『春の嵐』
年度が変わって四月。
私立城陽(じょうよう)学院高等学校東館2階の教室から眺める真新しい景色は、1年前よりも近くなった広い校庭の桜並木。
少し向こうへ視線を移すと、うららかな春の日差しを照り返す、誰もいないサッカーグラウンドが見え、その対角線上を四本足の生き物がコーナーからコーナーへ素早く走っていった。
狐か狸、あるいは鼬だろうか。
おそらくは旧館の隣に広がっている国立公園の森から、餌を求めて下りて来た・・・、そんなところだろう。
身体にすっかりと馴染みだいぶくたびれてきた学校の制服、そして机と椅子。
あちこちに意味不明の落書きが見える木の表面に肘をつきながら教室を振りかえると、俺、原田秋彦(はらだ あきひこ)はひとつ、ちいさな溜息を吐いた。
新学期を迎え、元2年E組の男子19名女子13名、合計32名の生徒達は、全員無事に3年へとクラス替えなしで進級した。
担任も年齢不詳の井伊須磨子(いい すまこ)女史による持ち上がりで、有村小五郎(ありむら こごろう)好青年の副担任も同じ。
人事にいっさい変化なし。
昨日の始業式終了後、3階から2階の教室へと机や椅子を各自で運び、気心の知れた仲間達と卒業までの日々を共に過ごすべく、最終学年のスタートを俺達は切ったのだ。
この学び舎で皆と迎える1学期の始業式もこれが最後となる・・・そう考えると妙なセンチメンタルに襲われて寂しく感じられもしたが、もう一度あるとなると、それはそれで色々と都合が悪い・・・そんな複雑な心境だった年度初日。
「それじゃあさっそくだけど、新しいクラス委員をこれから決めます。ええっと・・・誰か、立候補者はいるかな?」
春休み中にどうやら散髪したらしい、頭髪がなかなかスッキリとした有村教諭が白チョークを持って黒板に向かいながら、顔だけ生徒の方を向いていた。
彼の受け持ち教科である美術の教鞭は、今となってはすっかり慣れたものだが、ホームルームの進行は勝手が違うらしく、まだどこかぎこちない。
だが教師生活2年目にしての突発的なスタメン起用で、ファームにおいてまだ十分な心身の鍛練もできていないまま満員に近いスタジアムのマウンドへ引っ張りだされたのであろうから、それは仕方がない。
不器用な男である有村青年としてはむしろ、ブルペンで昨夜数球投げ込んだだけでこの出来は大したものである。
というのも、実は新学期以来、俺達はまだ担任の井伊先生に会っていないのだ。
有村先生曰く「家庭の事情」ということで昨日の始業式に続いて本日も井伊先生は欠勤中なのだが、女子連中によると、エスパニア人の恋人が突然行方不明になったので、捜索のために急きょ昨日の早朝便でチューファへ飛んだという話だ。
なんでも修学旅行中に観光拠点のレイナ広場で、ひまわりの種を売っていた若者と電撃的な恋に落ちた彼女は、国際結婚を前提に帰国前日、思い切って貯め込んでいた貯金をすべてつぎ込み、地中海が臨める新築マンションを一括購入した。
そしてどうやら、その不動産の名義を勝手に書き換えられたうえに無断で売却されたというのだから、事態はわりと深刻なのだそうだ・・・と、笑い涙を流しながら江藤里子(えとう さとこ)が教えてくれた。
実話ならお気の毒な話だが、女子の言うことはたいてい8割方が嘘か誇張なので、どこまで本当かはわからない。
ただしあのご婦人は年齢の割に・・・といっても何歳かは知らないのだが、どうにも落ち着きがない性分なので、半分ぐらいは信じていいのだろう。
不動産云々は何かと単語が入れ替わっていると思うが。
ところで、レイナ広場でひまわりの種を売っていた男というと、俺も1ユーロ10セントほどチョロまかされた記憶があるので、無事に会えたならぜひ資産を奪還してきてほしいものだ。
俺の分まで。
さて、ホームルームだがこちらは遅々として進まなかった。
クラス委員の立候補ということで、当然というべきか、有村教諭の言葉に続いて間髪いれず、ほぼ全員の視線を一斉に浴びた江藤が、只今隣の席でおかっぱの髪を扇状に広げながら、首を大きくブンブンブンと横に振っている。
どうやら2年連続で、クラス委員をやる気はないようだった。
彼女の責任感の強さや姉御肌な気性をよく知っている俺としては、ちょっと意外だったが、秋の大会で優勝を逃したときに、来年は剣道に専念したいというようなことをチラリと言っていたから、驚くほどではない。
その発言が、かなり本気の決意だったということだろう。
だが、そうなると他に適任者も思いつかないから紙でも配って投票にするか、それともジャンケンでもするしかないのだろうか。
有村先生も江藤を当てにしていたようなので、困った顔で頭を掻いている。
その仕草がまた母性本能を擽るというか、彼の好青年ぶりを惹きたてるらしく、なにやら先ほどから女子連中の間に温度高めの空気が漂っているのは気のせいではあるまい。
俺は窓際の列に空いているひとつの席へ視線を送る。
人望という点から言えば、ひょっとしたら適任者と言えるかも知れないこの男もまた、担任と同じく新年度早々連続で欠席している。
行き先も井伊先生と同じ・・・なのかも知れない。
もしそうなら、ひょっとしたら今頃現地で顔でも合わせているだろうか。
「あんにゃろう」
喉の奥で低く毒づき、俺は昨日、自分の席を運んだ後、この手で新しい教室へ移動させた彼の机と椅子を恨みがましく睨みつけた。