最後の練習を終えてロッカールームを後にした俺は、今や別会社の持ち物となってしまったスタジアムの駐車場で、突然厳島と再会した。 ・・・俺についてくる気ないか? 「石見?」
「迎えにきたぞ」
そう告げる厳島に、数日前に1年ぶりで交わすことになった電話での短いやりとりを思い出し、こっそり苦笑する。
「来るなら来ると、一言連絡してくださいよ」
「そんなもん必要ねぇだろ」
スポーツバッグの他に私物が詰まった紙袋で両手がふさがっている俺の片方の腕を引っ張ると、厳島は「飲みに行くぞ」と告げ、強引に歩き出した。
その足で近所の小さな居酒屋へと向かう。
1年前に厳島の送別会を行い、その帰りに酷い別れ方をしたあの店だ。
店へ着くなり厳島は言った。
「クラブには話をつけてきた」
「はい・・・!?」
「お前のポジションは俺が保障する。近いうちにオーナーを来日させるから会ってくれ」
「あの・・・何言って・・・」
いきなり伸びてきた厳島の手が、テーブル越しに俺の手の甲に重ねられ、強く握りしめる。
それだけで心臓が早鐘のように早く打ち始めるのを感じ、俺は焦った。
「本気で分からないと言ってるわけじゃないだろう? 俺は電話で言ったよな」
この1年の厳島の活躍は、1年前に彼を中傷した太陽電光の同僚たちの思いに反し、まさに輝かしいといっていいほどのものだった。
厳島は今やラナFCにとってかけがいのない中心選手となっている。
2部ながら急激にラナを上位へ押し上げた彼の活躍は、クラブの地元はもちろん、海を超えて日本でも大きく取り上げられていた。
彼が見切りをつけた諏訪戸FCが、皮肉なことに今シーズンは下位に低迷し、太陽電光は解散へ追い込まれているだけに、なおさらのことだった。
厳島の言いざまは、相変わらず傲慢に聞こえたが、今の彼が言うことならば、ラナは少々のわがままぐらい本当に叶えてしまうかも知れない。
「・・・・・・・」
それでも、これはいきなりすぎた。
確かに電話で厳島は同じことを言ってきた。
そして1年前にも・・・・しかし、ほんの少し交わしたにすぎない、たったそれだけの会話を頼りに、オーナーへ話を通し、日本に戻って来てしまうなどと、そんなことをどうして予想ができるだろうか。
「ラナは近いうちに1部へ昇格できるだけの底力があるクラブだ。だがそのためにはお前の力が必要だ。だから、おれについて来てくれ」
それにその言葉をこの店で聞くことは、俺に1年前の電話を思い出させた。
雨の中。
「ラナには何が待っているのかな」
「そりゃお前・・・」
熱を帯びた唇の感触。
「保障されたポジション。本場のサッカーリーグ。素晴らしい施設に1部への昇格・・・?」
「それに俺だ」
ああ。
「・・・そうだね」
「全部約束する」
迷いがない厳島の、力強い視線。
握りしめられた手から伝わる熱。
厳島も、ドキドキしているのかもしれない・・・。
「どうして・・・」
「何が心配なんだ、言ってみろ」
・・・どうしてそこまで俺に拘るの?
口へ出す前に、心でその疑問を文章に起こしつつ、目の前の厳島を見た。
かつて同僚だった彼は声の強さとは裏腹に、不安そうな情をその目に浮かべて辛抱強く返答を待っていた。
視線を再びおろし、小さく頭を振る。
いや、違う。本当はそんなことが聞きたいんじゃない。
「もう一度言う。俺と一緒にチューファへ来い、石見」
力強い声だ。
自信に満ちた男の声。
夢を叶え、確固たる足場を築き、そこで今なお前進している男の声なのだ。
きっと何一つ、今は疑ったりしていないのだろう。
今の彼からは、仲間の中傷に傷つき、異国の地へ夢を託しつつも、未だ苦しみもがき続けていた、あの頃の青臭さがいつのまにか消えていることに、俺はやっと気がついた。
そうか、立派になったんだね・・・。
「・・・頼むよ、石見」
その彼の声が、切なく俺に訴えかけてきた。
もう一度、小さく頭を振る。
流されるな。考えろ。
そう自分に言い聞かせた。
「・・・俺は、自分の足で立ちたい」
厳島が手の力を緩める。
「石見・・・」
「ダメなんだよ・・・厳島さんがいると、俺は・・・頼ってしまう」
俺はそっと自分の手を引いた。
「何言ってるんだ石見、お前の実力は俺が保障する。お前がいたから太陽電光はJPL目前まで成長できた、それは誰も疑っちゃいない」
「でも太陽電光は解散しました・・・・ははは、俺そういえば厳島さんに酷いことしましたね。あのとき、厳島さんはこうなるって、すでに予想してたんですよね・・・オーナーと近かったから」
土砂降りのあの夜、タクシーの中で太陽電光はJPLへもう参加できないと言われ、憤った俺は送別会の主賓たるこの人に掴みかかった。
今思えばオーナーと近かった厳島が、富士エレクトロニクスの状態を知っていた可能性は低くなかった。
「それは・・・いや、俺はちゃんとお前に説明しなかった。おまえが怒ったのは当たり前だ」
厳島の言葉は、暗に俺の推理を肯定していた。
そうかと思い、俺は今更自分の暴挙を恥じる。
知らぬこととはいえ、彼にはさぞかし無礼で愚かに見えたことだろう。
「いえ・・・もう」
もう、今更どうでもいい。
太陽電光は解散したのだ。
JPL目前だろうと、それが誰の功績であろうと、そんなことが今更なんだというのだ。
「お膳立てされた環境を利用することが、そんなに悪いことか?」
いきなり確信を突いてきた厳島の言葉に息をのんだ。
「あの・・・・・」
「そんなにイヤか、誰かを利用してのし上がることが」
それを否定することは、厳島を否定することでもあった。
厳島は与えられたチャンスを巧みに活かし、ここまで自分を成長させてきたような男だ。
「それは・・・ただ、俺は、まだ自分に自信が・・・」
「言い方を変える。この通りだ石見。俺と一緒に・・・俺の側にいてほしい」
「厳島さん・・・・」
まるでプロポーズのようなその言い草に、己の頬が染まってゆくのを止められなかった。
息をのみ、目を丸くして彼を見る。
そこには静かに正座で頭を下げている男の姿があった。
「・・・・・・」
どうして・・・そこまで?
「やめてください。厳島さん、頭をあげて・・・・」
動揺した俺は、厳島の側へ移動し、その広い肩へ手を添えながら懇願して、土下座をやめさせようとした。
「できない。おまえが来てくれると言うまでは。そのためなら、俺は何だってする。そのつもりで日本へ戻った」
「どうして? なんでそこまで・・・わからない・・・」
「お前が必要だ」
「だってラナにはアンヘル・ギメラがいるじゃない。俺なんかが行ったって・・・」
ミゲル・アンヘル・ギメラはイングランド1部で10年間も一線でプレーし続け、CLに何度も出場している、ラナ不動の右サイドバックだ。
今や30代半ばの選手ではあるとは言っても、ラナが彼を手放すとは到底思えなかった。
「そうじゃない・・・! 俺が・・・必要だと言っている」
厳島は僅かに声を荒げた。
その言葉は必死で切なく・・・だからこそ。
「だったら、どうしてあのとき勝手に電話切ったんだよ!」
俺はそう言わずにいられなかった。
「・・・石・・・見?」
ようやく頭を上げた厳島が、茫然として俺を振り向いた。
一瞬で冷静さを取り戻した俺は、自分の言葉に驚き、慌てて口を押さえるが、それで取り消せるわけではない。
言ってしまってから、自分で呆れていた。
あの電話を、あの時の厳島との別れを、今まで引きずっていた、その未練がましさに。
それならどうして、あのとき彼に電話をかけ直さなかった?
その勇気もなかったくせに。
「もう・・・嫌だ。なんでこうなっちゃうんだろ」
1年前と同じだと思った。
ちゃんと話がしたいのに、怒って、怒らせて・・・・お互いに一方通行で。
思いを伝えたいのに、感情が高ぶって、うまく言葉にできない。
様子を見にきた店員に厳島が「もう出るから」と、謝っていた。
他の客からも何事かと注意を集め、何人かが厳島の存在に気づき、急に店内がザワザワとし始めた。
引き上げ時だと思い、腰を上げる。
「おい、石見・・・」
「そろそろ店を出ないとまずいでしょう?」
「わかった、カシを変えよう。ホテルに来い」
軽々しい誘いにも似た厳島の言葉に刺激され、カッとなる。
「いいかげんにっ・・・いえ、すいません。今夜電話します・・・携帯、ひょっとして国際ローミング中ですか?」
厳島の言葉に他意があるのかどうかは判らなかった。
熱くなりそうな自分の気持ちをどうにか抑え込み、俺は必死に冷静を装った。
それがひどく困難な作業に思えた。
「いや、去年から使ってる番号が生きてる。そっちにかけろ」
そして案の定無理に誘ってはこなかった厳島にがっかりしてしまう。
「そうします。ありがとうございます」
話を自分で終わらせて、伝票を掴もうとしている厳島の機先を制した。
「ここは奢らせてください。わざわざ俺の為に来日されたんでしょう?」
「俺はお前の何十倍も収入あるのにか?」
「言ってくれますね」
軽口を叩き合い、それからお互い笑った。
どうにか自然に笑うことができた。
目の前にある厳島の笑顔もいつもの彼のものだと気づき、安心して、少しがっかりした。
宣言通りに清算を済ませ、厳島に背を向けたまま外階段を先に下りてゆく。
04
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