一年前−−−−。 太陽電光株式会社はここ数年、地域のスポーツ振興に力を注いでいることで、俺の生まれ育った地元ではちょっと有名な企業だった。 忘年会を兼ねて、俺たちは会社の近くの居酒屋で厳島の送別会を開くことになった。 先に店を出た厳島のあとを、俺は慌てて追いかけた。
「JPLで戦ってみないか?」
社長自らそう声を掛けてくれた熱意に心を打たれ、卒業とともに入社。
そこから1年間、仕事の傍ら、夜遅くまで疲れを忘れて俺はボールを追いかけた。
同期入社の中には高校や大学の大会で名前を聞いたことがあったり、対戦したことのある選手が何人もいた。
中でも驚いたのは、ガイア諏訪戸から移籍してきた厳島景政の存在だ。
一人だけプロ契約を交わしていた厳島のレベルは抜きんでて高く、常にチームの中心であり、何よりスターだと言えた。
その一挙手一投足が皆の手本となり、彼に引っぱられるような形で、全体のレベルが引き上げられていた。
一方で厳島には傲慢な側面があった。
容易に周りの意見を受け入れず、批判のために容赦なくその口は開かれ、相手の方がレベルは低いと判断すると仲間にさえピッチの上で格の違いを見せつけようとした。
だが、そんな部分さえも当時の俺には彼を格好良く見せていた。
厳島の端正な顔立ちにスラリと高い身長、長い脚が繰り出す華麗なボールさばき、当たり負けしない、日本人離れした体躯。
何かもが、常に俺の憧憬の対象だと言えた。
彼とともに駆け抜けた太陽電光でひとつのシーズンが終了し、俺たちは念願だったJPNFLでリーグ優勝を果たした。
皆で抱き合い、喜びを分かち合って、朝まで飲み明かした宴の夜。
俺の隣にはずっと厳島がいて、そんなことさえもが至福だと感じている自分がそこにいた。
来年こそは彼とともにJPLで・・・そう確信しかけた矢先に聞かされた、厳島の退団。
大きな失望感がチームを襲い、そしてじわじわと俺を飲み込んでいった。
激しい夜の雨とともに。
店を借り切ってとり行われた宴は、最初、カウンターに俺たち新入り連中が、座敷には先輩たちと主賓の厳島が腰を下ろしていたが、乾杯の直後から、皆好き勝手に席を移動した。
俺は厳島を気にしつつもきっかけがつかめず、側へ入れ替わり立ち替わりにやってくる同期たちから次々とグラスに酒を注がれ、なかなか座敷へ移動する機会を見つけられずにいた。
厳島もすぐ隣に座っていた隅田監督や主将の玉川たちと、話は尽きないように見えた。
やがて先に帰るといって立ちあがった監督を見送るために、厳島と玉川が続けて座敷から出てくる。
「お前らもほどほどにしろよ」
そう言い残し、厳島と並んで出入り口に向かう監督。
長年、太陽電光を代表して県のスポーツ振興に携わり、日ごろは経理課長を務める傍ら、サッカー部のレベルアップのために自らも公認ライセンスを取得した努力の人だ。
でもあと5年で定年退職でもある。
ここ数年は彼とともに尽力していたと聞く玉川主将が、初老の監督を気遣うように側に立っていたが、一足先に店を出ると、ほんの1分程度で戻ってきた。
「監督、タクシーが来ました」
玉川が扉から顔だけをのぞかせて、監督に声をかける。
「それじゃ、今日は俺の為に、本当にどうも・・・」
ほろ酔い気分の監督を見送るために、連れだって店を出る厳島。
穏やかな会話が開きっぱなしの扉越しに、二階の店から階下へ下りてゆく様子が聞きとれた。
それは、彼らが店を出てからすぐのことだった。
「去年は諏訪戸で今年は太陽電光、来年はラナ・・・それで、再来年はどこなんですかねぇ」
だれかが言った無礼な言葉が引き金となり、それは始まった。
「JPLでポジションをとれなくてうちに逃げてきた選手が、本場のリーグでどこまで通用するのやら、・・・まあ日本人としては楽しみかもな」
「本場ったって2部ですよラナは。せめてナランハとかアスルグラナとかってんなら興味も湧くけど・・・」
「おいおい、諏訪戸でレギュラーとれなかった男にアスルグラナか? ねーよ、そりゃ」
「そりゃそうだな・・・ハハハハ」
礼儀を忘れた言葉の刃は、アルコールで滑らかになった口を容易に開かせ、まもなく戻ってきた主賓の存在さえも気にせぬとばかりに醜悪な会話を作りだしていった。
今日までともに戦い、明日には異国へ旅立つ仲間を見送る目的で開かれた宴は、一転して、残酷な吊るしあげに変貌したのだった。
それは厳島景政という選手を見送るにはけして相応しくない光景であったが、しかし厳島がその程度にしか築けなかった人徳に見合う厳しい評価なのかも知れなかった。
「あのそんな言い方は、ちょっと・・・」
チームではレギュラーであったものの、新入社員でしかない俺に、彼らを止める力はなく、言いかけた勇気の足りない小さな制止の声は誰ひとりの心にすらも届かなかった。
心配になって厳島を見遣る。
座卓の奥で何事かを話しつつ、玉川と並び少し早いピッチでジョッキを傾けてたその顔は表情が読めず、怒っているとも、気にしていないとも、俺には判らなかった。
いや、気にならないわけがないだろう。
たまらず座敷へ移動し、彼の隣へ膝を突く。
「あの・・・厳島さん・・・」
今思えば、このとき俺は何を言おうとしたのか・・・。
彼にかけてやれる言葉なんて、あったのかどうか。
「いい加減にしろ!」
だが、口にしかけた俺の言葉は、玉川の一喝にかき消された。
しんと静まりかえる小さな居酒屋の店内。
バイトの店員たちは見て見ぬふりで立っていたり、黙々と空いた皿を片づけていたりと一様に気遣ってくれていたようだったが、数十分前までの和やかさがどこにも残っていなかったことだけは隠しようもなかった。
最悪の送別会だった。
それ以上は誰もまともに口を開く者もおらず、間もなく宴はお開きになった。
外へ出ると、いつのまにやら雨模様。
見あげる夜空に冬の星座は一つも見えず、暗く煙っていた。
傘を持たない俺は、二階にある出入り口から外階段を駆け足で下りる。
屋根の付いていない階段を下りる間にも、強い雨脚は容赦なく俺を濡らしていった。
「待って下さい、厳島さん!」
階段の下で早々と流しのタクシーをつかまえ、乗り込もうとする厳島に追いつく。
振り向くことなく彼は先に車へ乗り込んだ。
俺もあとから入る。
「・・・・・」
厳島は何も言わずにシートを空けてくれたが、少しだけ驚いた顔が俺を見つめ返していた。
「方向一緒なんで、ご一緒してもいいでしょう?」
そう断って運転手へ、厳島が明日には引き払う筈のマンション名を告げる。
ここから5分程度の近場だ。
タクシーはゆっくりと走り出す。
とたんに一層激しくなった雨が、前のガラスを煩く叩き、見慣れた夜の町を不明瞭なものにした。
絶え間ない雨音が、ほんの短い沈黙さえも落ち着かないと感じさせる。
「気にしなくていいと思いますよ。みんな結局羨ましいだけだから」
俺は厳島に言った。
「・・・・・」
黙って窓を見つめる整った横顔を、対向車のライトが規則的に白く浮かび上がらせている。
間近で見ると、本当に綺麗なシルエットだ。
襟元を広く開けた白いワイシャツは、僅かな時間の雨ですっかり水気を含んでいる。
暖房の効いた室内で、かすかに俺と触れあう、ジャケットを着ていない彼の腕が、距離のなさを意識させ、感傷的な気分に追いやった。
「俺は厳島さんとプレーできて本当に良かったです。楽しかったし、勉強になったし・・・JPLがそこまで見えてきて・・・」
「・・・・・」
彼は黙って聞いていた。
こんなに近くにいるのに、遠い・・・。
手を伸ばしそうな衝動に駆られて、それを必死に堪える。
なぜそうしたいと思ったのか・・・。
「こんなこと、高校の時には考えもしなかった。だから厳島さんには、本当に感謝してて・・・だから・・・」
だから、・・・何が言いたかったのだろう。
何か酷く感傷的な言葉が口を出そうになっており、俺はそれを危ないところで飲み込んでいた。
「ハハッ・・・」
不意に厳島が短く笑った。
「厳島・・・さん?」
嫌な笑い方だ。
「俺を慰めてるくれてるのか、石見?」
その言葉は自嘲的で投げ遣りな響きを持っており、傲慢で自信家な厳島らしくはなかった。
そうか、酔っているんだ・・・。
俺は店を出る直前の厳島の飲み方を思い出し、なるほどと思った。
だとすれば、これは意外な彼の側面だと言えた。
そして厳島がそんな一面を俺に見せてくれたという些細なことさえも、嬉しく感じている自分がそこにいた。
「そんなつもりはないですよ・・・ただ俺は」
「ざまぁねえよな」
俺の言葉を遮って厳島が言った。
俺の言葉なんて、本当は聞いていないようだった。
「厳島さん・・・」
そこからの彼の静かな言葉の暴力は、俺を強かに打ちのめしていった。
「ガイア諏訪戸から太陽電光に移籍したのは、確かにプレー環境を求めてだ。いや、正直に言おう。ベンチに座ってるのに嫌気がさしたからだ。だってそうだろう? チームには長浜がいた。悔しいがアイツは俺なんかが太刀打ちできる相手じゃねぇよ。でもベンチに座ってて、どこで実力が見せられる? だから誘ってくれた太陽電光の話に乗ったんだよ。ちっぽけな社会人クラブチームでも俺の手でJPLに参加させて、2年以内に優勝争いできるチームにしてやれば、ちょっとした話題作りにはなるしな。それが俺の狙いだった。」
「・・・・・・」
ひどい言い様だった。
だが、それこそが彼の本音だったのだろう。
厳島の移籍の仕方を思えば、こう言ってくれたほうがよほど納得もできた。
「・・・けど、悪いがな。このチームにそれは無理だ」
残酷に言いきった。
「なにっ・・・・・」
「俺やお前、あと何人かは確かにJPLで戦える実力を持ってる。けど、監督含めて他は所詮アマチュアレベルだ」
「確かに・・・今はそうかもしれません。でも・・・」
自分の声が冷えていることに気がついた。
どうしてこんなことを、彼は言うのだろう。
いや、・・・それが彼の本音だからだ。
けれど。
信じたくなかった。
聞きたくなかった。
「そうだな。いいスポンサーがついて、金が入って、いい監督、選手を手に入れてか・・・? 俺はそれでもいいが、それのどこにお前の太陽電光が残ってるんだ、石見? まあ、でも結局そういうもんだろうよ。そんときにはあいつらは、どうせお払い箱になる。あんな連中に何を言われようと、俺は痛くも痒くもないさ。諏訪戸から逃げてきたと言われようが、たかがピッチから聞くベンチの声だ。けど、残念だったな石見。それはもう無理だぜ。太陽電光はもうJPLになんか行けねえよ・・・」
その瞬間、俺は厳島の胸倉を拳で掴んでいた。
「・・・・・・殴るのか?」
暗い瞳だ。
「いくらなんでも・・・あなたは傲慢すぎますよ」
声が震えた。
そう言うのが精いっぱいだった。
厳島に手を振り払われ、俺は勢いで反対側のドアへ肩をぶつけると、そのままシートの隣で項垂れた。
姿勢を正す気力もなかった。
悔しかった。
凄く腹が立った。
厳島を尊敬はしている。
言っていることもわかるし、気持ちも理解できる。
だが太陽電光を踏み台にして出ていく者に、自分が目標としているJPL参加という夢まで軽々しく否定される謂れはなかった。
まるで、自分がいなくなったらおしまいとでも言いたげに、このときの俺には聞こえた。
そして何より、もう自分は太陽電光の人間ではないと、厳島から線を引かれたような気がした・・・。
何より、そのことが俺には認め難いショックだった。
「そっちこそ、別れの挨拶に胸倉なんか掴んできやがって、一体どういう・・・お前泣いてるのか?」
俺は慌てて顔をそむけると、まだ湿っているジャケットの袖口で目元をぬぐった。
いつのまにかタクシーは停止していた。
見るとちょうどそこは、厳島のマンションの前だった。
バックミラー越しに様子をうかがっている運転手と目が合った。
終始俺たちに気を遣って声をかけてこなかった彼が、俺の目線に気がついてすぐにドアを開放してくれた。
俺は優しい運転手に感謝しつつ急いでタクシーから降りる。
道路を渡ってすぐの場所にある住宅街のひとつが俺の家だ。
このまま帰ってしまうつもりで走りかけて、すぐに足をとめた。
「あ、タクシー代・・・」
些細なことが気に掛った。
1メータープラス深夜料金など、たかが知れている。
「石見・・・・!」
料金を払って出て来たらしい厳島の声が、すぐ背後まで追って来て俺を呼びとめた。
俺はこの場で彼に半額を払おうと思い、スーツのポケットから財布を探る。
そこで突然腕を掴まれて動きを止められた。
「えっ・・・」
そのまま反対側の肩を引き寄せられたかと思うと、次の瞬間、間近に迫ってきた顔がかすかに唇を奪って離れていった。
「明日も仕事だろ? 早く帰って寝ろよ」
そう告げて彼はすぐに背を向けると、足早に自分のマンションへと消えてゆく。
茫然と見送る俺の視界で、明るいエントランスに佇んでいる、すらりとした長身。
すぐにやってきたらしいエレベーターが、彼を飲み込み、俺の視界から完全に消えてしまった。
指先でそっと自分の唇に触れる。
鼻腔に残されたままの、かなりきついアルコールの匂い。
熱っぽく柔らかだった濡れた感触をリアルに思い返し、それは俺の体の芯へと火を灯していった。
とめどなく頬を伝い流れ落ちてゆく滴が、再び激しく振り始めた冬の雨と混ざり合い、視界を不明瞭に滲ませる。
どのぐらいそうして俺は立っていたのだろう。
携帯が鳴っていることに、暫くしてから気がついた。
ポケットから取り出し、液晶表示を見ると厳島だった。
無言のまま電話に出る。
「石見」
「・・・・・・」
「なあ、お前さ、・・・俺についてくる気ないか?」
「っ・・・・!?」
「あ、いやなんでもない・・・。風邪ひくから、早く帰れよ石見」
電話は一方的に話し初めて、一方的にすぐ切られた。
これが、日本で交わした厳島との最後の会話となった。
そこから丸1年間。
厳島は完全に音信不通だった。
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