一条篤(いちじょう あつし)は俺達のクラスメイトであり、去年までは俺の忠犬であり、今は・・・おそらく恋人と言っても、たぶん差し支えのない存在だ。
少なくとも、俺の中ではそのぐらいに変化していた。
先月半ば、俺達城陽高校の2年E組はエスパニアの大都市チューファへ4泊6日の修学旅行に行った。
現地ではほとんどの行動を、旅行中のルームメイトでもあった峰祥一(みね しょういち)と共に過ごして、一方でそれが支障となって俺と一条は気不味くなりかけた。
しかし最後の夜、一条に呼び出された俺は団体行動から抜け出し、ホテルのプールサイドで一条と結ばれた。
明け方になって部屋へ戻ると、峰が俺を待って起きていて、彼から無断外泊について非難を受けた。
そのくせ、どうやらこっそりと先生に根回しをしてくれていたらしく、俺と一条の外泊は「原田が屋台のドーナツで蕁麻疹を起こし、一条が病院に連れて行った為」ということになっていた。
お陰で連絡を怠った点を注意されただけで、俺は峰と門限を破ったときから数えると2枚目になった筈の反省文も書かずに済んだ。
つまり、俺も一条も峰に大きな貸しを作ったというわけだ。
それにしても蕁麻疹・・・発想の地味さと微妙さが峰らしい気もするが、お陰で集合の際に皆から顔ばかりジロジロと見られてちょっと恥ずかしかった・・・まあ、不自然な歩き方をしていても、ドーナツで腹も壊したのだろうと勝手に思われたようで、却って助かりもしたのだが。
同じドーナツを俺より食っていた筈の江藤も、一言「大丈夫?」と言ってきただけで、それ以上何も聞いてこなかった。
帰国の飛行機でも隣だった峰はというと、怒っているのか呆れているのか、行きと同じくずっと寝ていて、・・・たぶん本当は寝たふりをしていて、それ以上俺の勝手な行動を責めることはなかった。
もっとも、日ごろから何を考えているのか全然わからない男ではあるが。
したがって、旅行中には俺に気があるような素振りを見せたり、最終日・・・一条に抱かれた直後、部屋に戻った俺にキスさえしてきた男が、結局何をどう思っているのか、俺には皆目不明のままだ。
実際のところ、彼の一連の行動の目的は、単純に俺と一条をからかうためでしかなかったのかも知れない。
その後俺は、帰国した翌日に一条に呼び出され、彼が現地で買ったお土産やら、現像した写真やらを見せてもらったり、その二日後にも、彼の部屋で過ごしたりした。
そして、そのどちらの日にも、俺達は肌を重ねた。

 

それは3月26日の早朝のこと。
俺は布団の中でゴロゴロしながら、ぼんやりと雪見窓から、暗い明け方の空と見事に花が咲いている庭の桃の木を眺めていた。
一条の部屋は邸の離れにあって、家族に会うことなく勝手口から出入りができるので、その点は便利だった。
昼間はまるで初夏のような暑さだったチューファと違い、ときには雪さえちらつくことも珍しくないのが日本の3月。
暖房を消した広い和室では夜になると底冷えするような寒さだ。
「肩が冷えるよ」
静かだったからてっきり寝ていると思っていた隣の男がみじろいで、布団から出ていた俺の剥き出しの肩に手を掛けて引き寄せながら圧し掛かって来た。
「おい、やめろよ・・・」
厚みのある胸に手を添えて、下から彼を睨みつける。
「だめ・・・?」
「ダメっつうか・・・」
熱っぽく覗きこんでくる一条の真っ直ぐな視線が耐えきれず、俺は目を逸らした。
すると一条の苦笑が聞こえ、自分に掛かっていた体重がすっと消えた。
「無理言ってごめんね」
優しい声の謝罪が聞こえ、動いた布団の端からつま先や肘が寒気に晒される。
「・・・こっちこそ、ごめん」
「秋彦が謝ることじゃないよ、僕が悪いから」
そう言って頬にキスが下りて来た次の瞬間には、離れた所で彼が服を着始めていることに気付く。
「どこ行くんだ・・・?」
「トイレ」
そう言い残して、素早くスウエット姿に着替えた一条が部屋から出て行った。
この離れは敷地の端の方にあって、こういった類のプライバシーの保護においては抜群に優れているが、建物内にトイレがない点で不便さが際立っていた。
廊下を10メートルほど歩き、土間に置いてある下駄を履いて一旦外に出て、すぐ向かいの小さな建物が最寄りのトイレになる。
もちろん母屋にも、その他にも応接間だの書庫だのサロンだのと、なんだかよくわからない建物が他にもいっぱいあって、それぞれにトイレが幾つもあるため、したがってこの離れのすぐ隣に独立して建てられているトイレ・・・というより、佇まい的に厠といった雰囲気の小屋は、立地的には現在一条の独占状態にあるようだ。
というのも、この離れはその昔、書道や華道の教室に使われていたらしく、すぐ傍にはかつて道場が建っていて、ちょうどその間にあった厠が両方の生徒用として機能していたのだとか。
武道全般教えていたと言う道場は最早腕に覚えのある親族が途絶えたためにさっさと取り壊してもう存在しないらしいが、残しておけば一条という男も今とは幾分違った印象に育っていたような気がして残念だ。
お習字やお花の方は、今でも一条の祖母さんが、母屋で定期的に教室を開いているらしい。
ようするに一条邸はクソでかく豪華絢爛だが・・・・、ただしその殆どがとても古い純和風の家屋なのだった。
半端なく古い。
このあたりでは未だに下水工事が済んでいない地域があることは住民として承知していたが、まさか街一番・・・いや、日本でもおそらく屈指の資産家である一条家の本宅が、未だに汲み取り式だとは、この数日、ここへ出入りするようになって初めて知った信じ難い事実だった。
土建屋が本業なのだから、浄化槽工事でもなんでも自分ん家ぐらいどうにかすればいいだろうに、それとも何か理由があるのだろうか。
「そんなことはともかく・・・」
俺は、障子越しにぼんやりと差し込んでくる薄明かりの中で寝がえりを打つと、壁に掛かっていた日めくりカレンダーへ視線を移した。
日付は修学旅行出発前の3月15日のままで止まっている。
面倒くさいのはわかるが、ちゃんと捲らないのなら日めくりにしなければいいのにと呆れつつ明日・・・いや、もう今日になっているが、その予定を俺は考えた。
3月26日・・・それは一条の誕生日だった。
誰かとこういう関係になったことが初めての俺でも、特別なパートナーの誕生日という日が大事な記念日であることぐらいなんとなくわかる。
だからこうして前の日から一緒に過ごし、そのまま二人で当日を迎えられることが幸せだと感じないわけではない。
一条が俺を求めてくれることはもちろん嬉しい。
しかし昨日は夕方に俺が着くなり、すぐにそういう雰囲気になってそのままずるずると・・・気が付いたらこうして朝になっていた。
まあそのうち何時間かは疲れて寝ていたわけだが。
つまり何が言いたいのかというと、最初の記念日を目前にして、ろくに計画も立てず布団でダラダラ過ごしているということに問題があるのだ。
というか、よく考えたら二日前も会って土産や写真を目の前にチューファの話こそはしていたが、すぐにそのままエッチになだれ込んでいた。
セックスが嫌だと言うわけではないし、求めてくれる気持は俺だって嬉しいが、なんというか、最初に比べて手順が随分と端折られているような気がするというか、何かが・・・そう、言葉が、気持の籠った言葉が足りない。
もちろん最中には、相変わらず歯の浮くようなセリフを沢山浴びせて来るのだが、もっとこう・・・以前のような、熱心な口説き文句が足りないというか、切羽詰まるような必死さとか、そういうものがアイツにはあった筈なのだが、それが感じられなくなっている。
いや、けして甘い言葉や愛を沢山囁いてほしいとか、もっと一生懸命に俺を口説けなどと、そんなことをべつに求めているわけでは、けしてないのだ、絶対に!
・・・ただ、俺達には互いに話すべきことが、もっとあるような気がする。
ひとまず、俺としては当面、本日の予定をそろそろ決めたいところだ。
「あれ、起きてたんだ・・・?」
戻って来た一条がちょっと気不味そうな顔をした。
電気をつけていないからちゃんと顔が見えるわけではない。
ただ、声色からそういう空気が感じられた。
「起きてちゃ悪いのかよ」
気持ちの悪い違和感。
そういえば、トイレにしては随分と帰りが遅い。
「そんなことないけど・・・あの、秋彦、なんか怒ってる?」
「なんで俺が怒るんだよ・・・お前こそ自分の部屋だろ、そんなとこに突っ立ってんなよ」
本当にトイレに行っていたのだろうか、となぜだか疑問が沸いてくる。
いくら普通の家より広いとはいえ、一条は軽く10分はいなかった。
おまけに戻って来て早々の、あの言葉・・・ひょっとして、俺が寝るのを待っていた・・・?
しかし何故。
「ああ・・・そうだね」
そう言うと一条が入って来て、所在なさげに暫く立ち尽くし、だがすぐにタンスの扉を開けた。
「まだ5時過ぎだろ」
「そうなんだけどね・・・」
一条が着ていたスウェットを素早く脱ぎ去る。
薄闇の中でさえはっきりとわかる綺麗な身体のシルエット。
筋肉質な長い手足の力強さや、圧し掛かられたときの重さ、汗っ掻きな皮膚の湿った手触りに、体温が上昇するとすぐにピンク色に染まる隆起した胸を、俺はもうよく知っている。
ぼんやりと見惚れていた俺は、一条があっという間にシャツとジーパンを身に付け、次にチェストの上から携帯電話を取り出して、それをお尻のポケットに突っ込み、さらに充電器のアダプターをコンセントから引き抜いた所でようやくハッとした。
俺は慌てて布団から飛び出し、一条の手を止める。
「待てよ、お前一体何してんだよ」
不意打ちの突撃に目を丸くした一条が、次の瞬間に観念したような力ない息を吐いた。
「出かける準備だよ」
「んなもん見てりゃわかるよ。だからこんなクソ早い時間からどこ行くつもりなんだよ」
「えっと・・・」
そこから俺は一条を問いつめ、彼がこれから約1ヶ月間、チューファの語学学校へ短期留学することを初めて知った。
それも午前8時半の便で出発だという。
泰陽(たいよう)市から空港までは公共交通機関で2時間程かかるから、準備をするには結構ギリギリだ。
それはわかるが、しかしちょっと待て!
「おめーはよぉ・・・」
「あ、あの・・・・黙っててごめんね。急な話だったからなんだか言いづらくて・・・」
呆れて声も出ない俺に一条はしどろもどろと言いわけをした。
今日の予定をあれこれ考えて、いつ切りだそうかと悩んでいた自分が虚しくて泣けてくる。
本当に、色々考えていた・・・。
「だからここんとこヤリまくってごまかしたって言うのか、テメーは」
「いや、別にそういうわけじゃないんだけど・・・」
「じゃあ何だってんだよ」
「それはその・・・これから1ヶ月も会えないとなると、寂しいっていうか、その分、秋彦の身体に僕を刻み込んでおきたかったというか・・・」
「そんな話を聞いてんじゃねぇよっ!」
叫びながら繰り出したパンチは全然力が入っておらず見事に空を切った。
ついでによろけた俺の身体を自然に抱きとめた一条の顎をめがけ、すかさず足を踏ん張って頭突きを食らわすと、俺は背後で尻もちを突いて呻いている阿呆を無視して布団の周りに散らばった自分の服を着て、さっさと部屋を出て行った。
着替えている間に一度だけ一条はアウアウと何かを言って俺に近づいてきた。
だが振り返りもせずに「触んな」と一喝すると、それ以上ヤツは話しかけてこなかった。
そのときに怒鳴った自分の声は、思い出すのも嫌なぐらいの震えた情けない涙声だった。

 03

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