それから伊織とは、よく会うようになった。
あの日、伊織は往診の帰りだったらしい。
といっても、通りかかったのは本当に偶然で、僕が座り込んでいた近所には数件の民家が建っており、そのひとつに住んでいる、足が悪いお婆さんの往診をしていたところ、斜面の上に人がいるように見えたので様子を見に来たらしいのだ。
民家の近くは畑になっていて、崖と畑の間には害獣用の罠が仕掛けてあるため、それを荒らす悪戯が絶えないのだとも伊織は言った。
要するに、僕はその犯人ではないかと疑われ、現行犯逮捕を狙った伊織が、一時間も木陰から監視していた、ということらしかった。
「酷いよ、まったく」
「いやいや、一応心配はしていたんだけどな。死なないまでも、斜面から落ちて怪我するかもしれないし、そうしたら救助しないといけない」
見張り続けて1時間。
いつまで経っても、僕に行動を起こす気配がなかったため、夕飯どころか昼飯すら食べていなかった伊織が痺れを切らし、僕に声をかけたということだった。
したがって、あの日の帰り、僕は伊織から夕食に誘われていた。
ファミレスで伊織と携帯番号とメアドを交換した僕は、翌日も彼に誘われてご飯に付き合った。
その翌日も伊織と会っていた。
次第に学校で僕がどういう立場にいて、親がどんな人たちなのか、また教師たちが、どのぐらい生徒へ関心がないかなどについて、僕は自分から伊織に話していた。
話しているうちに、僕は気が付いた。
こんなことを誰かに話すということが、かつて自分の人生にはなかった経験だということを。
逆に学校へは、すっかり足が遠のいていた。
毎朝、制服を着て家を出る。
そして臨海公園の商店街あたりで時間を潰し、夕方になると伊織との待ち合わせ場所へ向かう。
伊織は一応大人なので、学校へ行っていないことは黙っておいた。
しかし間もなく、あるきっかけでそれが発覚する。
いつものように制服姿で商店街を歩いていると、サラリーマンらしき中年の男から僕は声をかけられた。
最初は補導員かも知れないと身構えたが、彼は小遣いを稼ぐ気はないかと聞いてきたのだ。
どうやらこれは、援助交際の誘いらしいと、僕はすぐに気が付いた。
「5万円でどうだい?」
男はあっさりと言った。
5万円・・・・、それは母さんが1ケ月で稼ぐヘルパーのアルバイト代よりも、少しだけ少ない金額だった。
たった1度、このオヤジに付き合うだけで、そんな金が手に入るというのなら、けして悪くはない話だ。
しかし、嘘かも知れないし、このオヤジはヤクザの関係者かもしれない。
「その前に、オジサンの身分証明書を見せてくれる?」
僕が言うと、男は細い目を少し見開いた。
「おいおい・・・随分と神経質なんだな。名刺でいいなら見せてやるよ」
そう言って男は、有名な商社の会社名が書いてある、彼の名刺を見せてくれた。
男は山田という名前らしかった。
僕がそれを受け取ろうとすると、山田はそれをさっさと名刺入れへ挟み、さらにスーツのポケットへ仕舞って、反対側の手で僕の腕を掴んできた。
「ちょっと、何す・・・」
肘の辺りを強く引っぱられて焦る。
「希望通りに本人確認させてやったんだから、文句はないだろう? 心配しなくても、君に生徒手帳を見せろとは言わないから、さっさと済ませようじゃないか」
「僕はまだ、アンタに付き合うって決めてないぞ」
「人に身分証明書の提示を求めておいて、その言い種はないだろう。金ならちゃんと払ってやるから、大人しく付いて来い」
「生憎だが、名刺の提示は本人確認にならないぞ。覚えておけよ、慧生」
不意に、最近すっかり聞き慣れていた声に名前を呼ばれて、僕は立ち止まる。
僕の腕を掴んでいた男も、同時に足を止め、目が細いその顔の色を、見る見る蒼白に変えていった。
「い・・・おり・・?」
声は明るいものだと思ったが、伊織の顔は楽しそうには見えなかった。
「その手を3秒以内に放してもらおうか。言う通りにしてくれなら、残念ながらアンタを警察へ突き出す。そしてその前に、俺がアンタを気が済むまで殴ることになる。・・・3・・・、2・・・」
「い、いや・・・私はただ、その高校生がこんなところで・・・」
男は狼狽した顔で言い訳を始めた。
まだ僕の腕を掴んだままだったが、単純に放すのを忘れていただけなのだろう。
しかし、伊織は本当にパンチを繰り出した。
もっともどうやら本気ではなかったらしく、握り締めた彼の拳は、まるで見当違いの空間を切っていた。
それでも運動不足のサラリーマンに対しては、充分脅しになったようだった。
「ひぃいっ・・・」
男はすぐに僕の腕を放すと、猛ダッシュで逃げてゆく。
しかし数十メートルで息が切れて足は止まり、僅かにこちらを振り向いて、伊織が追って来る様子はないことを確認すると、その場で暫く息を整えてから、のろのろと駅へ向かって歩いて行った。
「ああいう、みっともない中年には、なりたくもんだな・・・」
伊織が苦笑しながら言った。
彼のスラリとした身体を見る限りにおいては、その心配はいらないだろうと僕は思う。
そして。
「伊織・・・なんで、こんなところに」
僕が言った瞬間に、伊織が鋭い視線を、今度はこちらへ向けてきた。
「それはこっちのセリフだぞ。学校をサボッていることは、薄々気が付いていたが、平日の昼間っから、こんなところをほっつき歩いているなんて、一体どういうつもりだ」
どうやら説教が始まるらしかった。
もっとも、遠からず露見するだろうことは覚悟していたから、僕は正直に話すつもりだったのだ。
たまたまあの男に声をかけられ、ぼうっとしていたら、連れて行かれそうになっただけだと。
そして助けてくれて、ありがとう・・・と。
「どうって、ただ・・・」
しかし。
「お前、まさかあのオヤジに、身体を売るつもりだったんじゃないだろうな」
そう言われた瞬間、なぜかカッと頭に血が上ってしまった。
凄くショックだった。
伊織に疑われた・・・たったそれだけのことで、僕はヤケになって、思いもしない事を、大声で口走っていたのだ。
「だったら何だっていうんだよ。そんなことアンタには関係ないだろう! あ〜あ、アンタが邪魔しなきゃ、あっという間に5万円も稼げていたのに」
「おい、本気でそんなことを言っているのか」
あとにも先にも、伊織のあんなに低く鋭い声を、僕は聞いたことがない。
素直に怖いと感じた。
意地を張っても、碌な結果にはならないことぐらい、わかっていたのに。
ちゃんと理由を話せば、伊織はわかってくれた筈なのに。
僕は素直になれなかった。
「本気だよ。だって・・・うちは貧乏だからね。5万なんていう大金、エロオヤジにちょっと付き合うだけで稼げるなら、有難い話じゃない」
半分ぐらいは本音だ。
もちろん、あのとき伊織が現れなかったとしたら、暴れて、叫んで助けを呼んででも、あの男から自力で逃げたとは思う・・・、少なくとも、いよいよ危なくなったときには。
金の為とはいえ、見知らぬ男に抱かれるのは、やはり気が進まない。
いつからだろう・・・僕がそう思うようになったのは。
突然、手首を掴まれた。
「ちょっと・・・い、伊織・・痛いって、何す・・・」
「そんなに金が欲しいなら、俺がくれてやる。だから来いっ!」
そのまま伊織は僕を連れて、手近なホテルへ入った。
洒落たシティホテルや、海が見えるスイートルームなどではない。
商店街の裏に建っている、古びたラブホテル。
薄暗い悪趣味な照明と、染みが目立つカーペット。
趣味の悪いカバーを乱暴に剥いで、スプリングが緩んだベッドの上へ、身体を投げ出された。
そして彼から命じられるままに、制服を脱ぐ。
指が震えた。
前払いだと言って1万円札を5枚押しつけられる。
間もなく伊織が覆い被さって来て、ローションで少し解しただけのその場所へ、彼のものを押し挿れられた。
身体が引き裂かるかと思う程、痛かった。
駄目だと思うのに、無意識に力が入ってしまう。
「お前・・・まさか、初めて・・・か?」
さすがに違和感に気付いたのだろうか、伊織が焦ったように尋ねてきた。
「・・・そういうことは、先に聞いてくれよ」
それから伊織はすぐに挿れたものを引き抜くと、頭を下げながら死ぬほど謝ってくれた。
正確には初めてではなかったのだが、久しぶりではあった・・・、彼には黙っておいたが。
とはいえ、結局、ヤルことはヤられた。
ついでに言うと、普通に伊織とセックスをしたのは、この時が最初で最後だ。

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