翌日、久しぶりに僕は、国立公園の森へ向かった。 原田秋彦(はらだ あきひこ)は、県内屈指の金満私立学校である、城陽(じょうよう)学院高等学校へ通う、同い年の少年だった。
最初からそうするべきだったのだ。
世の中が不公平だなんて、わかっていたことじゃないか。
生まれた時に恵まれていた奴は、ずっと恵まれ、貧乏な奴は、虐げられ、搾取され、苦労をしないと、生きられないようになっている。
社会環境だって悪化の一途だ。
日本と言う特殊な国は、常に平和憲法で手足を縛られ、周辺国に領土を侵犯されても、抵抗できず、おまけに政権政党は売国者の集まりで、国家の先行きに希望は見出せそうにない。
だから。
せめて恋ぐらいは、自由にできると思いたかった・・・。
いや、冷静に考えると、それが一番難しい筈なのに、僕はどうして勘違いしてしまったのだろう。
脱いだ靴を揃え、そこへ立掛けるように、地面へ遺書を置く。
遺書にはやはり、何も書けなかった。
どこからか、カップルらしき若い男女の騒々しい話し声が、風に乗ってここまで届く。
見つかる可能性を回避するなら、早く決行した方がいいかもしれない。
目の前にある、あの崖から飛び下りるのだ。
・・・けれど、その先には民家の畑が広がっているのだと、いつか伊織が言っていなかっただろうか。
いや、それは微妙に、方角が違う気もする。
そもそも、飛び降りるだけで命を断てるような、落差の大きい崖自体、果たしてこのあたりに、あっただろうか・・・。
そのとき、猛スピードでこちらへ近づいてくる足音とともに、こんな叫び声を僕は聞いた。
「ちょっと待ったキミーーーーーー!」
これがおそらくは、僕が生まれて初めて、友達と呼べる存在を得た、忘れられない瞬間だった。
所詮は、金に不自由をしたことがないお坊ちゃんの一人。
それが当時の僕の認識で、間違いではないのだが、しかし、秋彦は情深く、正義漢で、なかなかのイケメンだった。
山崎雪子の件は、あの後すぐに誤解であることが判明したが、その代わり、実に癇に障る嫌な女だということもはっきりとした。
だいたい、道場仲間という、社会的には薄い繋がりだけで、忙しい伊織を自分の我儘に付き合わせ、振り回している女だ。
まともである筈がない。
おまけに、やたらと権利意識が先行していて、高慢な態度で人を見下す。
ああいう女が世に出ると「男がパンツを洗うようになれば、世界が平和になる」という、なんの裏付けもない、非論理的で差別的な発言をするに違いないのだ。
だいたい僕の家では、母が働いている為、父が毎日洗濯をしているが、相変わらず日本の周辺諸国は、我が国へミサイルの先を向けたままじゃないか。
ところで、出会って間もない頃に一度、僕は秋彦と、いいところまでいったことがある。
その日の夕方、秋彦は誕生日だというのに、一人で『Cappuccino』にケーキセットを食べに来ていた。
自分も伊織とは擦れ違いが多いが、それでも誕生日にはちゃんと二人で会えたし、プレゼントも用意してくれていた。
僕はなんとなく、秋彦を一人にしたくはないと、このとき思ってしまったのだ。
仕事を終えた僕は、『Marine Hall』というクラブへ秋彦を連れて行き、ふたりでささやかに彼の誕生日を祝った。
しかし、僕はすぐに体調を崩してしまい、心配してくれた秋彦は、僕を背負って自分の家へ連れて帰ってくれたのだ。
秋彦は居間のソファへ、僕を寝かせてくれた。
このとき、もともと風邪と寝不足で体力が落ちていた僕は、アルコールの回りも手伝って意識がぼんやりとしており、看病してくれようとしていた秋彦に抱きついて、首筋に噛み付いた。
なぜこんなことをしたのかは、未だによくわからない。
誕生日に恋人から一人にされた彼に、思うように伊織と会う事ができない自分の境遇を重ね合わせて、互いに慰め合いたかったのか。
それとも、伊織へ当てつけるために、秋彦を利用しようとしていたのか。
あるいは、ほんの少しだけ、秋彦に恋心があったのか・・・。
その瞬間、僕の行為に彼が反応を見せたような気がした。
しかし結局、彼が僕の誘惑に堕ちることはなく、それどころか、遂に起きていられなくなった僕が、すっかり寝込んでいる間に、伊織へSOSを送ってくれていた。
今思えば、仮にあのとき、秋彦と一線を超えていたとしたら、僕は秋彦と、今のような関係でいられたのだろうかと、疑問に思う。
あるいは、生れて初めて得ることができた、友達と呼べる存在を失っていたかもしれないと。
その後、秋彦に呼び出された伊織の車で、僕は彼のマンションへ連れて行かれた。
僕が、このとき風邪をひき、体調を崩していたそもそもの原因は、伊織にあった。
前の晩、例によって伊織から呼び出しを受けていた僕は、仕事の後で彼のマンションへ出向き、玄関の前で家主の帰りを待っていた。
その頃、僕と伊織はいつも以上に擦れ違ってばかりだった。
呼び出しを受けて、彼のマンションへ行く。
すると30分程で、断りのメールを着信する。
理由はさまざまだ。
概ね残業だったり、山林警備隊活動だったり、はたまた憎たらしい山崎雪子の呼び出しだったり。
この日の前日も、その3日前も、1週間前も、僕はそんな感じで伊織のマンションまで行っては、玄関の前に座り込み、数十分後に一人で引き返していた。
僕だって暇というわけではない。
週に6日、仕事へ行き、シフトはバラバラで、残業になる日もある。
忙しいときには、朝9時から夜9時半まで、カフェにいることだってあるのだ。
休みが突然仕事になることもあるわけで、この日は結構疲れが溜まっていた。
擦れ違いとストレスと、日々の疲れが重なって、玄関前で座り込んでいた僕は、ついウトウトとしてしまい、目が覚めると深夜になっていた。
伊織がまだ帰っている様子もなく、何気なく携帯を見ると、2時間前に伊織から“仕事で泊まりになる“という内容のメールが来ていた。
ぼんやりとしている頭を振って立ち上がる。
そして、じわじわと込みあげて来る涙を堪えながら、一人でマンションの階段を下りて行ったのだ。
その晩、僕は熱を出していた。
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