5限目の開始とともに学校を出て来た僕は、まっすぐに国立公園へ向かっていた。
遊歩道から獣道のような細い坂を下がり、太い何かの木の根元へ腰を下ろして、ぼんやりと空を見上げる。
学校を出るときには高かった陽が、今はだいぶ傾いている。
何時頃なのだろうかと思った。
授業はとっくに終わって、野田も中谷も既に家へ帰っている頃だろう。
擦れ違いざまに聞いた中谷の声を思い出す。
死ね・・・確かにそう聞こえていた。
冗談のつもりだったのだろうか。
他の女子同様、中谷とも仲良く話した記憶など一度もないから、嫌われていたとしても驚きはしない。
しかし、擦れ違いざまにそういう暴言を投げつけられる理由も、また思い当たる節がないのだ。
あるいは、中谷は恐らく野田が好きだから、なんらかの形で野田が僕にしてきたことを知り、深い考えもなしに、加勢したつもりだったのかもしれない。
鞄の中から日本史の教科書を取り出す。
マーカーで殴り書きにされた、僕へのメッセージ・・・・・死ね。
野田には元々、ときおり悪戯をしかけられたり、揶揄われたりしていた。
だが、夏休みの一件以来、彼の苛めはすっかりエスカレートしていた。
クラスの全員が僕を無視するように仕向け、誰かが僕と口を聞こうものなら、そいつにまで野田の嫌がらせの矛先が向かうものだから、僕はすっかり孤立していた。
さらにノートや体操着を隠されたり、いつの間にか教科書に足跡が付いていたり・・・揚句の果てが先程の一件である。
教科書の間へ仕掛けたカエルのバネ人形で皆の注意を引き、表紙にかかれた悪質なメッセージで動揺する僕を嘲笑おうだなんて・・・、彼の陰湿さに畏れ入る。
いつから野田は、あそこまで嫌な奴になったのだろう。
やはり夏休みのあの一件が、きっかけなのだろうか。
僕はそれほどまでに野田を怒らせてしまったのか・・・いや、怒って当然かもしれない。
先に愚弄したのは僕の方だ。
大体、僕は彼を恐れているわけではない。
苛められたことが辛くて、ここにこうして座っているわけでもない。
元々、僕の人生など、大した希望はなかったのだ。
真面目に授業へ出たからといって何になる?
城西を卒業して・・・それで一体どのような素晴らしい人生が待っているというのだろう。
同じような偏差値校でも、たとえば城陽学院のように金持ちしか生徒がいない学校ならば、進学・就職とも、金やコネでどうとでもなるかもしれないし、いっそ学校を卒業してどこへも行かずとも、遊んで人生を過ごせる連中だって沢山いるだろう。
だが、城西はごく普通の公立高校だ。
働かなければ生きてはいけないし、生きるために手を汚し、身を持ち崩す連中も少なくない。
まともに就職も出来ず、暴力団の構成員や、臨海公園駅付近にある店の風俗嬢に、先輩が沢山いる学校を真面目に卒業して、それで果たして、どんな素晴らしい人生が待っているというのだ。
それでも父さんは言った。
”お前は高校を卒業して国立大へ進学しろ。けして、父さんみたいになるんじゃない”
高校を中退して地元企業に就職し、不況でリストラされた父親と、ヘルパーと食肉工場の深夜勤務で生活費を稼ぐ、中卒の母親の間に生まれた息子に、いったいどれほどの将来性があると思っているのだろうか。
大体、自分の息子に対して、父さんみたいになるんじゃない・・・だって?
そんなことを親から言われて、なぜ励みに思えるのだろうか。
その言葉に、どうして向上心を刺激され、生きる活力を見いだせると言うのだろうか。
だいいち、国立大など、城西から進学した卒業生は今まで一人もいない・・・たぶん。
敢えて調べたことはないけれど。
「あ・・・一番星」
西の空に、キラキラと輝く星を見つけて呟く。
昔読んだ何かの本に、死んだお爺さんが星になったと、大人が子供に伝えるシーンが出て来たことを思い出す。
「死んだら星になるのかな・・・」
そんなわけはない。
ホウホウという鳴き声が聞こえてくる。
フクロウだろうかと、木の枝へ目を凝らすが、それらしき姿は見つけられない。
木陰が黒々としていた。
随分と辺りが暗くなっている。
鞄からノートとシャーペンを取り出した。
遺書を書こうとしてそのまま静止する。
僕がこの世に言い残しておきたいことなど、果たしてあっただろうか。
あるいは、何かを伝えておきたい人。
会っておきたい人でもいい・・・。
野田創・・・彼は今頃、何をしているだろうか。
「馬鹿だな。こんなときまで、あんな奴のことを考える必要ないのに」
僕は死ぬ前に、野田に会っておきたいのだろうか。
それはありえない。
だって、僕をここまで追い詰めた一番の加害者じゃないか。
ノートを地面に置いて、足元の谷を覗きこむ。
仄暗い茂みの向こう側から、微かに聞こえて来る、せせらぎ。
川の流れまでは随分と距離がありそうだったが、昼間に見た記憶では、ここは急斜面ながら谷底が見えていた。
こんなところから飛び降りたとしても、多分死ねはしない。
さすがに怪我ぐらいはするだろうが。
遺書は結局、白紙のままだ。
言いたい事なら山ほどあるが、吐き出せば自分の弱さを見せつけられそうな気がして、何も書けない。
さりとて、誰かに伝えておきたい言葉があるわけでもない。
「このまま生きていたって、碌な人生が送れるわけでもないのに」
「じゃあ、死んだら素敵なあの世が待っているのか?」
不意に背後から声を掛けられて、驚きのあまり飛び上がった。
それこそ、弾みで、足を滑らしそうなほどに。
「あ・・・あんたは!」
「よお。また会ったな」
いつか、海浜公園近くのバス通りで会った男だった。

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