深く透き通った藍色の空に、煌々と輝く満月と冬の星座を見付けつつ、俺は路地の曲がり角を入っていく。
あれから1時間ほど玉川と話したあとで、携帯のメアドを交換したのちに、俺達はバルをあとにした。
駅からさほど遠くない、旧市街の老舗ホテルに泊まっているという玉川を、ホテルの玄関まで見送った俺は、巡回バスで最寄りの停留所まで移動し、トゥリア庭園を10分ほど散策しながら帰路へ着いていた。
漆黒の闇ではないものの、時刻はすでに10時近く、練習後の腹にタパスとビールだけではさすがに空腹が満ちたとは言い難い。
女房は子供を連れて帰省中であることから、どこかで腹ごしらえをしなおそうかと考えつつも、遂に俺は自宅のあるピソの前まで歩いて来てしまっていた。
「あれ・・・?」
石畳の路地に見慣れた車を見付けて、俺は首を傾げる。
そして、うっかりと忘れていた約束を思い出したころ、車の陰からのっそりと立ち上がる人影が俺を振り向いた。
「こんな時間まで、どこで何をしていた」
スキンヘッドの頭から、今にも湯気を立ち上らせそうな厳島を宥めつつ、俺は玄関を入り自宅へ男を促した。
リビングのソファを指し示しながらテレビの電源を入れた俺は、続けてリモコンを操作する。
「すぐにファイル転換してコピーしますから・・・ええっと、その間何か飲まれます? コーヒーかビールか・・・ああ、車だから酒は不味いですね。それと俺、夕飯がまだなんで、冷凍ピザでも食べようかと思ってるんですけど、よかったら一緒に召し上がりますか?」
続いてノートPCを起動しつつ厳島に聞いてみると。
「ビールでいい。録画は一緒に見たらいいだろう。ピザは食う」
明快な回答が立て続けに返ってきた。
「いや、ビールは不味いでしょ。っていうか、これ見てたら遅くなりますし・・・じゃあ、ピザ2枚温めますね」
「お前に犯罪行為をさせるわけにいかない」
立ち上がってキッチンへ向かおうとしていた俺は、その場で立ち止まり、背中に投げかけられた厳島の言葉の意味を、暫し考える。
間もなく合点がいった。
改正著作権法について、まだ気にしているらしかった。
「ああ、その件でしたら大丈夫です。あれは親告罪なので、被害者が訴えない限り立件できないんですよ。ここには俺と厳島さんしかいないですし、俺が厳島さんへ違法に複製した映像メディアを渡したとしても、それをテレビ局から訴えられる可能性は、ほぼないですから・・・」
現実的と思われる妥協策を、俺は提案したつもりだったが。
「そういう考え方は良くない。強姦も親告罪だが、女が恥ずかしがって訴えなければ、やっても構わないとお前は言うつもりか?」
なぜか俺の道徳心について、厳島から問題を指摘されて茫然とする。
そして俺は起動したばかりのPCを、黙って終了させると、HDDの録画再生ボタンだけ押してキッチンへ引っ込んだ。
親告罪の捉え方について問題提起してくる一方で、車で来ているくせにビールを呑ませろと言ったり、改正著作権法について玉川へ見当違いな言いがかりをつけていた厳島の規範意識というか、モラルの匙加減については、さっぱり理解できなかった。
従来通りにDVDディスクにコピーして渡すという手もあったのだが、なんだかもうどうでもよくなっていた。
本人がここで見ていくというのだから、別にそれで構わないだろう。
もっともこの時間から二人で見るとなると、CMスキップを使ったとしても、終わるのは1時近い。
どう見ても今夜、この家には俺以外に誰かがいるように見えないだろうし、厳島はこのまま泊まっていくつもりなのだろう。
そう考え、俺は言われたとおりに二人分のビールとピザを用意することにした。
画面の切り替えが早い番組のオープニングテーマが流れ、続いて見慣れた司会者とゲスト解説者の姿が映し出される。
ここから30分は、各チームの戦力分析や、注目選手の特集といった紹介コーナーだ。
冷凍ピザの封を開けて電子レンジへ放り込みつつリビングを見ると、ソファの上に片膝を引き寄せながら、真剣な顔で画面を注視している、厳島の整った横顔が見えた。
テレビではナランハの那智泰綱(なち つなやす)の活躍が、華々しく流れている。
試合はどうやら、前節レアル・ビーゴ戦における、那智の素晴らしいゴールシーンのようだった。
司会のアナウンサーがしきりに、『ラザニアの秘蔵っ子』という言葉を多用して、ファンの興味を掻き立てようとしているところが、俺にはあざとく感じられた。
昨年のシーズンオフにマスコミを騒がせた、那智のイングランド移籍騒動と、ラザニアの記者会見における、彼に向けた愛情溢れる心情の吐露、そしてそれに呼応して終息させたような那智の残留劇は、確かにドラマティックであった。
しかし事あるごとに、必要以上に仲を勘ぐられ、ない腹を探られるのは、はっきり言って迷惑以外の何物でもないだろう。
もちろん、勘ぐられる仲も、腹積もりもないのであるならばだが、あればあったで、別の意味で迷惑に違いはあるまい。
日本のテレビ局が特集を組み、下世話な興味を煽ってまで取り上げた那智自身はというと、一昨日、結局ベンチから一歩も出ることがなかった。
怪我をしているという話も聞かないし、おそらくは単なるローテーションの問題だ。
盛り上げられた那智ファンの気分は、持って行きどころも無く、深夜にさぞかしストレスを溜めたことだろう。
期待を込めたピックアップ特集だった筈だが、ライブ中継というならまだしも、録画放送で出場しなかった選手をわざわざ取り上げるというのは、上手い構成とは言えまい。
単純に収録日時の問題とわからなくはないのだが、もう少しどうにかならなかったのだろうか。
「お待たせしました。マルゲリータと玉ねぎとアンチョビのコカ、切ってあるんで適当に摘まんでください。今トルティージャも温めてるんで、あとで持ってきますね。ビールどうぞ」
そう言って栓を抜いてある瓶とグラスを差し出した。
「うん、悪いな」
「どういたしまして。長いですね。試合まで飛ばします?」
俺はリモコンを手にとって厳島に確認する。
漸くナランハの特集が終わり、クレジット会社のCMを挟んで、番組は引き続きラナの特集へ入ろうとしているところだった。
まだ15分はこれをやる筈だ。
「いいや、構わん。今、チンて言ったぞ」
俺はリモコンをテーブルに戻すと、キッチンへトルティージャを取りに行く。
テレビでは衛星中継で出演していたらしい、グエルのテレビスタジオにいる玉川が、俺や厳島の元同僚としてスタジオからインタビューを受けていた。
トルティージャに何カ所か包丁を入れ、無意識に割り箸を添えてリビングのテーブルへ運ぶ。
「御手元ってお前・・・」
ぼそっとした突っ込みがあって、俺は改めて自分がしたことに気が付いた。
「ああ、すいません」
しかし厳島はそれ以上何も言わず、箸袋から取り出してパキンと割ると、素直にトルティージャへ箸を伸ばした。
よくよく考えてみれば、これもまた冷凍食品だったとはいえ、伝統的エスパニア料理に割り箸はなかったかも知れない。
とはいえ、うちでは夫婦箸はもちろん、女房が常時、食器棚へ客用の割り箸も欠かしたことはなく、メニューがエスパニア料理だろうがイタリア料理だろうが、利便性が優先されてテーブルに箸が用意されることが珍しくない。
それが日本人の性というものだと俺は思うが、厳島家ではそうでもないのかもしれない。
テレビではJPNFL時代の映像が流れ、恥ずかしくなるほど若い自分の顔や、瑞々しい厳島や玉川の姿を見せられる。
よくぞこのようなVTRが残っていたものだと感心する一方、なんとなく気になって厳島の表情を窺うが、相変わらずクスリともせず、画面に集中しているだけだった。

俺はいつだって、厳島が憎かったよ・・・。

ふと、夕方に玉川から聞かされた意外な彼の本音を思い出し、俺は胸にモヤモヤとした感情が沸きあがって来るのを意識した。
俺と会う少し前に、玉川はこの厳島とも話をしていたのだ。
玉川からは、厳島に見当違いな因縁を付けられたとしか聞かされていないが、二人は一体どのような話をしたのだろうか。
いや・・・あくまでサッカー番組のレポーターとして、おざなりなインタビューが、そこにあっただけに過ぎないのかもしれないが。
「あ・・・」
取り皿に箸を置いた厳島が、瓶に手を伸ばし、中身が空になっていたことに気が付いて小さな声を出す。
「ビール取ってきますね」
俺も箸を置いてソファから立つとキッチンへ戻り、冷蔵庫から冷えたビールを一本取り出してから、買い置きが切れていることに気が付いた。
「ビールが切れたんで、ちょっと買い出しに行ってきます」
取り敢えず手にしたビールをリビングのテーブルに置くと、俺は厳島に声をかけ、財布を持って外へ向かう。
ピソの玄関を出て、いつもの癖で、近所にある顔見知りの酒屋へ向かいかけてから、そこで足を止めた。
うっかりしていたが、この時間に酒屋が開いているわけはなかった。
時計を確認し、俺は歩く方向を変えながら、上着を探る。
すぐに携帯を忘れていることに気が付いた。
行き先を変えるので、帰りが少し遅くなると報告しに、一旦家へ戻るべきだろうか。
しかし、いつでもコンビニで酒が帰る日本とはわけが違う。
最寄りのスーパーには幸いなことに酒コーナーがあり、23時まで営業していて大変便利だが、すでに閉店まで20分を切っている。
悩んでいる時間はない。
俺は駆け足になると、そのまま表通りを目指した。
レジを閉めかけている顔見知りのラナサポーターに笑顔で話し掛け、一瞬だけ困った顔を見せられたものの、彼は笑顔を返しながら、俺が持ってきたビールと、ついでに見つくろった摘まみのチョリソーやナッツ類、スナック菓子のバーコードを読み取って精算をしてくれた。
次に来るときには、パルコ席のチケットでも持って来てやるべきだろうかと悩みながら帰路へ着く。

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