「少し、休憩する?」
湖の上で、不意に質問を受けた。
俺、石見由信(いわみ よしのぶ)は、色褪せたストレートジーンズの膝を軽く曲げた姿勢で、対面に座っている男へ視線を合わせる。
同時に、物思いに耽っていた意識を、この湖上における彼との空間へ引き戻した。
いつの間にか水音がパタリと消え、湖のまん中でボートが止まっていたことにも遅れて気付く。
オールを手にしたまま静止している彼、正倉院久安(しょうそういん ひさやす)の表情は、独特の困ったような笑みを湛えて、俺に向けられていた。
「あ・・・ごめん、疲れたなら変わるよ」
「そうじゃないけど。・・・ひょっとして、日差しが暑いのかな、なんて思って。なんだか口数が少ないし」
交替の申し出を断られ、そして指摘されて気が付いた。
腕時計の針は正午を過ぎており、それは正倉院と二人でボートに乗って、そろそろ30分が経過することを意味している。
その間彼はずっとオールを握っており、ボートの中で彼と会話をした覚えはなく、ずっと俺は湖上で沈黙を保っていたということだ。
自分から彼を湖へ誘っておきながら、さぞかし傲慢で無愛想な態度に見えたことだろう。
おまけに余計な気まで遣わせていたようだった。
「そういうわけじゃないんだ、ちょっと考え事をしていただけで・・・なんか、心配させたようで申し訳ない」
元々、正倉院は、登山だかトレッキングだかマウンテンバイキングだか何かで、東寺達とキッツシュタインホルンへ行く約束をしていたところを、予定を変更して俺に付き合ってくれていた。
その結果がこの仕打ちとは、酷い話だ。
「だったらいいんだよ。・・・まあ、でももう少しだけ君と話が出来ると、確かに嬉しいかな」
そう言って、正倉院が笑いながら、少し恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「気をつけるよ。・・・今更なんだけど、君を誘ってしまって本当に良かったのかな。正倉院も東寺さんたちと一緒に、マーモットやアルプスサンショウウオを、見に行きたかったかったんじゃないの?」
「アルプスサンショウウオなんているんだ・・・」
「うん。ヨーロッパ唯一の胎生の両生類で、普通のサンショウウオは卵を産むけど、アルプスサンショウウオは2匹の子を産むだけでなく、その胎児を3年間も母胎で育てるんだ。面白いよね」
「へぇ・・・相変わらず、ゲテ・・・いや、珍しい生き物に造詣が深いんだね・・・サソリだけじゃなかったんだ」
「そんなことないよ、俺なんて全然・・・正倉院に比べたら。ただアルプスサンショウウオは標高3000メートル以下の森等と言った湿地に生息しているらしいし、所詮小さな生き物だから、注意してないと会えても見逃すかもね。その点、ハイキングコースにいるようなマーモットだと、人慣れしていて、巣穴から出て来てくれたりすることもあるらしいよ」
「俺に比べたらっていう意味が今いちよくわからないんだけど・・・・まあサンショウウオはともかく、マーモットは確かに見たかったかな。でも、俺には高山帯の珍しい動物よりもっと大事なものがあるからね。だいたい東寺さんは、世話好きなのはいいんだけど、ちょっと空気が読めてないっていうか・・・」
そう言いながら正倉院が、肩を揺らせながらクスクスと笑う。
「ははは、確かにファンラはナチョと二人きりの方が良かったと思っているだろうね。でも、それなら尚の事、正倉院が一緒に行って、東寺さんをどこかに連れ出してやれば、その間彼らは二人きりになれたかも知れないのに・・・と、俺が言うのも変なんだけど」
そう指摘してやると。
「となると、その間は俺が東寺さんと二人きりで過ごすのかい?」
正倉院の声に多少の勢いが付いた。
どうやら異議があるらしい。
「そういうことになるね・・・そこで美しい山並みを眺めているうちに、新しいロマンスが生まれるかも?」
わざと恋の予感を肯定してやる。
「冗談じゃないよ! 俺にだってプライベートを二人きりで過ごしたい相手がちゃんといるっていうのに・・・だからこうして・・・」
正倉院は興奮気味に言いかけた言葉を不意に切った。
俺は即座に降参する。
「あははは、ごめんごめん。そういえば正倉院には、美人の彼女がいるもんね」
一度だけ俺は正倉院の部屋で、チューファへ来る前から彼と付き合っているらしい、エスパニア人ではなさそうなブロンドの美女と遭遇したことがあった。
一見プライドが高そうに見えたが、訪ねて来た俺に遠慮して部屋を辞したあたりを見ると、中々奥ゆかしい女性のようだった。
「いや、彼女の事を言ってるわけじゃなくて・・・もう、いいよ」
そう言うと正倉院はなぜか俯いてしまった。
唇が少し尖っているように見えるから、何かが気に障ったようだった。
俺が揶揄ったのが気に入らなかったのだろう。
そういえば本人から、その後一向に彼女の話を聞かないのだが、二人は上手くいっているのだろうか。
「ああ・・・言いすぎたかな、ごめんね。・・・とりあえず、そろそろどこかへ入ろうか」
「うん、そうだね。じゃあ、ボートを戻すよ。メインストリートのレストランでいい?」
そう言うと正倉院が再びオールを回してボートの角度を変えようとする。
ここからだと公園らしき森の方が近く、船着き場までは、さっさと漕いでも20分ほどかかるだろうか。
俺は少し腰を浮かせると、もう一度正倉院の方へ手を差し伸べた。
「せめて帰りだけでも交替するよ」
「いや、構わないよ、それより危ないから座って・・・」
言いながら正倉院がギョッとした顔を見せた。
同時に、回転しかけていたボートがグラグラと揺れて、体勢が崩れた俺は真正面から正倉院へ覆いかぶさるように倒れていた。
「あ・・・」
「石見っ・・・ちょっと・・うわっ」
俺に圧し掛かられた正倉院が、思いのほか大きな驚きを見せて、咄嗟に両腕で俺の身体を支えようと試み、次の瞬間、左に右にボートが水面で踊り出して、バランスをとれなくなった俺達は、とうとう湖に投げ出された。

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