「名前は『陽だまり荘』。全部で6世帯しか入居ができない、風呂もなく、トイレも共同使用の実に不便なアパートだ。けれど家賃は1万円で、しかも大家が気の良いひとだから、入居者の中には5年間も家賃を滞納し続けていた人がいたらしい・・・、絶対に払う気がないんだから追い出せばいいのにね」
「そういうわけにも行かないんだよ、身寄りのないお年寄りなんだから。凄く良い人だったぞ、余ったおかず分けてくれたり・・・」
目を丸くして俺を見ている篤の視線に気付き、気不味くなって視線を逸らすと、苦笑を漏らす気配を感じた。
だが、今でも覚えている。
腹を空かせて泣いている俺を見かねて、しょっちゅう飴玉や饅頭をくれた、やさしいお婆ちゃん。
うちで作っていない飯が、食卓に並んでいることも多かったから、あるとき聞いたら『栗橋さんがくれたのよ』と、お袋が嬉しそうに笑っていた。
家賃を滞納し続けていたと知ったのは、俺があの部屋を出て今の家に引き取られ、さらに中学へ上がってからの事。
あるとき1階の部屋で老人の遺体が見つかり、ちょっとしたニュースになっていた。
部屋の主は餓死していたそうだ。
栗橋の婆さんと別れた旦那との間にいた息子が、警察からの連絡で遺体を引き取りに来て、そのときになり滞納していた家賃が発覚し、払うの払わないので揉めたらしい。
結局どうなったのかは、俺は知らない。
その前にも別の部屋で、奥さんを殺された男が、子供を残して首を吊ったり、・・・・・・思えば大家も入居者に恵まれず、呪われたアパートだったのだろうと思う。
過去の事件で、ただでさえ部屋が空きがちになっていたこの賃貸不動産が、いよいよ取り壊しになったのは、それから間もなくのこと。
「本屋が出来ちゃうと、たぶんもうここも見えなくなる」
篤に言われてよく位置関係を考える。
俺達が立っている場所の向かいに、シャッターを下ろしている酒屋とクリーニング屋。
そして駅前から続く途中にあった建設工事中の場所は、そのちょうど裏側にあたるが、5階建てのビルが完成すれば、確かにこのあたりはすっぽりと隠されてしまうことだろう。
「夜中でも眩しいコンビニの照明が見えなくなって、ちょうどよかったじゃないか」
俺がそう言うと、篤はまた目を丸くして、苦笑した。
「たしかにね。けれどCD屋やゲーム屋を兼ねているその本屋が、どんなネオンサインを出すかにもよるかな」
「そりゃ言えてんな。せいぜい親父さんの名前使って地元議員経由かなんかで本屋に圧力かけとけよ。美観損ねんなってさ」
「あはははは。まあ、そういうことなら街の為でもあるから、悪くはないかな」
「・・・マジでやる気かよ」
恐ろしい高校生だ。
「だって、このあたりって景観保全区域だし・・・そういう話じゃなかったの?」
「ああ、そうだったのか・・・」
知らなかった。
だからやたらと公園が多いのか、ひょっとして。
「僕は生れたときから今の家に住んでいて、大半の時間をあの部屋で過ごしていた。・・・このあたりの景色は僕の人生の一部で、そんな中に君はいたんだよ」
「篤・・・」
「なのに、僕が『陽だまり荘』のことを知ったのは、原田氏から君の話を聞いたときが初めてだったんだ・・・僕が景色の一部としてしか見ていなかったこの場所で、幼い君は僕が想像もできないような環境で、ほんの5歳で生存の危機にすら立たされていた。しかも悪魔のような・・・」
不意に篤は言葉を切った。
その目が不自然に泳いでいる。
悪魔のような・・・・恐らく霜月勤のことを言おうとして、また俺が取り乱すかもしれないと恐れたのだろう。
「お兄ちゃん・・・霜月のことなら・・・もう死んでいるらしいから」
言おうかどうしようか迷い、俺は思い切って篤に伝えた。
「それは・・・本当なの?」
篤が恐る恐ると言った感じに確認する。
「ええと・・・なんか、色々あったらしいんだけど、英一さんが江藤の親父さんと探偵経由で仕入れた情報では、事件後街を出て行った霜月がS県の百竜ヶ岳で、遺体になって発見されて、本人が通っていた歯医者のレントゲン写真と歯型が一致したらしいっす」
取り敢えず、言っていることに嘘はない。
「へえ、そうだったんだ・・・。江藤のお父さんっていうと、県警の江藤警視のことだよね・・・事情もはっきりしているみたいだし、それなら間違いなのかな。何にしろ、少し安心したよ・・・君にとっては、そう軽い問題じゃないとは思うけどね。それにしても江藤のお父さんまで関わっていたとはね・・・考えたら、警察だし当然かな」
「いや、まあ・・・直接の担当ではなかったらしいんだけどな」
『彩』のマサという男のことを、話すべきかどうか迷ったが、取り敢えず余計な心配はさせない方が良いと判断し、俺は伏せておくことにした。
「そう・・・死んでいてくれて助かったよ。目の前に現れたりしたら、僕が殺してしまいかねないところだった」
そう言って篤は軽く目を閉じた。
「お前なあ・・・」
瞼が下ろされたせいで表情が見えず、声を聞く限りでは冗談かどうかの判別はし難かったが、篤はおそらく本気で言っていたのだろう。
「峰は、このことは・・・?」
「ああ・・・もう知ってる」
「そう。・・・だったら、何かあっても彼が君を守ってくれそうだね」
「篤?」
「僕は暫く日本に戻らない・・・君を傍で守ることができそうにないけど、彼がいるなら、任せてもいいかもしれない」
「お前はそれで・・・」
いいのか・・・それを俺が聞くのは間違っているだろう。
俺が決めたことなのだから、良いも悪いもない。
篤に付いて行かないなら、そうするよりほかにはないのだ。
「秋彦」
篤が俺を振り返り、じっと見つめられる。
「・・・・・・」
黒目がちな双眸に、先ほどのような皮肉や、冗談のような色は一切浮かばず、かといって怒りも見えない。
穏やかで真摯で、しかし少しだけ、悲しみが滲んでいるような気がした。
不意に口唇が重ねられる。
しっとりとした口付け。
軽く舌先で擽られ、僅かに口唇を開くが、待っていたような官能は訪れて来なかった。
口唇が離れる瞬間、思わず彼を抱き締める。
不意に背中に手が回り、篤の口唇が耳に当たる。
くすぐったさに思わず身を竦めたとき。
「愛してる」
低い声がそう言って俺の身体から手が離された。
「あつ・・・し」
そのまま彼は背を向けた。
「チューファで待っている」
結局、俺達はそこに戻ってしまうのだ。
そして篤は、何かあれば峰が守ってくれるだろうと言った・・・つまり、俺が篤に付いて行かないかぎり、俺達はお別れだと言う事だ。
「篤・・・俺は・・・」
「・・・・・」
俺は・・・どうするべきだ。
進路はもう決めている。
だが、それに従えば俺は日本に残ることになり、それならお別れだと篤は言う。
軽く息が漏れる音が聞こえ、少しだけ見えた篤の横顔が、苦笑しているのがわかった。
彼は、俺の答えがもうわかっているのだろう。
「もう、行くよ・・・じゃあ」
そう言って再び前を向いた篤が、歩き始める。
俺は一歩踏み出しかけて、なぜかそこで立ち止ってしまった。
「篤・・・」
呼びかけた声は、彼に聞こえていたのかどうかもわからないほど、力ないものだった。
「・・・・・・」
立ち止まることなく篤の影が遠ざかっていく。
「俺も・・・篤、俺も愛してるから・・・」
ふと、彼が立ち止る。
再びその影がこちらを向こうとしたかに見えた・・・だが、軽く右手が羽織の裾を払っただけで、再び影は遠ざかって行く。
あるいは、羽織に付いた糸埃か何かを、払っただけのことだったのかもしれない。

 


Fin

・選択2に戻る

・オープニングに戻る

『城陽学院シリーズPart2』へ戻る