3階の本館から別館へ入ったところで、肘を突かれた。
「どした?」
隣で立ち止まっている峰に俺は聞いた。
「なにか聞こえないか」
美貌の眉間に、深い縦皺を寄せながら峰が言う。
鋭い視線は一点を見つめているが、そこに何かがあるわけではなさそうだった。
「いや・・・耳鳴りじゃね? つか、どんな音?」
「うむ。女のすすり泣きのような」
「え・・・」
顔から血の気がさーっと引いた。
「そこの窓に、髪の長い女の人影が・・・」
「てめえ、おちょくんのもいい加減にしろ!」
「おちょくっているわけじゃないんだが、とりあえず薄気味悪いから早いところ通過しよう。・・・なんだ震えているな。寒いなら、これ羽織るか?」
「いらねえよっ!」
峰が差し出してきた振袖を、廊下に払い落して、それを踏み付けながら俺は先に進む。
その瞬間。
「おいおい、高級総鹿の子絞りになんて乱暴な真似を・・・」
「・・・・・・・・」
微かに耳へ飛び込んで来る、か細い音に絶句した。
女の啜り泣きと言われると、確かにそのようにも聞こえる
ここは何もない長い廊下で、さきほど1階で回っていた映写機のような仕掛けがどこかにあるわけでもない。
「行くぞ、秋彦」
ふと肩があたたかくなり、峰に引き寄せられるまま彼に並んで先を進んだ。
だが、次の瞬間。
「な、ななな何だ!?」
俺達が歩いていた廊下の片側は、寮生の部屋が並んでおり、反対側には約5メートルおきに窓が設置してある。
そのひとつが突然スッと大きく開き、男の腰ぐらいの高さにある窓から、瞬く間に侵入者が現れて、軽やかなジャンプとともに俺達の目の前へ飛び降りた。
「あら、これは原田さんと峰さんじゃありませんの、ごきげんよう・・・って、お邪魔でしたかしら」
廊下へ着地した女は鮮やかな手さばきで、おはしょりや帯を器用に直し、乱れた振袖の裾を元通りにすると、いつもの調子でそうのたまった。
いつの間にか髪には飾りが増えて、大きな椿の花が簪のように挿してある。
「あ」
「・・・悪い。っていうか、どこから入って来たんだ!」
峰に抱きついていた俺は、慌てて彼から身体を放すと、返す刀で山崎に突っ込んだ。
何となく名残惜しそうな峰の視線を感じたが、気にしないことにした。
「御覧の通り、窓からですけど」
「さらりと言うな、さらりと!」
ここは3階である。
それに山崎は、窓を開けるときも、着地のときも、凄まじいスピードで完璧に音を消していた筈だ。
どこでそのような、特殊技術を身に付けたのだ。
そもそも主催者である彼女は、目下俺たちとともにゲームへ参加中だというのに、なぜ3階の外にいる。
スーパーくの一か。
「雪子ちゃん、どうかしたのかい?」
「うわぁ!」
同じ窓から今度は男が現れて、ひょいっと廊下へ着地した。
その手になぜか鉢植えを2つも抱えていた。
どうやって窓に攀じ登ったというのだ、この忍者は。
俺は窓の外を覗いてみた。
「あ、バルコニーになっていたんだ」
「ええ。各フロアとも廊下の外側はバルコニーと申しますか、物干し台になっておりますわ。階段の隣に扉がございます」
だったら、なぜ扉を使わない。
それにしても。
「女子寮の各フロアに物干し台・・・下着ドロし放題じゃねえの、それ?」
「手摺の上に有刺鉄線の柵が張り巡らしてあって、なおかつ触れると自動的に警備保障会社へ連絡が入り、即時に屈強なお兄さん方が現れて黒塗りの車で連れて行かれますけど、それでよければお試しになってみます?」
「試しませんけど、つうか有刺鉄線って刑務所みたいじゃね?」
「ちなみに警備保障会社は七海派系列という噂ですわ」
「ヤのつく強面の方々かよ!」
うっかり忍び込んだヤツが、これまでにいたのかどうかはわからないが、警察に突き出されるよりも悲惨な結果に終わっていそうだった。
お嬢様学校のくせに、怪しい宗教団体が絡んでいたり、レズだらけだったり、前々から思ってはいたが、まったくとんでもない学校法人だ・・・。
「ところで、なぜ鉢植えなんて持っているんですか?」
峰が進藤先生に聞いた。
「これかい? もちろんトレジャーさ」
そう言って進藤先生が鉢植えの向きをくるりと変えて見せてくれた。
大きい鉢植えには5点、小さい方には10点と書かれた札が、土の上に立ててある。
「たった二つで15点ですか・・・まさかこんな凄いトレジャーがあったなんて」
峰が苦々しい口調で窓を睨んだ。
「ほほほほ、こんなもの序の口ですわ。これを御覧になって」
そう言いながら山崎が、髪に挿していた椿の花を抜き取って見せてくれる。
よく見ると萼の辺りに3センチ四方程の栞のようなものが付いてあり、そこに20点と書いてあった。
「こんなもん、どこにあったんだよ!?」
「覚えておりませんの? 玄関に置いてあった活花ですわ。スタート地点にこのゲーム最高得点が獲得できる、トレジャーが隠れていたというのに、みなさん素通りなんですもの」
言われてみれば、確かに玄関の履き物入れの上に、正月らしい花が活けてあった。
その中の1本がどうやらゲームのトレジャーだったらしい。
というか。
「おい、そういえばトレジャー、トレジャーって言ってるけど、当然これをこの寮のあちこちに、仕込んだ奴がいるんだよな」
俺は少々胡散臭い気持ちになっていた。
「もちろん、あたくしが仕込みました」
「ってこたあ、あたりまえだが・・・お前はどこに何点ゲットできるトレジャーが置いてあるか、最初っから知ってるわけだ」
「当然ですわ」
「それを自分で回収したと」
「それが何か」
「チートだろ!!!」
飛びかからんばかりに怒鳴りつけた俺を、背後から峰ががっちり腕を回して押さえこんでいた。
そんなことされなくても、本気で女に殴りかかるわけはない。
・・・まあ、多少感情は昂っていたが。
「殿方のくせに意外と小さいことに拘りますのね。誰かが準備をしないと、ゲームが始まらないじゃありませんの」
至って冷静な声と蔑むような視線が返って来て、今度は委縮した。
「そりゃあそうだが・・・それにしたってなあ」
「ゲームの主旨は最初に皆さんへ開示してあります。それにあたくしたちは敢えて最後尾でスタートしておりますわ。負けたくなければ、もっと注意してトレジャーを探せばいいだけのこと。違いまして?」
「ぐう・・・」
いちおうぐうの音だけ出してみたが、それ以上の反駁は自重した。
たかが内輪の正月の集まりで、トレジャーバラマキだけのために誰かを連れて来いというのは、確かに無茶である。
それに山崎達は、敢えて最後尾スタートというハンディを自分に科していたのだから、まあ気遣いはあったわけだ。
それを差し引いても、チートには違いないが、これ以上文句を言うのは確かに聞き苦しい。
「ごちゃごちゃ言い合っていても仕方ないだろ。とりあえず試合するぞ」
峰がそう言ってコインを投げた。
山崎のサーブで試合が始まる。
「手加減は致しませんわよ」
カラフルな羽根を構え、凛とした声でそう宣言された。
「ほう、大きく出たもんだな。確かに竹刀を持たせれば、江藤と互角というお前のことだ。武道に関しちゃずっと秀でているだろうが、羽根突きはお互い素人だろ。そっちこそ、余裕こいてあとで泣くんじゃねえぞ」
俺も羽子板を構えて言いかえす。
「さあて、泣くのは一体どちらかしらね。」
山崎が不敵に笑った。
「なんだとお?」
男の俺を泣かすつもりとは、いい度胸だ。
山崎の掌から、すっと羽根が宙に浮いた。
「そもそも、江藤さんとは互角じゃありません。・・・・あたくしが、格上なのですわ!」
カツンと小気味の良い衝撃音とともに、鋭いサーブが俺を目がけて飛んでくる。
「武道家らしく真っ向勝負というわけか! だがな、俺を本気で打ち負かすつもりなら、もっと頭使えよっ・・・!」
こちらも力いっぱい打ち返す。
俺の羽子板から放たれたレシーブは山崎の左側・・・・かつて彼女が剣道で痛め、肘の自由が利かない側へと飛んで行った。
山崎が一瞬怯んだような顔を見せ、羽根は地面に落ちた・・・・かに見えた。
だが次の瞬間には、羽根はこちらへ目がけて猛スピードで打ち返されていた。
山崎の後ろから、素早く進藤先生がカバーに入ったようだった。
「女性相手に弱点攻撃とは見下げた男だ。その調子で卑怯な手を使って、慧生のことも抵抗できないようにして、辱めたんだろう。下種野郎め」
易々と返された羽根が、再び俺を目がけて飛んできた。
「うるせぇ、俺がいつ俺があいつを・・・っれ?」
俺はそれを力いっぱい打ち返したつもりだったが、羽根はなぜか相手陣地ではなく斜め後ろへカーブを描いて跳ねあがった。
「ひっかかりましたわね。進藤先生の必殺技・・・・伊織スペシャル=サイクロン・キング・オブ・レシーブ!!!」
山崎の声が高らかに深夜の廊下へ響いた。
な、なんだとぉ!?
俺は目を瞠り、爆弾吹き出しで囲まれた斜体の強調フォントで思わず叫ぶ。
「伊織スペシャル=サイクロン・キング・オブ・レシーブ・・・それは、手首のスナップを利かせ、なおかつ女子大付属病院理学療法士兼山林警備隊員であるドクター進藤の独自の視点により編み出された、究極の魔球。時速150キロを上回るスピードとともに1秒間当たり38回転を誇る猛球のことである。ドクター進藤はこの試合のために、1年前から泰陽山へ籠ってこの必殺技を生み出した」
「なぜてめえがナレーションしてやがる! それに、泰陽山って国立公園にある、標高200メートルもないピクニックコースのことじゃねえか! そんなところに1年も居着いたら、病院を首になるばかりか、四季折々の草木に目を楽しませて、社会復帰できなくなるわ! っていうか、150キロってメジャーリーグ級の剛速球じゃねえかよ!」
さすがに峰の説明は無茶苦茶だが、それにしてもありえないスピードとスピンではあった。
解説でさらに調子に乗った進藤先生と山崎が、誇らしげに胸を張り、わははは、あるいはおほほほと笑っている。
目出度い連中だった。
「そっち行ったぞ、山崎」
ぼそりと峰が言った。
「えっ・・・」
次の瞬間、山崎の足元へ僅かに不安定な弧を描きながら羽根がポトリと落ちた。
「あ、悪い峰・・・カバーしてくれてたんだ」
どうやら俺が打ち損ねた羽根を、後ろで峰が拾ってくれていたらしかった。
「まあ、目の前に落ちて来たからな」
羽子板の柄部分で、ポンポンと肩を叩きながら峰がのんびりと言う。
意味不明な解説をしながらも、身体はちゃんと動かしていたらしい。
大した集中力である。
「ふ、不意打ちとは卑怯ですわよ!」
高笑いをやめた山崎が羽子板の先で相手を捉えるようにして、峰の方へ突き出し、非難した。
「試合中だろ」
峰が容赦なく言いかえした。
「そうだ、そうだ」
もっともなので同調しておいた。
「これは完全に俺達の負けだね。悪かったよ雪子ちゃん、俺がいながら、大した力にもなれなくて」
「とんでもないことですわ。あたくしがいけませんの。誰もがみな、あたくしや進藤先生のように、健やかで美しい武士道精神を尊び、正々堂々と真っ向勝負に応じる相手ばかりではないということを忘れておりました。これはあたくしの不覚」
「おいおい、ちょっと待てあんたら・・・」
まるで俺達が、反則技を使ったとでも言われているような気分だった。
不意に肘のあたりをツンツンと突かれる。
「なあ、おい・・・お前羽根持ってたか?」
「あん? いや、俺達の羽根はお前が持ってたろ」
というか、質問している峰の手に、その羽根がしっかりと握られていた。
「だよな。試合に使った羽根は山崎が持ってるし、・・・じゃああれは一体」
見つかりましたわ・・・そう聞こえたような気がした瞬間、視界に動きを見つけ、俺は猛スピードで前方へ駆け寄ると、山崎が拾うより一瞬早くスライディングをかまし、白足袋の先端でガッチリと羽根を捉えた。
それを拾い上げると山崎に詰め寄る。
「すり替えとは、卑怯だぞ!」
「証拠がどこにありますの?」
山崎が腕を組みながら堂々とシラを切った。
その指先にしっかりと羽根を持ったまま。
俺はその羽の一枚に目を止める。
「証拠か・・・よっし、証明してやろうじゃねえか」
宣言すると、俺は腕組みをしている山崎の胸の辺りに手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと・・・何をなさいますの!?」
「だから、チートを証明してやるっつってんだろ、大人しくしろ!」
たじろぐ山崎の細い肩を左手で捉え、右手で山崎の手首を掴む。
手首は胸の引き寄せられたままであり、従って傍目に見ると俺の行動は・・・。
「お、おい秋彦・・・気でも違ったか!? 公衆の面前で堂々と痴漢とは・・・!」
「山林警備隊員である俺の目の前で、婦女暴行を働かせるか! 慧生のみならず、かよわい女性の雪子ちゃんまで、力づくで手篭にしようとは、恥を知れ! 貴様のような奴は、男の風上にもおけん!」
右から峰、左から進藤先生の手が伸びて、即座に俺は拘束された。
「は、放せって・・・、何わけわからんこと言って・・・」
「あなたはって人は! 多少は信じておりましたのに、こんな人前であたくしに破廉恥な真似をっ・・・!」
うっすらと目元を赤く染めながら、山崎がキッと俺を睨みつける。
人前でなけりゃ、破廉恥行為を致していいんかい・・・というツッコミが喉元まで出かかっていたが、両脇から拘束され、前後左右からエクスクラメーションマークを雨霰と浴びている立場では自重した。
そもそも剣道で江藤級の腕前を持つ山崎が、進藤先生曰く『かよわい女性』に分類されている点も、甚だ疑問が残る。
いくら左肘に爆弾を抱えているとはいえ、ガチで勝負したら、多分男の俺の方が負けるだろう。
そのとき、山崎の手元からポトリと羽根が零れ落ちる。
「峰、拾え!」
俺の掛け声ですかさず峰が動き、床からそれを拾い上げると。
「なんだこれ・・・ああ」
峰がカラフルな小物を手にして、漸く合点が言ったという顔を見せた。
「いい加減に放せっての、いつまで抱き締めてんだよ、エロドクター!」
「だ、誰がエロドクターだ! ・・・そもそもこっちだって、好きこのんで君なんぞと、お医者さんごっこなど・・・」
言ってねえっ!!!
左腕を振り回し、まだ何かを言いたげな進藤先生の元から離れると、俺は峰の手から羽根を毟り取る。
そしてそれを、敵コンビへ向かって投げつけた。
「摩り替えばかりか、こんな小賢しい細工までしやがって、卑怯なのはどっちだ!?」
しかし羽根は、不自然なカーブを描きつつ少し離れた場所へ落ちてゆく。
それもその筈で、羽の1枚はプラスティックで出来ており、重さの違いとバランスの悪い空気の抵抗で、まっすぐに飛ぶことができないのだ。
あの魔球とやらの正体がこれというわけだった。
それを拾い上げて山崎がニヤリと笑った。
「あら、細工だなんて心外ですわね。まるでこちらが反則行為をしたとでも、言いたいみたい」
「あきらかに反則だろうが! 摩り替えたり、細工したり、それのどこが正々堂々としているんだよ!」
「冗談じゃないですわよ、よくご覧になって」
そう言いつつ、山崎が羽根をこちらへ突きつけて来る。
そのプラスティックになっている羽根の裏側には、マーカーで5点と書き込みがあった。
「トレジャーだったのか」
峰がぼそっと呟く。
「なるほど、それなら納得・・・するわけないだろ! だから、正々堂々と勝負・・・」
「どうも勘違いなさっているようですけど、単なる羽根突きをするだなんて、一体誰が申し上げました? 現にこうしてペアでルートを回ったり、アイテムを集めたり、原田さんだってなさっているじゃありませんの。羽根突きなんてただの飾りですわ」
「偉い人だから、それがわからんのです・・・じゃなくてだなあ。試合中に羽根を摩り替えたり、細工したりなんていうのは、明らかに反則・・・」
「そのようなルールを、誰が決めたというのです」
「常識だろ!」
「往生際の悪い男ですわね。だいたい試合に勝った癖に、何が不満だと仰いますの」
「あれ・・・そうだっけ?」
「ああ、そうだな」
俺が聞き返すと峰がひとつ頷いた。
「悪い、だったらもういいわ・・・」
そう言って二人に背を向け、階段へ向かって歩く。
「お前と言う奴は・・・」
後ろから峰の溜息が聞こえて来た。

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