『Cappuccino Dolce 壱』

 

赤い木枠の格子に硝子を嵌めこんだ扉の前に立ち、『PUSH』と書かれた金属のパネル部分へ視線をおろす。
しかし、自分の掌をそれに宛てがうよりも一瞬早く、頭上のドアベルがカランコロンと揺れて、扉が奥へと勢いよく開いた。
日頃は穏やかな音色である筈のアンティークなベルだが、今日のそれは非常に物々しい鳴り響き方だった。
「おっと・・・」
慌ただしい動作で、店の外へ出て来ようとしている人物との衝突を避けて、咄嗟に身体の向きを少し変えると、相手の進路を確保してやる。
「あ、どうもすい・・・・つっっ!」
その人物は一瞬目の前で立ち止まると、即座にこちらへ一瞥をくれた。
同時に何かを言いかけて、0.5秒後には出て来ようとしていた謝罪を舌打ちへと転換させていた。
どうやら、ここに立っている俺が、原田秋彦(はらだ あきひこ)であることが、原因のようだった。
自分に非があることを、確かに彼は承知していたにも拘わらず、である。
その男、進藤伊織(しんどう いおり)の、苛々としたオーラを放っている背中を見送り、俺はイタリアンカフェ、『Cappuccino』の扉を、今度は自分で開けて、漸く中へ入る。
「あ、秋彦・・・」
「おい慧生よ、あの男のあからさまな無礼千万は、もう少しどうにかならんのか」
平日昼下がりの店内は、混雑のピークを過ぎて、城南(じょうなん)女子の白い制服を着た一組の客が、窓際のテーブル席に座っているだけだった。
そのテーブルでは、食べかけの4つのケーキセットが隅へ押しやられ、カラフルなマーカーを引かれた教科書やノート、女の子らしいキャラクターものの筆記用具などが、四角い面積の上を主に占領しており、見たところ放課後の勉強会といった感じである。
この店は城西(じょうさい)地区の西峰寺(さいほうじ)参道に建っており、ウェイターをしている香坂慧生(こうさか えいせい)が、昨年度まで通っていた県立城西(じょうさい)高等学校が、最も近い学校だ。
従って、放課後の暫くは大抵、紺色のセーラー服を着た女子生徒でいっぱいになっているのだが、今日は彼女達が来ていないところを見ると、城西はまだ中間試験週間に入っていないということなのであろう。
俺が通っている、城陽(じょうよう)学院はというと、明日から中間試験に入るため、今日は午前の3限のみで終わった。
時刻は午後2時過ぎ。
「ああ、ええっと・・・」
開襟の白シャツに黒いウェイター服を着た慧生は、銀のトレーを持ったまま視線を彷徨わせて押し黙る。
店に入って来た俺を認めて、慧生は挨拶代りに俺の名前を呼び、こちらも挨拶代りに彼の不躾な恋人の苦情を訴えて、その返事がこれである。
日頃は威勢が良い慧生なだけに、彼がこのように言葉を濁すことは非常に珍しく、なんだか調子を狂わされる。
俺は手近なテーブルに腰を下ろしつつ、とりあえず入店目的を告げた。
「エスプレッソロールケーキ・・・頼んでいいか?」
『Cappuccino』の、秋の新作ケーキのひとつ。
体育祭のときに慧生自ら、食べに来いと誘ってくれたものである。
そして、その際には必ず事前連絡を義務付けられ、1時間ほど前、学校帰りに昼食を摂った『天王(てんおう)』の店内から電話をかけて、俺はそれを守った。
連絡を怠った暁には、罰として廃棄のケーキを出すと言われていたからだ。
客である筈の俺が、自由に入店できない上に、罰を科されるとは、いかにも理不尽な話ではあるのだが、それはともかく。
少なくとも電話で話したときの慧生は、声を聞く限りにおいていつもの彼だった。
ということは、その間に何かあったのだろう。
恐らくは、つい先ほど俺に舌打ちをして出ていった、慧生の恋人、進藤伊織との間で・・・。
「おや、いらっしゃい」
「あ、オーナーさんこんにちは!」
厨房の奥から、背が高い、20代後半ぐらいの白衣の男性が顔を出す。
この店のオーナー、南方譲(みなみかた ゆずる)氏だ。
近所に住んでいるということもあって、俺は今のところ、月に2〜3度は店に来ているのだが、その度にこの南方氏が、店の看板菓子とも言える、『カントゥッチ』という焼き菓子を手土産として持たせてくれる。
一方で、しょっちゅう厨房からは、客の目も憚らず、店内に怒鳴り声を響かせて、直後に慧生の派手な泣き声が聞こえてくる・・・。
まあ、優しく、同時に厳しい男ということなのであろう。
「慧生、駄目じゃないか、テーブルを散らかしたままにしちゃ・・・ごめんね、秋彦君。で、今日もケーキセットでいいのかな?」
南方氏がオーダーを確認してくれる。
「いや、ええっと・・・今日はエスプレッソロールケーキを貰おうかと思って・・・」
そう言いながら、南方氏が今しがたテーブルから片付けて、手に持っている紙束を目に留めた。
「オッケー。エスプレッソロールケーキだね。持ち帰りじゃなくて、食べて行くんだよね・・・。飲み物はカプチーノでいいかな・・・じゃあ、すぐに持って来るから待っててくれる?」
伝票を書かずに慌ただしく注文内容を確認して、厨房へ引っ込もうとする南方氏に、俺は焦った。
「ああ、そうじゃなくて・・・今日は、慧生に食べに来いって言われていたもので、その・・・」
南方氏を呼び止めて、俺はそれとなく目的を告げる。
厨房の冷蔵庫に入っているのであろう、南方氏が作り置きにしている在庫のケーキではなく、慧生が作ったケーキを食べるために俺は来たのだ。
そのために、慧生は俺を呼び寄せ、事前連絡まで義務付けていたのだが、俺はなんとなく予定が頓挫しかけている気配を感じていた。
「そうなのかい?」
と、南方氏は慧生へ確認する。
慧生はいつになく、口数が少ないままだった。
南方氏の聞き方も、どこか優しい・・・というより、気遣わしげだ。
何が、あったのだろうか。
俺は入って来るときにすれ違った、進藤伊織の様子を思い返してみる。
進藤伊織は、女子大付属病院の勤務医であり、理学療法が専門だ。
さらにボランティア活動として、国立公園に詰所がある山林警備隊にも所属しており、その他に趣味、あるいは自己鍛練として、道場へも通っていて、非常に忙しい日常だと慧生から聞いている。
その進藤先生は、幾つか悪い偶然が重なり、俺と慧生の仲を勘違いしているらしく、それほど頻繁に顔を合わせることはないのだが、それでもこうしてときおり遭遇すると、親の敵のように俺を睨みつけてくる。
顔立ちはそれなりに整っている、世に言うところのイケメンだとは思うのだが、俺の彼に対するイメージは峰祥一(みね しょういち)を超える仏頂面でしかない。
診察室であの顔、あの態度に出迎えられたら、泣いて引き返す可哀相な患者が続出すると思うのだが、どうなのだろうか。
それはともかく。
だから、先ほど店の入り口で擦れ違ったときに、理由もなくガンを飛ばされたことなど、大して印象に残っていたわけでもなかったし、理不尽にも舌打ちをされたことですらも、ほんの数分程度の間に忘れかけていたぐらいなのだ。
慣れとは恐ろしいものである。
しかし、慧生の顔色は優れないままだ。
一体、進藤先生と何があったのだろうか。
「悪いな、秋彦・・・、またにしてくれないかな」
慧生が告げる。
彼の御手製ケーキを出せないという意味なのか、あるいは出直せと言われているのだろうかと、俺は悩む。
「こらお前、自分でお友達を呼び寄せておいて、何んて勝手なことを言ってやがるんだ」
「あいてっ・・・!」
南方氏が慧生の頭を、筒状に丸めた紙束で殴る。
スコンという、小気味良い音がした。
「ああ・・・いや、別に俺はいつでも・・・」
そもそも、明日からは中間試験が始まるので、本来であればこんなところで悠長にケーキセットなど食べている場合ではない。
大人しく家へ帰って勉強をしろという、学問の神様の御導きだと考えれば、それほど納得がいかない展開でもないのだ。
「ごめんね、秋彦君。20分ほど待っていてもらえるかな。すぐにこの馬鹿にエスプレッソロールケーキを作らせるから」
南方氏が慧生の襟首を掴んで、強制的に俺へ頭を下げさせる。
「ひでぇよオーナー! 馬鹿って言うなって、言ってんだろ!」
慧生が手足をばたつかせながら、激しく抵抗を見せた。
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い」
南方氏が腕を組みながら、ふんぞり返る。
「いや、その言い方はさすがに・・・」
俺は思わず、慧生に加勢した。
慧生が馬鹿なら俺も大して変わりはない筈なのだ。
何しろ、城西と城陽の偏差値は団栗の背比べである。
一条篤(いちじょう あつし)や峰祥一のように、突き抜けて成績が良いトップクラスでもなければ、あとは似たり寄ったりだ。
というより、そもそもあの二人は、城陽にいること自体が何かの間違いみたいなものなのだ・・・その理由の一端であるらしい、俺が言うのも可笑しな話だが。
「だからって、いきなり頭を殴ることないだろうが、余計に馬鹿になるじゃんか!」
慧生が頭を押さえ、涙目で南方氏に文句を言いながら、二人が連れだって厨房へと戻って行った。
「慧生・・・」
なんとも残念なことに、慧生はその抵抗の主たる目的を、たった数秒で馬鹿呼ばわりから、紙束で頭を小気味よく叩かれたことへと、いともあっさり移行させていた。
どうやら南方氏によって授けられた、不名誉である筈の馬鹿の称号に関して、返上を試みる気力はもう失われ、あるいは忘れ去られているようだった。
悲しいかな、それもまた馬鹿たるゆえんと、言えぬことはないのかも知れないが。
ともあれ、慧生には馬鹿連盟とも言うべき心の絆を、少なからずも感じていた同志としては、頼りないこと極まりない彼の意志の薄弱さ、もしくは脳の皺の少なさを、悲しみ、嘆くしかないのである。
しかしながら、その威勢の良い様は、見慣れた慧生の姿であり、俺は少しだけ安心していた。

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