「えっと・・・でもさ、じゃああのパンフレット・・・」
南方氏のものなのか?
いや・・・・それは、意味がない。
南方氏はこの『Cappuccino』のパティシエでもある。
壁には、様々なコンテストの優勝だの大賞だのと書かれた、記念品らしき楯や賞状の類いが、南方氏の名前入りで、誇らしげに飾ってある。
これだけの洋菓子の作り主が、今更なぜ学校へ行く必要があるのだ。
教えに行く・・・というなら別として。
「・・・るわけねえだろ」
不貞腐れているような顔で、慧生はボソッと何事かを呟いた。
「えっ?」
聞きとれない。
そこへ南方氏が、再び厨房から出て来た。
白衣の上にデニムジャケットを羽織っている。
どこかへ出かけるのだろうか。
「悪いけど慧生、少しの間空けるから、あと頼んだぞ」
手には、ファスナーを閉めた、ポピュラーなブランドのセカンドバッグを持ち、何かの合図であるかのように、それを掲げて慧生に見せる。
「“5番”ですか?」
合図は正確に伝わったようで、慧生が隠語らしき言葉で呼応した。
察するところ、銀行か・・・それとも買い出しだろうか。
「ああ。・・・それと松の実が切れそうだから、ついでに商店街で買い物してくる。直に真人が来るだろうけど、一人で大丈夫だよな」
買い物には、隠語が付いていないらしかった。
ということは“5番”は、時間帯から見て銀行で間違いないだろう。
「はい。・・・どうせ30分ぐらいでしょう?」
「俺は1時間ぐらい空けるけど、そうだな、真人が遅れなきゃそんなもんだろ。もしもズッパイングレーゼのオーダーが入ったら、事情話して断るか、謝って待ってもらえよ。カントゥッチ出していいから」
「はい、そうします。じゃあ、お気を付けて・・・」
慧生が見送りの言葉をかけようとしたとき。
「ああ、それと・・・天気崩れそうだから、もしも降ってきたら、洗濯物取り込んでおけよ。2階にお前のジーンズ干してあるからな」
一旦、ドアへ向かいかけた南方氏が、思い出したように足を止め、聞き捨てならない言葉を慧生に告げてから、“雨が降りそう”という言葉が示すとおりに、傘を手にして、漸く店を出て行った。
慧生があからさまに動揺した顔をして、俺をチラリと見る。
気が付いたかどうか、探りを入れられたようだ。
お陰で、バッチリ目が合った。
慧生が目を真ん丸くして、その小さな卵型の顔を真っ赤に染める。
「お前、ここに住んでんのか、ひょっとして?」
俺は遠慮なく質問していた。
「か、・・・関係ねえだろ!」
もう少し頑張って隠せよ・・・と言いたくなるぐらいに、素直な反応が返ってきた。
やれやれ。
「いや、まあ・・・そりゃあ、俺には関係ないが、・・・でも、ちょっと不味くないか、それ?」
進藤先生があれほどまでに、怒って店から出て行った理由が、たった今はっきりとわかってしまった。
同時に、案の定俺は、単純に痴話喧嘩のとばっちりを食っていただけ、ということも・・・わかりやすく言えば、八つ当たりされた、ということだが。
もっとも、今さら進藤先生に、愛想良く『やあ、原田君こんにちは!』などと、挨拶されて、笑顔で手なんて振られたりした方が、薄気味悪くて却って寝付けないというものなので、別にこのままでも構わないのだが。
「ご・・・誤解すんなよ、お前が思っているようなことは絶対にないからな」
慧生は空いたテーブルの上を、消毒剤を使ってクロスで清め始め、思い出したようにその手を止めて、わざわざ俺のところまで、弁解をしに歩いて来た。
漸く言い訳をする気になったようである。
「何も言ってねえけどな」
それから慧生は、掃除を続けながら、ここに住むことになった事情を、ぼちぼちと説明してくれた。
慧生はやはり、専門学校への入学を考えていたようだった。
しかし、彼の父親は城西へ復学させたがっており、専門学校への入学には反対しているらしい。
3日前の夜、慧生の部屋から専門学校のパンフレットを見つけた、彼の父親と、慧生はそのことで大喧嘩をした。
そして南方氏は、彼の自宅になっているこの店の二階部分へ、家出をしてきた慧生を泊めているようだった。
「それで、何かの事情でそのことを知った進藤先生が、激怒して帰って行ったと・・・つか、まあそりゃあ怒るわな」
自分の恋人が、血の繋がりがない別の誰かと暮らしていて、気にならないわけはない。
まして進藤先生のように嫉妬の鬼で、疑り深い勘違い野郎が相手だ。
さぞかし修羅場になっていたことだろう。
・・・お客さんが他にどのぐらいいたのかわからないが、俺がやってくる数分前までの、この店の状態を想像して、俺は苦笑した。
「ったく、何でもねぇっていうのに・・・っていうか、オーナーとそんなこと、あるわけねえっての」
慧生はさきほどから、同じテーブルへ何度もスプレーをかけて、拭き続けていた。
いい加減にしないと、辺りにアルコール臭が充満し始めている。
教えたほうがいいのだろうか。
「いや、理屈じゃないだろ、そういうのは。しかし、お前もなんでまた、ここに住もうなんて思ったんだ? そういう事情なら、いっそ進藤先生のところへ転がり込めばよかったろうに。・・・ところでな、お前そのテーブルばっかり・・・」
「・・・つっ、お前なー! んな恐ろしいこと、できるかっての!」
慧生が大声をあげて反論してきた。
今日聞けた3度目の元気な声だったので、少し嬉しかった。
が、しかし。
「へっ・・・恐ろしい? どういうこと? つか、恋人でしょ?」
進藤先生は社会人だし、話を聞いている限り一人暮らしのようだし、お互いに何も障害がなさそうなら、べつに同棲しても問題はない気がするのだが。
・・・と、障害だらけの恋愛をしている身としては、少々恨めしいぐらいの気持ちを抑えて、慧生に疑問をぶつける。
というか、恐ろしいとは、・・・どういう意味なのだ。
「だからだろうが! ・・・い、いや・・・お前んとことは、普通なんだろうけど、伊織はちょっと特殊っていうか、アブノーマルつうか・・・とにかく、一緒に住んだりしたら、僕の身がもたねえの! ・・・んなこと職場で言わせんなよ、恥ずかしい」
「いや、言わなくて良かったんだけど・・・」
慧生はふたたび真っ赤になっていた。
っていうか・・・・思い出すだに恥ずかしいアブノーマルな、一体どんなことを、社会的地位も名誉もある大人の恋人から、未成年の彼は致されているのやら。
どうやらそっち方面で、何がしかの問題があるらしかったが、ここから先はエチケットとして、さすがにこれ以上、ここで突いてやるのは遠慮することにした。
続きは、いずれまた二人で『Marine Hall』にでも飲みに行ったときに、とことん追求することにする。
慧生は、もう一度目の前のテーブルに、スプレーをシューシューとかけ始めた。
俺も、もう放っておくことにした。
「母さんがさ・・・」
慧生がスプレーのボトルをコトリと傍らに置いて、今度は家族の話を始める。
「ん?」
不意打ちの話題転換だった。
「僕の母さん、昼間は伊織の職場でバイトしてんだよ」
「えっ、そうなの!?」
自分の恋人と家族が職場の仲間って、どんな気分なんだろうか。
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