、脅かす気迫さえ感じさせないことにつきる。
あるいは、『一矢報いるかも知れない』というならば、少なくとも地元のバルは、こぞってチューファ・ダービーにチャンネルを合わせたであろう。
だが、一矢報いるかも知れないだけでは、他に視聴率や集客力を内包する人気カードがある場合、それをおしのけるほどのパワーがあるとまでは言えない。
事実、日曜日のエスタディオ・デ・チューファでは、カルロス・フローレスの短気を上手く呼びこめたお陰で、後半開始早々、人数により勝ることができた俺達が、直後のPKで点差をつけ、その後は恥も外聞も無い死に物狂いの守備により、1−0を守り切った。
ハードであったし、けっして痛快とは言えないかもしれないが、勝ちは勝ち。
俺達はナランハから、ダービーで3ポイントをもぎ取ったのだ
そしてスタンドのサポーターに、お祭り気分を味あわせてやることが出来たことは、素直に嬉しい。
しかし振り返ってみれば、開始時間が重なってしまうと、この街においてさえ、未だチューファ・ダービーの方が軽くあしらわれていた。
それが現実だったのだ。
「それにしても、厳島は随分と変わったな」
タパスの酒蒸ししたムール貝を口へ放り込むと、玉川は穏やかな笑顔でそう言った。
「厳島さんと、もう会われたんですか?」
「ああ、ここへ来るちょっと前にな。ええと・・・気付かなかったか? いちおう練習も見ていた・・・とは言っても、終わる直前に到着しただけだが」
「マジですか!? それならそうと、声ぐらいかけてくれても・・・でも、本当に気付かなかった。テレビカメラなんて、どこにあったんだろ」
「ああ、いや違う・・・今日は完全にプライベートだ。ちびっこ達に混じって見てたよ」
そう言うと玉川は悪戯っぽく笑って見せる。
それならば、声でもかけてもらわないと、さすがに気付かないだろう。
練習を見学するファンは、常時50人を下らない。
多い時には200人以上いる。
目を輝かせて声援を送ってくれる子供達に混じって、30代の玉川が立っていたとしたら、一見したところ恐らく保護者の一人ぐらいに考え、大して注意も払わないことだろう。
「まったく・・・人が悪いですね」
こっそりと見られていたのだと思うと照れくさかった。
変なミスをやらかしはしなかっただろうかと、数時間前の自分を思い起こす。
「厳島が、あんな顔をして笑っているのを、俺は初めて見た気がするよ」
ふと、隣の男がそう言って振り返ると、玉川はなんとも言えない複雑な表情をしていた。
言われてみると確かに、太陽電光にいた当時の厳島は、ずっと近寄りがたい存在だった気がする。
傲慢で人を寄せ付けず、孤高の存在。
そして俺にとっては、近づこうと必死に追いかけた、憧れの人。
そんな人が、今では当たり前のようにみんなと笑って、当たり前のように俺の傍にいる。
彼が変わるきっかけは、やはりこの街でありラナFCにやって来たことだろう。
ラナFCという、居場所を見つけ、プライドを自信に変えた・・・俺が、彼を追いかけてそうしたように。
「そうですね・・・たしかに。・・・・ええっと、俺、何か・・・」
確かに、今の厳島はよく笑う・・・そう言って同調しようとした俺は、隣の玉川を振り返り、意外な表情とぶつかった。
悔しそうな、痛ましいような震える感情・・・。
そんなものを、玉川の下瞼に深く刻まれた皺へ見付けたような気がしたが、それは一瞬で消えてしまい、穏やかな笑顔がすぐに蘇る。
目の下の皺はそのまま、優しい眼差しが静かに俺を捉えて。
「いや・・・お前は変わらないって思ってさ」
気のせいか。
「成長がないって意味ですか? これでも俺、今はキャプテンなんですけど」
心に引っ掛かりを感じたままグラスを呷りつつ、明らかな揶揄へ軽く応酬する。
「前も今も、石見は可愛いって言っているんだよ」
「可愛いって・・・28の男を捕まえて言う言葉じゃないでしょう」
「そうかあ、早いなあ。高校卒業したてだった石見が、もう20代も後半なんだな。そりゃあ俺が三十路を越えちまうわけだ」
そう言うと玉川も、軽快に笑って手元のグラスを空にした。
そうなのだ。
玉川はまだ、30を少しばかり超えただけでしかない。
それでいて、既に現役を引退し、一緒にプレーしていた俺達を、取材する立場になっている。
彼が引退したのは、今の俺よりも若い年齢だ。
俺と同じように、・・・いや、当時主将だった彼は、俺以上に太陽電光の昇格を目指し、JPリーガーになることへ情熱を燃やしていた筈だ。
太陽電光は解散の憂き目に遭ったが、それでも玉川は本来の夢を叶えてJPL入りを果たした。
その矢先におきた古傷の再発。
穏やかな男は、激しい感情の浮き沈みをけっして露わにすることはないが、葛藤がないわけではない。
共に太陽電光のグラウンドでボールを追いかけ、JPLを目指したかつてのチームメイト達が、異国で新しいユニフォームに身を包み、あるいはすぐ隣で、未だ現役選手としてグラスを傾けていて、平気な筈はないだろう。
それでも玉川は、後悔や泣きごとを絶対に口にしない。
彼の穏やかな気質によるものなのか、玉川の凛とした生き方がそれを許さないためなのか・・・いずれにしろ、目の前の男から、俺はそんな姿を到底思い描くことが、できそうになかった。
あの夜の彼が、そうだったように。
「送別会のこと、覚えてますか?」
互いに新しいビールを注文する。
既に3杯目となったアルコール成分により、いくらか滑らかになっていた俺の口は、深く考えもせずに、心へ浮かび上がった居酒屋の記憶に促されるまま、そんなことを言いだしていた。
「厳島の見送り会のことか?」
玉川も記憶もまた、俺と同じ時間軸へとすぐに重なった。
呼び方は違えど、俺達にとって、共通の送別会だの見送り会と言えば、その主役は厳島でしかありえない。
翌年に、太陽電光FCは解散となったのだから、ともに見送った相手といえば厳島ひとりしかいないからだ。
解散時にも飲み会は開かれたが、それは複数の仲間が会社を後にするためのものであり、そのときには玉川や俺もまた、見送られる側にあった。
名目上は、『慰労会』と名前が付けられていた気がする。
心に、あの雨の夜が静かに蘇る。
辛く苦い、嵐のような激しい感情を伴って。
玉川もまた、同じなのだろうか・・・それは俺にはわからない。
「監督が店を出られたあと、酔っぱらった先輩達が厳島さんを悪く言われて、ちょっと変な雰囲気になっちゃったじゃないですか」
アルコール成分に促されるまま、俺はあの夜の出来事を口にした。
「そうだったかな」
変わらぬ穏やかな玉川の声が、受け流すような応答を軽く返してくる。
隣で中サイズの生ビールをぐいっと煽る気配を感じつつ、俺は話を続けた。
玉川のペースが、いくらか早くなっているように感じた。
「あのとき、俺は厳島さんのことが気になりつつ、先輩達を止める勇気がなくてオロオロしてばかりで・・・でも、玉川さんが一喝してみんなを止めてくれたんですよ」
「当時お前は、まだ、未成年のガキだっただろ。あいつらにどうこうしろって言えなくても、当然じゃないか」
綺麗に空けたらしい3杯目のグラスを、トンと音を立てつつカウンターへ戻した玉川は、着ていたジャケットのポケットをまさぐりながらそう返してくれた。
玉川らしい、優しい反応だと思った。
「でも玉川さんが皆を止めてくれなかったら、どうなっていたかって思うと・・・だから、俺は本当に玉川さんに、感謝しているんですよ」
そう言いながら隣を振り返ると、煙草の先に火を点けている見慣れない姿に気が付いた。
引退して煙草を吸うようになったのだろうか。
それとも、当時から喫煙していただろうか・・・俺の記憶は曖昧だ。
俺と目を合わせることなく、玉川は一服目の煙を吐きだしてから、口元を軽く歪ませる。
苦笑のようだ。
「俺が厳島を庇ったことで、お前に感謝されるのか・・・お前が厳島を好きだったことに気付かなかったわけではないが、改めて聞かされると痛いもんだな」
そう言うと、玉川は再び、さきほどと同じような複雑な表情になる。
苦しいような、痛々しいような・・・彼は何に苦しめられているのだろうか。
「あの・・・玉川さん・・・」
「言っておくが、あのことで俺が、お前に感謝される筋合いはない」
「えっ・・・」
「俺があのとき、あいつらを止めたのは、単純にキャプテンの責任感に駆られてのことだ・・・・いや、違うな。みんなと一緒になって、厳島を罵る勇気が、俺にはなかっただけだ。責任感ですらない」
「・・・・・・」
「俺は、思った通りのことを口にしたり、行動へ移すのがあまり得意なほうじゃない。いつだって周りの目が気になって、上司や監督にどう思われるか、自分に何が求められているのか、そんなことばかり考えて、言いたい事の半分も言えない臆病者だった・・・今もそうさ。こうして酒の力を借りなければ、こんなことでお前を相手に愚痴を言うなんて、できはしない」
「玉川さん・・・」
初めて知る、玉川の意外な告白を、俺は聞かされていた。
頼れる先輩であり、責任感の強い太陽電光FCの主将・・・そんな男の、見えなかった素顔。
いや、俺が見ようとしなかっただけ・・・そうなのだろう。
「いつだって厳島が憎かったよ」
「・・・・・・」
「好きな事を言って、したいように振る舞って・・・敵は多かったが、間違いなく一番輝いていて、誰もがあいつに目を奪われていた。未だにお前が、そうしているみたいにな」
「あの、それって・・・」
俺が・・・どうしているというのだろうか。
「それにしても、数年ぶりに会って、正面からいきなり罵倒されるとは思わなかったよ」
「はい?」
言われた真意がわからず、問いかけようとした俺の質問は、再び明るい調子を取り戻した玉川の、話題転換と共に宙へ浮いた形となっていた。
隣では先の短くなった煙草の火種を、アルミの灰皿へ押し当てている男がいる。
その目元には、やはり深い皺が刻まれてはいるが、表情は何かを思い出して笑っているように見えた。
9年も昔の、悪天候の思い出話は、これにて終了・・・おそらくは強制的に、そう仕向けられたのだろうと俺は悟る。
「改正著作権法がどうのこうのって言っていたな。・・・なあ、石見、お前はなんの話かわかるか? 」
それが、ここで彼と落ち合う前に、練習前のロッカールームで厳島と交わした会話の内容だと気が付いて、俺は呆れた。
厳島はどうやら、チューファ・ダービーの録画を思った形でコピーできないことについて、なぜか玉川を責めるという、意味不明の暴挙に出たようだった。
「本当に、すいません・・・・」
とりあえず俺が謝ると。
「だから、お前がどうして謝るんだよ・・・まったく、妬けるな」
なぜか玉川はそう返してきた。
そして、そのときの厳島が9年前と違って、明るく楽しそうであり、相変わらず馬鹿だったのだと、どこか寂しそうに言葉を続けた。
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