車は幹線道路へ入ると、俺のピソがあるチューファ郊外の住宅街へ向かって走る。
ひっきりなしに後続車が、車線を変えて追い越して行ったが、それでもイバンが制限速度を超えることは一度たりともなかった。
俺も今朝は、怪我のせいで急ブレーキに心配があったために、かなりゆっくりとした速度で運転してきたが、イバンはそれ以上の安全運転だった。
ちなみに彼が、毎朝何時に家を出ているのかは知らないが、現在のラナで今のところ唯一遅刻ゼロの優等生だ。
ただしイバンのせいで会社に遅刻をしたと文句を言いたい短気なエスパニアのサラリーマンは、この界隈に結構いるような気がするが。
まあ、セーフティードライバーの彼にケチを付ける方が間違っていることぐらいはわかっているのだが・・・ぶっちゃけ、空腹も手伝って俺もカリカリしている。
気分を変えるために、遅くなりすぎた昼食は何を食べようかなどと、わりとどうでも良いことを考えながら、窓の外へ目を向けた。
澄み渡った春色の明るい空と、ゆるやかに窓の外を流れゆく街路樹のパームツリー。
お祭りによる交通規制も今日からは完全に解除され、チューファの街は日常の平穏を取り戻していた。
しばらく走ると、未だ、たわわに実をつけているオレンジ畑と陶器の原料になっている赤土のパターンが、山の麓へかけて延々と広がり始める。
色鮮やかなこういった景色は、俺が生まれ育ったシェレスの街とは、また違った趣がある。
隣に座っている、のんびりとした男を育んだ、カナリアの島の風景とも、きっとずいぶん違うのであろう。
「でもさ、本当によかったよ」
「え?」
不意に口を開いたイバンの横顔を振り返る。
俺より少し高い位置にある、若く精悍な顔立ちの凛とした目元は、フロントガラスを見据えたまま。
そして信号待ちで静かに停止した次の瞬間、優しい表情が一瞬だけこちらへ向けられる。
「君はもちろん、もう御免だと思っているだろうけど、俺だって君がふたたび怪我で苦しむ姿は見たくないからね」
「ああ・・・」
ファジャスに盛り上がるチューファで、隣のクラブはフエラで行われた試合の為に街を留守にしていた。
したがって守護聖人を祝福すべきこの週末、ラナはチューファっ子の期待を一身に背負う立場となったのだ。
エスタディオ・デ・チューファにやって来たのは、俺のかつての同僚たちである、ブランキアスルB。
苦しみながらもどうにか勝ち点3を手に出来たこの試合、チームはフィエスタへ水を差すことなく、勝利の歓喜で飾ることに成功したが、俺は一人、スタジアムのクリニックで、再び訪れるリハビリ生活の恐怖に怯えていた。
それは2−2で迎えた試合終了10分前のこと。
正倉院久安(しょうそういん ひさやす)が繰り出したロングフィードを足元に収め、ゴール前へ走る東寺へ向けてセンタリングを入れようと右足を振り上げた瞬間、俺は太腿に強烈な電撃を食らったように感じた。
そして古傷の再発を自覚して、俺はそのままピッチへ蹲ってしまったのだ。
昨シーズンの怪我とまったく同じ場所。
7週間も俺を試合から遠ざけた右のハムストリング。
今から7節・・・それは、一部復帰を天命としたラナの重要な残りのシーズンを、ほぼ棒に振ることを意味している。
痛さと恐怖で目の前が真っ暗になった錯覚に襲われ、俺は立ち上がることも出来ず、いつのまにか用意されていたストレッチャーへゴロンと転がりこんで、ピッチをあとにした。
医務室のベッドへ横たわり、チームドクターのイスマエル・メルロ先生は俺の脚を曲げたり伸ばしたりしながらこう言った。
「静かにしろファンリータ、そんなにお祭りへ行きたいのか?」
それはその夜、イバンが不可解な2枚目のカードを出されたときに、抗議する俺へむけて主審のペレス・ゴンサレスが皮肉った言葉、そっくりそのままだった。
一晩明けた今日の午後、念の為に病院で検査をしてもらった結果は、幸いにもスタジアムで触診をした先生が言った通り。
MRIでも血腫は見つからず、軽度の肉離れと診断されて、テーピングをして帰された。
この2日間は安静にして、しばらくリハビリをやれば2週間ほどでチームへ戻ることができる。
病院からスタジアムまで俺を送り届けてくれたメルロ先生が、車を駐車場へ入れながら、不意に何かへ気が付いたようにこう言った。
「遅くなったから、このあとメシにでも連れて行ってやろうと思ったが、どうやらその必要はなさそうだな」
何のことかと思い、前を見ると、同じくハムストリングに違和感を感じて、念のためにエコーを受けに行っていたイバンが、一足先に戻って駐車場にぼんやりと立っていたのだ。
「で、おまえはどうなのよ・・・大丈夫なのか?」
あくまで安全運転を心がけているイバン。
病院から戻った彼が、フィジコと今後のリハビリメニューについて軽く打ち合わせを済ませてからトレーニングルームを出てみると、イバンの鞄を預かって待ち合わせていた筈のマノリートは消えており、待ち合わせ場所のロビーには、なぜか守衛が彼の鞄を持って立っていたのだそうだ。
返してもらった鞄からは車のキーが抜かれており、まさかと思い駐車場へ出てみると、車も消えていたらしい・・・っていうか、これは立派な泥棒じゃないのか?
途方にくれていたイバンを、どういうわけか俺と待ち合わせていると勘違いしたメルロ先生の言葉が、さきほどのもの・・・というわけだ。
さらにメルロ先生が続けて言った言葉は、俺を最高に赤面させてくれた。
「イバンに何か美味い物でも奢らせてやれ。どうせファンリータのことだから、昨夜から心配で碌にメシも食ってないんだろう? あれだけ泣き喚いたんだ、さぞかし腹が空いてるだろう」
まったくその通りだった。
痛さと、精神的なダメージで食事はおろか、昨夜俺はまともに眠ることさえできなかったのだから・・・・ひょっとしたら、だからイバンは運転を買って出てくれたのだろうか。
いや、マノリートに車を持って行かれた・・・彼の言葉を借りれば、貸したのだと言っていたから、それは違うか・・・。
「大丈夫だよ。週末はどうなるかわからないけど、きっと来週には試合へ戻れるんじゃないかな。少なくとも、ファンラが戻ってきたときには、ちゃんと左サイドかトップ下にいるようにするから安心して」
似合いもしないウィンクを送って来たイバンは、後ろからのクラクションに慌ててアクセルを踏み込み、とっくに青になっていた交差点を前進した。
ちなみに2週間前のカナリア戦で右足首を痛めた左サイドのナチョ・マルティネスは、この試合も大事をとって休んでいた。
正確には休まされていたのだろう。
彼は今、ブランキアスルから戻って来いと誘われており、現在残留争い中のブランキアスルB戦にナチョは召集から外されたのだ。
レンタル契約があるクラブ間の対戦時に当該選手を出場させない契約をすることは少なくないが、俺にもナチョにもそういう制限はない。
だから、これは完全なラナ側の独断だ。
つまり、来シーズン、ナチョはブランキアスルへ戻る可能性が高く、その際にラナが、たとえば新たな選手の獲得などで有利な交渉をするために、配慮をしたということだ。
ナチョがラナにとって不要ということではない。
ただ、ラナには今イバンがいて、彼が十分に左サイドで機能しており、仮にイバンがいなければ俺も左サイドができないわけではない。
逆にラナは、相変わらず決定力が弱く、それであれば左サイドを1枚外して、フォワードを新たに獲得すべきとクラブが判断するのは仕方のないことだろう。
「左サイド・・・ね」
何気なく俺が繰り返すと、イバンは暫く沈黙した。
皮肉に聞こえたのだとすれば不本意だったが、結局俺も何も言わなかった。
正直に言えば、ブランキアスルのカンテラからずっと一緒にやって来たナチョとの別れを予感させるような会話は、俺にとって気分がいい話ではない・・・・イバンには、何の恨みもないけれど。
気不味い空気を癒すように、カーステレオのFMから明るいポップミュージックが流れ始めたことが、少し救いだった。
03
『ナランハCF&ラナFCシリーズ』へ戻る