「ごめん・・・大丈夫?」
「うん、・・・石見は?」
「平気・・・びしょびしょだけどね」
幸い水深は腰より上が浸からない程度だったが、それでも背中から落ちた俺は全身が、俺の上から落ちて来た正倉院も両腕と胸から下がすっかり水浸しになってしまった。
正倉院は転覆したボートに飛びついて、上下の向きを元に戻す。
俺は流されそうなオールを2本とも捕まえると、ボートの上にいる彼へ渡してやった。
「とりあえず、このままじゃレストランへは入れそうにないね。一旦ホテルに戻ろうか・・・フロントの視線が痛いだろうけど・・・はい、石見」
正倉院が、まだ湖に立ったままの俺に手を差しだしてくれる。
俺は後ろを振り向いて岸辺を確かめると、もう一度ボートを振り返り、正倉院の手は取らず、そのままボートの端へ手をかけた。
「ここからなら対岸の方が近そうだよ」
「そうだろうけど・・・えっ、ちょっと石見!?」
戸惑う正倉院を上に乗せたまま、俺はボートを引っ張って湖を歩き始めた。
「しっかり掴まってないと、また落ちちゃうから気をつけて。あの木陰で少し休憩してから戻ろうよ」
対岸に見えている公園らしき場所には、ここから100メートルほど先に船着き場があり、遊歩道の奥が森への入り口になっていて、幸い人気が少なそうに見えた。
俺は船着き場までボートを寄せると、ロープで杭に括りつけ、先に岸へ上がって、戸惑っている正倉院の手を引いた。
しばらく遊歩道を歩き、森の入り口辺りを目指す。
濡れた身体に、木陰の風は少し寒く感じられた。
「休憩って言っても、このままじゃあ風邪ひいちゃうし、早く帰って服を着替えた方がいいんじゃない?」
遅れ気味に付いて来る正倉院が、服の裾を絞りながら言った。
「このあたりはリンデンバウムなんだね」
「えっ・・・ああ、街路樹のこと?」
あたりに甘い香りが立ち込めていて、あちこちに白い花が沢山咲いていた。
ホテルの前にも綺麗な遊歩道があるが、そちらにはたしかマロニエが植えられていたと思う。
叢まで来て周囲を確かめる。
「誰もいなさそうだね」
「皆、わざわざこんなところまで来ないんじゃないかな。だから俺たちも・・・って、ちょっと石見、何してっ・・・」
「風もあるし、1時間もすれば結構乾くんじゃない?」
俺は着ていたTシャツとジーンズを脱ぐと、ギュッと捻って、水気を絞り出す。
柔らかな草と土の地面へ向けて、ボタボタと湖の水が滴り落ちた。
ジーンズも同じようにして水気を絞ると、それらを持って辺りに視線を彷徨わせる。
「ああ、石見ったら・・・こんなところで、そんな・・・」
正倉院が真っ赤になって、両手で顔を覆いながら、指の間から俺を見ていた。
人気がないとはいえ公共の場で、同行人が半裸になったという事実が、多分恥ずかしいのだろうか・・・。
しかし、見える範囲には誰もいないし、公共スペースとはいえ、ここはリゾート地だ。
対岸の岸や湖へ目を移すと、水着や半裸の連中がうろうろしているのだから、そこまで恥ずかしがることもないだろうと、俺は思うのだが・・・。
都会っ子の正倉院には、そう簡単には割り切れない、というところなのだろう。
とりあえず、彼に調子を合わせていたらきりがないようだった。
「うん、あれが良さそうだね」
湖へ向けて大きくせり出している、日当たりの良い1本の木を見つけると、その枝へTシャツとジーンズを広げ、ついでにスニーカーも引っ掛けた。
葉を見たところ、どうやら楓のようだった。
秋になれば、さぞかしこの辺りは美しいことだろう。
「あの・・・石見? まさか君、そのまま、ここで過ごすつもりじゃあ・・・」
振り返ると正倉院は、まだ濡れたまま両手で顔を覆っていた。
いつまで、そうしているつもりなのだろうか。
「正倉院も早く脱がないと、風邪ひいちゃったら大変だよ。ほら、脱いだ脱いだ」
「えっ、・・・ちょっと石見・・・やめっ・・・」
嫌がる正倉院の身体から強引にフロントボタンの半袖シャツとタンクトップを剥ぎ取って、同じように楓に干してやった。
「よし、さてと次は・・・」
さらにジーンズのベルトへ手をかけようとすると、正倉院が目を見開いてクルンと後ろを向いてしまった。
「じっ、自分でやるからっ・・・」
そしてガチャガチャとベルトを外す音が聞こえ、ぎこちない動きで正倉院がジーンズを脱ぎ始める。
濡れたデニムに足を取られて、せせこましい動きが、今にも転びそうに見えた。
時間をかけてどうにか、鍛えた脚からジーンズを抜き取ると、何故だか俺に背を向けながら、不自然な動きで楓の木へ近づき、意外と丁寧にそれを干し始めた。
ついでに俺が干してやったタンクトップとシャツも、干し方を変えている。
手つきがいかにも慣れていて、独身の正倉院は日ごろからちゃんと家事をこなしているのだとよくわかった。
俺はというと、日本では親元にずっといたし、こちらへ来てからはすぐに結婚したため、こういうことは確かに慣れていない。
正倉院が俺の服にまで手を伸ばしかけて、一瞬こちらを振り向き躊躇ったあと、結局そのまま帰って来た。
俺が怒るとでも思ったのだろうか。
「なんだ、俺のは直してくれないの?」
「えっ・・・」
トランクス姿で前を隠しながら歩いて来る正倉院が、俺の呼びかけに一瞬ギョッとしながら立ち止まる。
「冗談だよ」
正倉院はいつでも、いちいち俺の顔色を窺う。
その様子が可笑しくて、ついこうして揶揄ってしまうのだ。
「どれ、俺も君のを見習って、干し直そうかな・・・」
再び岸辺の楓まで行き、見よう見真似で自分のTシャツとジーンズを干し直した。
緩やかな夏の風が青々とした木の葉を揺らし、水面に連続した小さな波を作っていた。
遥か彼方へ目をやれば、キッシュタインホルンの頂きの雪・・・不思議な空間だと感じた。
もっとも高山の山間では、夏とはこういうものなのだろうけれど。
日当たりの良い、乾いた叢を見つけて腰を下ろし、ゴロンと寝そべる。
木漏れ日がキラキラと輝き美しかった。
1メートルほど離れた場所へ正倉院も腰を下ろし、両足を抱えて座った。
まだうっすらと顔が赤い。
「服・・・早く乾くといいね」
正倉院がボソリと言った。
顔をこちらへ向けようともしない。
「正倉院は恥ずかしがり屋だね。海水浴場だとでも思えばいいのに」
「だって違うし、そんなの無理だよ・・・・っていうか、そういう意味で恥ずかしいわけじゃないんだけど」
「そういう意味って? というか、じゃあ君は一体、何をそんなに赤くなっているの?」
俺は地面に掌を突いて上体を起こすと、正倉院の方へ半身を伸ばし、下から覗き見るように彼へ顔を近づけた。
正倉院は目を見開くと、反対側へ掌を突き、仰け反るようにして、俺から上体を離そうとする。
これ以上近づくと、走って逃げられそうだった。
「だから・・・その」
顔が真っ赤だ。
「可愛いよね、君って・・・」
紅潮した顔で及び腰になり、狼狽して喋る言葉もままならない様子は、そう言うしかなかった。
日ごろはここまでシャイな正倉院を、丁々発止に口喧嘩の土俵へ引っ張り上げる厳島は、サッカーのみならず挑発の天才なのだろう。
「か、揶揄うなよっ!」
「はいはい」
可哀相なので、また元の位置へ戻ることにした。
それにしても裸を見られることなんて、いくらでもドレッシングルームで慣れているだろうに、それもチームメイトの俺の前で何を恥ずかしがっているのやら。
再び地面へ寝そべると、正倉院も同じように両膝を抱え直す気配があった。
脚を崩す気はないようだった。
「今日はありがとう」
不意に正倉院が言った。
俺は寝そべったまま、顎だけ仰け反らせると、下から正倉院を仰ぎ見た。

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