『Cappuccino Dolce 参』


ケーキセットを食べに来たカップル客は、20分ほどで店を出て行った。
テーブルを片付け終わった香坂慧生(こうさか えいせい)は、また俺、原田秋彦(はらだ あきひこ)の傍へ戻って来ると、今度は何をするでもなく、ぼんやりと窓の外を眺め始めた。
どうやら仕事はひと段落付いたようだった。
さきほど入念に磨いていたテーブルは、特別に汚れていたということで、俺は納得した・・・・とてもそうは見えなかったが。
『Cappuccino』のオーナー、南方譲(みなみかた ゆずる)氏が直に来ると言っていた、パティシエの名和真人(なわ まさと)さんからは、10分程前に少し遅れると店へ連絡が入っていた。
現状、店を守っているのは慧生一人だったが、今のところ客も俺だけなので、とくに問題はなさそうだった。
壁にかかった、アンティークなデザインのアナログ時計は、午後2時半を指している。
明日のテストに備えて、俺もそろそろ引き返した方がいいだろうか。
「さっきは悪かったな、当たってしまって」
不意に慧生が言った。
「へっ・・・ああ。いや別に」
2杯目のカプチーノに口を付けながら、応えを返す。
一瞬、何の話かわからなかったが、カップル客が入って来たときの会話のことだと、すぐに思い至った。
”食費や光熱費に、苦労をしたことのない人間”・・・慧生の言葉には、明らかな棘があった。
だが、そう言わせてしまったのは俺だ。
厳密に言えば、おそらく幼少の頃の俺は、慧生と変わらずか、あるいはそれ以上に貧乏だった筈だが、実感として、その頃の記憶が俺にはないので、慧生が言った言葉は間違いではない。
たかが金の問題で・・・だなんて、確かに無神経な発言だった。
しかし、問題を総体的に捉えた場合、その考え方が間違っていると、俺はやはり思わない。
なぜなら、慧生がとても悔しそうな顔で話しているところを、俺は見てしまったから・・・・たぶん、本当に慧生は専門的に菓子作りを学びたいのだ。
それなら、金の問題で諦めてしまっては、悔いが残るだろう。
途方もない金額というならともかく、数百万の話だ。
知恵を絞れば、工面する方法が見つかりそうなレベルの金額・・・まあ、そういうことは、自分で数百万稼いでから言えと、峰祥一(みね しょういち)あたりからは突っ込まれそうな言い種かもしれないが。
それでも、俺は敢えて蒸し返してみた。
「お前さ、本当に諦めるつもりなの?」
慧生は一瞬ぽかんと口を開けて、俺をじっと見た。
日頃は生意気な言動ばかりの彼だが、こういう顔をすると、実にあどけなくて可愛らしい。
だが、俺が言っている話の見当が付いたらしい彼は、すぐに眉根を寄せると、ふいっと窓の外へ視線を向けて。
「仕方ないだろ」
そう言った。
「でも、お前・・・本当は学校、行きたいんだろう?」
「大概しつこいな。僕だって好きで諦めるわけじゃないんだよ。そんなこと・・・秋彦に言われるまでもない」
「慧生・・・」
聞いていて、心が痛くなるような声だった。
俺はまたしても、自分の軽弾みな発言を悔やむ。
慧生とて辛いのだ・・・当然だった。
コツコツと学費を溜めてきて、それでも充分じゃなくて・・・・そこまで俺は考えて、ふと疑問に思う。
慧生は、俺の記憶にある限り、1年近くフルタイムで『Cappuccino』の仕事をしていた。
ここの時給がどのぐらいかは知らないが、仮に1か月に15万稼いでいたとして、そのうち10%を税金に持って行かれて、手取りが13万5千円だったとする。
単純計算で、それを1年間貯金したなら、162万円になるではないか。
もちろん、生活費だの、何だので、いくらかは消費するだろうが、学校へ行くつもりで出費を抑えていた慧生ならば、それに近い金額で貯金できているべきだろうし、入学する4月までの間、さらに貯金をすれば、充分とは言えなくても、かなりの金額を貯められる筈・・・。
そこへ奨学金や、学費の分納などを学校に相談すれば、なんとかなるのではないだろうか。
いや・・・こんなことは、第三者である俺でも思いつくのに、当事者の慧生が考えていない筈はなく、それならなぜ、慧生は諦めようとしているのだろう。
奇妙だ。
それとも、『Cappuccino』の給料は、労働局に訴えられるほど低いとでもいうのだろうか。
「おい慧生、洗濯物・・・!」
そこへ、傘を閉じながら南方氏が慌ただしく帰って来た。
ジャケットの肩が、結構濡れている。
「あっ、すいません・・・」
ぼんやりと、窓の外を見ていた筈の慧生が、慌ててカウンターの奥の扉へ走って行き、続いて階段を駆け上がる足音が聞こえて来た。
窓を見ると、いつのまにか外は土砂降りになっていた。
その割に、空には明るさが残っていた為、雨が降っていることがわかりにくかったのだろうが、しかしずっと外を見ていた慧生ならば、気付いてもよさそうだった。
おそらく、心ここにあらずの心境だったのだろう。
何を考えていたのだろうか。
入り口で傘を畳んでいる南方氏へ俺は聞いた。
「オーナーさん、ここの時給っていくらなんですか?」
帰って来ていきなりの不躾な質問に、南方氏は傘を畳む手を止めると、間の抜けた声を出しながら、しげしげと俺を見た。
「はあ・・・ええっと・・・・その、なんだ・・・、経験にもよるんだけど・・・、そうだな。うん、秋彦君ならイケメン手当を上乗せして、850円でどうだい?」
そして、何を勘違いしたものやら、そんな返答が帰って来た。
イケメン手当の支給基準がどの程度の厳しさなのか、それを差し引いた基本給が一体いくらなのかが気になるところだが、どう考えても手当部分が高いとは到底思えなかった。
いろいろと不愉快で言い返したい気持ちがなくもなかったのだが、とりあえず俺は話題の方向性を修正して、改めて質問しなおす。
「すいませんが、ちゃんとした時給を教えてもらえませんか?」
傘立てに傘を突っ込みながら、南方さんも真面目な顔になった。
「何を知りたいのか知らないけど、まあ基本給は850円で、土日祝日と行楽シーズンは1000円だよ。そして超過手当が20%増しになる」
「そうですか・・・ということは、大体俺の計算とそうかけ離れてない筈だよな」
追記しておくと、俺のイケメン手当はゼロ円だった・・・まあ、どうせ冗談だと思うので、ツッコミはまた、後日出直したときまでの保留とする。
「ちょっと気になるなあ。・・・なんとなく俺にあらぬ容疑がかけられているような気がするんだけど、聞きたいことがあるなら、気持ち悪いから、はっきりと言ってくれないか」
そう言って南方氏はこちらへ近づいてくると、客である俺の目の前で腕を組み、じろりと見下ろしてきた。
「すいません・・・あのですね。慧生の収入が知りたいのですが・・・」
その迫力に気圧された俺はすぐに白旗を上げて、自分の疑問を彼に明かした。
最初はその場で、腕組みをしたまま。
途中からは、カウンターの奥に立ち、レジの前で事務作業をしながら、南方氏は一通り、俺の話を聞いてくれた。
その後で電話が鳴り、一旦店の奥へ入った彼は、ついでに上着を脱ぎ、荷物を置いてから戻って来ると、カウンターの向こうで煙草に火を点けて、目を細めてそれを燻らせながら、ゆっくりと話を始めた。
「なるほど、君が言いたい事はよくわかった。・・・それでは、まず、『Cappuccino』の、労働基準法違反疑惑についてだが・・・」
「そこまで言ってませんっ!」
俺は肝を冷やした。
下手をすると、入店禁止になりかねないところだった。
「とりあえず、慧生の時給は、あいつが城西(じょうさい)の食品化学課出身であることを考慮して、スタートが50円上乗せの900円で、その後は2度の昇給ののち、現在は基本が時給950円だ。加えて、あいつは土日祝日に必ず入っていて、休みは週に平日1日だけだ。だから、大体月給は手取りで17万から18万ぐらいの筈だぞ」
思ったよりずっと高かった。
「あ、あいつ・・・そんなに稼いでるんですか?」
「そうだな・・・先週は連休を使って、オータムキャンペーンがあったから、時給アップと手当もあって、今月は多分20万超えるんじゃないか?」
「マジですか・・・。オーナーさん、疑って本当にすいませんでした」
俺は起立すると、その場で素直に頭を下げた。
「いやいや、わかってくれたらいいんだよ。・・・ただな、確かに今のままだと、学校行きは難しいだろうな」
「どうしてですか? 慧生はそんなに金遣いが荒い奴にも見えないし、ましてこの先、春までさらに貯金すれば、全然余裕だと思うんですけど」
「心おきなく、自分の為だけに金を使えるのならな」
「えっ・・・」
「慧生の親父さんが、なぜリストラされたか知ってるか?」
「いえ・・・っていうか、親父さんって、会社をリストラされていたんですか」
それすら俺は知らなかった。

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