数日後、僕は伊織の車で、ある場所に連れて行かれた。
「喫茶店?」
煉瓦造りの外観に白いテントを張り出した、真新しい店舗の前に降り立ち、入り口の看板を見る。
白地に赤い装飾的な文字で、『Cappuccino』という店の名前が、カタカナの読み仮名付きで書いてある。
他には、地産物の茶葉や味噌、佃煮などを売っている土産物屋や茶店ぐらいしか商いをしていない、西峰寺(さいほうじ)の寂れた参道筋において、洒落た西洋風の佇まいは、あまりに唐突だった。
「店主はバールとか言っていたが、まあ喫茶店みたいなもんだ」
”PUSH”と書かれた金属のパネルに手を宛てがって、赤い木枠の扉を押しながら、伊織が応える。
カランコロンと、ドアベルが耳に穏やかな音を立てると同時に、菓子を焼く甘い匂いと、静かなBGMが、扉の奥から流れて来た。
そして、その扉のすぐ向こう側に立っていた、白衣にパティシエ帽を被った、長身の男が。
「パスティチェリア・バールだ」
いらっしゃいませ、あるいは、こんにちはなどの、挨拶もなしに、開口一番にそう言って僕らを出迎えてくれた。
この人が、イタリアンカフェ・・・いや、パスティチェリア・バール『Cappuccino』の、オーナーにして、白鳳(はくほう)学園高等学校時代以来の伊織の友人、南方譲(みなみかた ゆずる)氏だ。
『Cappuccino』とは、主にコーヒー、菓子をメインとして客へ提供しており、主力商品はなんといっても800円で食べられるケーキセットだ。
これは季節ごとにケーキの内容を入れ替えており、常時4〜5種類を用意していて、いずれも単独でそれぞれ注文すれば、1200円から1500円はする内容のものを提供しているのだから、採算度外視もいいところだった。
しかも美味しい。
その他にピザやパスタなどの軽食、夜にはちょっとしたコース料理やおつまみメニューも出しており、ワインやビールもある。
ゆえに、オーナーはカフェと呼ぶことは許しても、喫茶店という呼称には必ず訂正を入れる。
法律上、喫茶店で酒類は提供できないからだ。
しかし実際のところ、午後8時半で閉店してしまう『Cappuccino』へ、わざわざ夕食を食べにくる客は、ほとんどいない。
だから、ワインセラーに並んでいる、結構な種類のボトルが、コルクを抜かれることは殆どない。
ビールもしかりだ。
よって伊織は、オーナーが嫌がるのを無視して、喫茶店と呼ぶのを絶対にやめない。
まあ、僕はどっちでもいいような気がする。
ともあれ、僕がトルタ・ディ・メーラとカプチーノのセットを食べ終わったあとで、エスプレッソを飲みながら伊織はこう言った。
「慧生、お前は明日からここに通え」
「へ・・・?」
僕は、小皿のカントゥッチをカリカリと噛み砕きながら、伊織と、皿を片づけに来たオーナーの顔を、何度も見比べた。
伊織は白いカップを傾けながら、鋭い視線で僕を見ている。
オーナーは訳知り顔で薄笑いを浮かべながら、やはり僕を見ていた。
どうやら、二人の間では、予め何らかの話が纏まっていたようだ。
「どうせ毎日、フラフラしてるだけなんだろう? 学校へ行けとは言わん。だが、昼間っから街をほっつき歩くぐらいなら、せめて働け。労働しろ。学費を無駄にしているぶんぐらいは、自分で稼いで親へ返金しろ」
かくして、僕はこの翌日から、『Cappuccino』の店員となったのだ。
本当のことを言えば、僕はただ、フラフラしていたわけではなかった。
学費を無駄にしている自覚はあったし、何より学校にいるべき時間を潰すには、幾ばくかの金が必要だった。
だから、気は進まなかったが、声をかけてきた男に付き合って、その代償を求めたりもした。
所謂、援助交際というものにあたる行為をしていたのだ。
とはいえ、一線だけは守ったが。
それを伊織が知っていたのかどうかはわからない。
多分知っていたのだろう・・・だから、止めさせるために『Cappuccino』の仕事を、僕に紹介してくれたのだと思う。
『Cappuccino』での僕の仕事は、主にホールでの接客業務だった。
場合によっては厨房の仕事を手伝うこともある。
時給はベースが850円だが、いろいろと加算がある。
僕の場合、接客業務は未経験であるものの、高校の専攻が食品衛生課のため、若干上乗せがあった。
拘束時間は長いし、細かい仕事を覚えないといけないから、けして割がいい仕事とは言えない。
人見知りが災いして、失敗も多い。
正直に言って、自分が接客業に向いているとは、とても思えない。
何より、僕にとって最も問題なのは、大嫌いな女という生き物に、媚び諂わないといけないこと・・・これが一番困難だった。
そして、いつまで経っても女の前で笑顔が出ない僕に、あるときオーナーが言った。
「目の前に並んでいるのは、活きの良い蕪やよく熟したトマトだと思え。そうすれば、自然と感謝の気持ちや笑顔が出てくるだろう?」
質の良い野菜を前に、自然と笑顔になれるかと聞かれると、僕には難しい気がしたが、たしかにオーナーはいつも、野菜が詰まったダンボールを前に、一人でニヤニヤと笑っていることが多い。
何度か試したものの、結局、僕にはそこまで技術を極められなかったが、女は野菜だと自分に言い聞かせるように務めることで、怒らせない程度の接客は出来るようになった。
僕が『Cappuccino』で働き始めてから、それまでほとんど毎日のように会っていた伊織とは、逆に疎遠になっていった。
もともと伊織は忙しい人なのだ。
休みは不定休で、昼間は病院、休日は山林警備隊活動があり、たまの日曜日の休みには道場へも行く。
したがって、会えるのは平日の夜ということになるが、それでも突然電話で呼び出されて、病院へ蜻蛉返りということが、珍しくない。
むしろ、それまで毎日会っていたことの方が、不思議なぐらいだった。
ひょっとしたら、自殺未遂の現場に居合わせたことで、伊織なりに心配してくれていたのかもしれない。
ということは・・・あるいは、僕と会っていたのは、僕が好きだからというわけではなく、保護者が子供に抱くような、心配のほうが勝っていたためなのだろうか。
学校をサボって街をフラフラしていた僕を、更生させるために、『Cappuccino』を紹介したように?
伊織は・・・・僕を、一体どう思っているのだろうか。
そして僕は、伊織を・・・。
『Cappuccino』で仕事を始めて、1ヶ月ほどが経ったある日。
いつものように伊織に電話で呼び出され、仕事の帰りに彼のマンションで僕らは会った。
会っても以前のように、しっかりとした会話をするわけでもなく、まるで時間を惜しむように、さっさと僕らはセックスを済ませた。
伊織がシャワーを浴びに行っている間に、僕がベッドで身体の熱を鎮めていたときのこと。
枕元に放置されている伊織の携帯に、僕は気が付いた。
サイレントモードのそれは、音も振動もなく、ただ液晶画面が光っており、そこに表示されていた女の名前に、僕は衝撃を受けた。
山崎雪子(やまざき ゆきこ)。
いけないと思いつつ、僕は伊織の携帯を手に取って、アドレスや着信履歴を確かめた。
彼の携帯に登録されている女の名前は、この山崎雪子だけであり、しかも彼女と伊織は、頻繁に連絡を取り合っていることが判明した。
考えてみれば、28歳で医師を職業としている伊織に、彼女がいないわけがないのだ。
外見もおそらく魅力的な部類に入り、武道で鍛えた肉体は引き締まっていて、セックスのテクニックも巧みな方だろう。
その伊織が、何かの拍子に職場やプライベートにおける社交の場で、露見のリスクを侵してまで、男である僕を恋愛の相手に選ぶ必要がどこにある。
それなら、僕は・・・、伊織にとって、ただの気まぐれだったのだろうか。
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